第6話「監視報告 第三十一号:献血日における班員の品行、ならびに血の出(揃って良好)に関する件」
夜が明けて、世の中はちゃんと俗っぽく戻ってきた。
夜祷堂のあの静けさ。誰も見てない堂で、名も知れない死者のために夜通し祈る人。あれを一晩ぶん浴びて帰ってきた朝に、まず思ったのはこれだ。
厨房の追加注文、二枚。まだ手をつけてない。
雀の涙の夜勤のおかげで、昼の商売が丸一日とんだ。注文は待ってくれない。信仰は割に合わないが、銀貨は几帳面だ。今日こそ片づける。仕入れた尊いもんは、胸の引き出しの奥にでもしまっておけばいい。商品にはならない。
そう決めて工房を出たら、廊下がやけに混んでた。
修道女がぞろぞろ北へ歩いてる。聖歌隊の子も、洗濯場のおばさんも、書記室の連中も。みんな同じ方向だ。
献血の日だった。
◇◇◇
三日に一度、施薬院で献血がある。
信徒の血を女神に返す。といっても深夜の祈りとは別の話で、こっちはもっと事務的だ。受付があって、列があって、順番に腕を出して、台帳に書かれて、帰る。お役所仕事だ。
うちの班には、この日がありがたい。なにせ全員、堂々と持ち場を離れられる。献血ですって言えば、誰も止めない。書記室の鼠も、文書院の柱も、厨房の盆も、みんな揃ってここに並べる。三日に一度の合法的なお茶会だ。
列に並んだら、前にいたのが洗濯場のファーマだった。
「あら、工房のミニアちゃん。あんたも血、出しに来たの」
ファーマ。洗濯場と厨房を縄張りにしてる、年かさのおばさんだ。この人のことは来た当初から聞いてた。曰く、この大聖堂で起きることは、起きた次の瞬間にはファーマが知ってる。曰く、伝書鳩より口が早い。あたしの聖画の客がどこの誰かもたぶんこの人に聞けば名簿が出てくる。
つまり、本職のあたしらよりよっぽど立派な諜報員だ。本人は洗濯物を畳んでるだけのつもりで。
「血くらい出しますよ。あたしだって信徒のはしくれで」
「はしくれ。あんた、信心ないでしょ」
開幕から見抜かれた。
「……顔に出てます?」
「血の出に出てるのよ。信心の篤い子はね、すうっと出るの。あんたみたいに渋るのは、たいてい、腹に何か抱えてる子」
血の出で人柄を読むらしい。道具は目利きじゃなくて世間話。
◇◇◇
列はのろのろ進む。
あたしらが入れるのは受付の手前の帯までだ。腕を出して、針を刺されて、終わったらそこでお引き取り。中で何がどうなってるのかは知らない。
これがうちの班の地味な泣きどころでもある。
うちで施薬院の中まで毎日入れるのはオティアだけだ。配膳で湯気の立つものを卓まで運ぶ。あたしらが回廊の十歩で唸ってる間に、この女は盆ひとつぶんの距離まで近づける。
その日も列の少し先にオティアがいた。
「中、入れるんでしょ」あたしは声をかけた。「いいなあ」
「配膳だから」
「ねえ。施薬院の中って、どうなってんの」
「知らない」
「毎日入ってるのに?」
「配膳しに行くだけ。見てない」
見てないんだ、この女。世界でいちばん近くまで行けるくせに、世界でいちばん何も見てこない。あたしが千切れそうなほど見たがってる場所を毎日素通りしてる。世の中ってのは本当に配り方を間違えてると思う。
入れない場所がある。その場所のことを唯一入れる女が何も知らない。二重に塞がれてる。
「で、台帳ってのは」あたしはファーマに向き直った。「献血の。どこにあるの」
「中の棚よ。鍵のかかった。施薬の係しか触れないやつ」
入れない場所の鍵のかかった棚。なるほど、厳重なことで。
「あんなもの、誰が盗むの」
「盗まないわよ。ただの記録だもの。誰がいつ、どれだけ、何色の血を出したか。それだけ」
それだけ。量と、色と、日付。
ふと、思った。あたしらは毎日報告書を書いてる。書いて、班長に削られて、上に送られる。書く時に、嘘も混ぜる。削る時に、都合の悪いところは落とす。送る時に、要らないところは要約される。あたしらの紙は何遍も人の手を通って、そのたび少しずつ正直じゃなくなる。
でも、あの棚の台帳は違う。
あたしらの誰も書かない。あたしらの誰も削れない。あたしらの誰も、手が届かない。鍵のかかった棚の中で、量と色と日付だけが、嘘もなく、誰の都合も混ざらず、ただ正直に積み上がっていく。
この大聖堂でいちばん正直な記録があたしらの手の届かない場所に毎日一行ずつ増えてる。
考えたら、ちょっと愉快になってきた。
◇◇◇
「ねえ、ミニアちゃん」
ファーマが声をひそめた。世間話のいちばんうまそうなやつを出す顔だ。
「あんたたち、ときどき、揃って血の出がいい日があるのよ」
心臓が、半拍、止まった。
「あんたとこの班。書記室のも、文書院のも、厨房のも。普段はばらばらなのに、ある日に限って、みんなして、すうっといい色を出すの。あたし、長いこと見てるから、わかるのよ。あれ、なんでかしらね」
ファーマの目があたしを覗き込んでる。
落ち着け。考えろ。この人は世間話の天才だ。世間話の天才が、うちの班の符牒を、半分言い当てかけてる。あたしらが揃ってここに並ぶ日には、たしかにわけがある。並ぶ順番にもわけがある。けど、それは口が裂けても言えないやつだ。
「……気のせいでしょ」
「気のせいじゃないわよ。長年の勘」
「勘ねえ」
「で、考えたんだけどね」ファーマは得意げに声をさらに落とした。「あんたたち、仲がいいんでしょ」
「は?」
「同じ班の子はね、心が通じるの。一人が気を張ると、みんな張る。一人が緩むと、みんな緩む。だから血の出まで揃うのよ。仲良しの証拠。微笑ましいわねえ」
仲良し。
あたしは危うく吹き出すところだった。プロの諜報員が、互いの素性も知らされてない細胞の連中が、心が通じてるから血の出が揃う。微笑ましい仲良し班。
そういうことにしておこう。一生、そういうことにしておこう。
「ええ。まあ。仲はいいんで」
「そうでしょう。あたしの目に狂いはないの」
でも、この狂いはあたしらの命綱だ。これからもどうかその調子で。
ファーマは満足そうに頷いて、それからふと別のことを思い出したみたいに言った。
「狂いといえばね。あたし、この大聖堂のことなら、たいてい何でも知ってるのよ。誰がどこで誰の悪口を言ったか、誰の縫い物がいちばん雑か、台所の隠し甘味がどこにあるか。全部」
「便利だね」
「でもね、ひとりだけ、引っかかりがないのよ」
ファーマは北のほうをなんとなく見た。回廊のずっと先を。
「あの方。枢機卿さま。あの方のことだけは、何にも入ってこないの。文句も、無理も、揉め事も。噂の種ってのは、人がどっかで何かをこぼすから生まれるんだけどね。あの方は、こぼさないの。何にも。だから、引っかかりがない」
引っかかりがない。
うちの班はその「引っかかりのない人」を毎日見張ってる。何でも知ってる人間読みの天才が館じゅうの噂を集めて集めて、ただ一人、形の穴が空いてる。その穴をあたしらが目で埋めようとしてる。回廊の十歩で。盆ひとつぶんの距離で。報告書三行で。
ファーマには言わないけど、その穴埋めはたぶん一生終わらない。
◇◇◇
列がまた少し進んだ。
前のほうで、若い声がした。澄んだ、よく通る声だ。聖歌隊の子だった。名前はたしかカンティア。歌で覚えられてるらしくて、施薬の係にも「カンティアさん」と名前で呼ばれてた。あたしの聖画もこの子の隊で評判らしい。本人から買いに来たことはないけど、隊のお姉さまがたがちらほら。
その子が針を刺されて、にこにこしながら言った。
「わたし、血の出がいいんですって。係の方が、感心してて」
「へえ」とファーマ。
「お祈りをちゃんとしてる子は、血の出がいいんですって。心が定まってるから。わたし、嬉しくて」
心が定まってるから。
そういう言い伝えがあるらしい。信心が篤いと、血がよく出る。聞いたことはなかったけど、いかにも修道院が好きそうな話だ。心がきれいだと血まできれい。けっこうなことだ。
「効能は描いてないんだけどなあ」
つい、口から出た。
「え?」
「いや、こっちの話。御利益とか、効能とか、そういうのはね、たいてい、後から人が貼り付けるんだ。中身とは関係なく」
聖画と同じだ。歌が揃うのも、血がよく出るのも、貼り付けた話だ。本当は、毎朝の稽古とか、若さとか、その日の体の調子とか、そういう地味な理由がある。でも人は地味な理由より、心がきれいだから、のほうが好きだ。あたしは商売だから、その好みに水は差さない。差さないが、信じてもいない。
カンティアはよくわからない顔で、でも嬉しそうに頷いてた。心が定まってる、と言われて、嬉しくない人はいない。たとえそれが、後付けの話でも。
◇◇◇
あたしの番が来た。
腕を出した。針が刺さった。出てきた血を係の人が小さな器に受けて、何か書き込んだ。量と、色と、日付。それだけだ。あたしの何を書かれるわけでもない。信心がないことも、報告書に嘘を混ぜてることも、夜中に尊いものを浴びて帰ったことも、ここには書かれない。
そういうものだ。台帳ってのは。書くべきことだけ書いて、あとは書かない。
書き終わった係の人がその器を盆に載せて、奥へ運んでいった。あたしらが入れない、鍵のかかった棚のある、奥へ。
そこにあれが足されるわけだ。今日のぶんが。
血止めの布を腕に当てて、あたしはなんとなくその布の下を見た。
隣でファーマも自分の腕を見てた。
その向こうでカンティアも、にこにこしたまま腕を見てた。
少し離れてオティアまで布を当てた腕をぼんやり眺めてた。あの何も見ない女が。
書記室の鼠も、文書院の柱も、たぶんそれぞれの場所で自分の腕を見たんだろう。
誰も何も言わなかった。
あたしも言わなかった。
◇◇◇
午後ようやく厨房に絵を届けた。
例の追加二枚だ。ずいぶん前にもらった注文を、夜番だなんだで、ここまで引っぱった。威勢のいいおばさんが両手で受け取って、布の上から拝んだ。慣れたもんだ。
「遅くなって、悪かったね」
「いいのいいの。間に合ったから」
何に間に合ったのかは聞かなかった。たぶん誰かの枕元の壁だ。毎朝起きて、いちばんに見える場所。
代金を懐に入れて、厨房を出ようとしたら、配膳台のところにオティアがいた。
「絵、評判いいよ」とぼそっと言った。
「ん?」
「聖歌隊。歌の前に、拝むんだって。出だしが揃うって」
「ああ、それは前から」
「あと、信心会のほうでも誰かがね、話してた」
信心会。
聖画はいつの間にか聖歌隊の枕元から、信心会のほうまで歩き出してるらしい。あたしの手を離れて、あたしの知らないところで勝手に評判を集めてる。引っかかりのない人の絵が、引っかかりだらけになって、館じゅうに散っていく。
「それだけ」とオティアは言って、盆を抱えて、行ってしまった。
ただのついでの伝言だ。この女は、ついでにしか、ものを言わないらしい。
◇◇◇
工房に戻って、注文の帳面を閉じた。
客名の欄は今日も半分が空きだ。名前なんて商売には要らない。
それより、信心会だ。
あたしの絵が信心会まで届いてるなら、そろそろめんどくさい連中の耳にも入る頃合いだ。信心会ってのは信心が濃い分だけ絵の見方もうるさい。誰がどう描いたか、何を描いてないか、いちいち言う。
評判が立つのは悪くない。
明日あたり、聖歌隊の稽古でも覗いてくるか。どんな顔で拝まれてるのか、見ておいて損はない。商売の偵察だ。
小さい痕がひとつ。
今日の、あたしの分の正直だ。




