第5話「監視報告 第三十号:夜祷堂入口の敷石一枚の復旧(一分の違いもなく)に関する件」
「夜番? あたしが?」
書記室で、あたしは聞き返した。聞き間違いであってほしかった。
「お前がだ」
班長は手元の紙束をとん、と揃えた。羽根ペンが今日も一本死んでる。
「夜祷堂のウィジリアが職人を寄越してくれと言ってきた。今夜だけだ」
「夜祷堂のウィジリア」
聞いたことはある。会ったことはない。うちの班の、夜番の人だ。昼勤のあたしらとは時間がずれてて、すれ違うこともない。
「要望書じゃないんですか」
うちの班の頼みごとは、たいてい紙で来る。書式があって、判子があって、回って回って、半月遅れで届く。
「あれは紙には書かない。班長のところに来て口で言って帰る。毎度そうだ」
「口で?」
「口でだ。書くと、残るからな」
班長は少しだけ肩をすくめた気がした。検閲する側のこの人にとって、紙に残さない人ってのは、たぶんいちばん扱いにくい部類なんだろう。
「で、なんで、あたし」
「名指しだ。元どおりにできる手を、と」
元どおりにできる手。
なるほど。あたしの手はたまにこういう呼ばれ方をする。ろくな呼ばれ方じゃない。たいていろくでもない仕事だ。
「入口の敷石が三つ目だったか、摩り減ってるそうだ。元の高さに戻せ、と。そういうの、お前、できるだろう」
できる。むしろ御家芸だ。本物そっくりに作る。寸分たがわず写す。
「……銀貨は」
「夜番手当が出る。雀の涙だが」
雀の涙。商売抜きの雀の涙の夜勤。厨房の追加注文も二枚まだ手つかずだってのに。
「あたし、昼の人間なんですけど」
「今夜だけだと言ってる。行ってこい」
◇◇◇
夜祷堂は、大聖堂の北のはずれにある。
昼は誰も来ない。夜にひとりだけ来る人がいるらしい。夜番のウィジリアだ。
行ってみたら、いた。
柱の影に——じゃない。柱の影はスティルラの趣味だ。この人は灯火のすぐ下に立ってた。あたしが入口に立った音でこっちを向いた。
「ミニアさん。工房棟の」
「うん。敷石、直しに来た」
「夜分にごめんなさいね。お休みのところを」
詫びられた。仕事を頼んだ側に。あたしの方が、頼まれて来た側なのに。
「いや、仕事だから」
「お足元暗いでしょう。そこ段がありますから」
灯火を一つこっちへ寄せてくれた。あたしが踏もうとした段のちょうど縁を照らすように。
妙な気分だった。あたしはこの人と今日はじめて会った。なのにもう三回くらい世話を焼かれてる。詫びられて足元を照らされてたぶんこのあと、お茶でも出てくる。
裏を探した。親切にはたいてい裏がある。何かを売りたいか、何かを隠したいか、あとで何か頼みたいか。三つのどれかだ。
ウィジリアの顔にはその三つのどれもなかった。ただあたしが転ばないといいなと思ってる顔だ。それだけの顔。
裏がないってのが、いちばん落ち着かない。
「敷石、三つ目だっけ」
「ええ。縁が丸くなってしまって」
膝をついて見た。なるほど摩り減ってる。縁が落ちて隣との段差がたぶん髪の毛二本ぶん低い。よくこんなの気づいたな。
「よく気づいたね、こんなの」
「あの方がここで一度つまずきかけたので」
あの方。
聞き返さなかった。聞き返すまでもなかった。この大聖堂で「あの方」と言えば相場が決まってる。
「それで、元どおりに?」
「ええ。元のとおりに。一分の違いもなく」
道具を広げて手をつけた。摩り減った縁に似た目の石粉を膠で起こして足す。乾く前に隣の石と肌が揃うように撫でつける。こういうのは得意だ。
「ここついでに面を取ろうか。角を落とせばつまずきにくくなる」
「いいえ」
やわらかいけど、迷いのない、いいえ、だった。
「元のとおりにお願いします。高さも角もそのままで」
「いや、こっちのほうが安全だよ。角が立ってないほうが足に優しい」
「優しくしたらあの方が迷ってしまうの」
手が、止まった。
「あの方はいつもの高さで、いつものように歩いていらっしゃる。ここはこの段、次はあの段、って。良くしてしまったらいつもと違ってしまうでしょう。違うと、たぶん、ここで一度、考えてしまう。考えなくていいように、昨日と同じにしておきたいんです」
考えなくていいように。昨日と同じに。
ああ、そういうことか。
あたしは「安全にしたいんだ」と思った。でも、違った。この人は安全にしたいんじゃない。あの御方に、迷ってほしくないんだ。ただ昨日と同じにする。
「……変なの。直す仕事を頼んでおいて変えるなって言うんだ」
「変えないために、直すんです」
ウィジリアはちょっと笑った。困らせてしまったかしら、という顔で。
あたしは石粉をほんのひとつまみ戻した。盛りすぎてた。元のとおりに。一分の違いもなく。
なんでだろうな。他人の物なら点ひとつ違えず写せる。証文でも割符でも、蝋の垂れ癖まで。なのに自分の絵だけは放っておくと手が勝手に上手くしてくる。今夜のあたしは上手くしちゃいけない。
手綱をきつく握る感じ。
◇◇◇
血祷の鐘が鳴った。
深い、低い鐘だ。その日に流れた血を女神に返す刻。修道院の一日のいちばん底。
「終わった?」
敷石を均しおえてあたしは聞いた。早く帰りたい。雀の涙のためにもうじゅうぶん働いた。
ウィジリアは答えなかった。
灯火を背にして立ったまま動かない。
つられて見た。
夜祷堂の奥灯明の小さな輪の中に白が差した。
その下に深い紅。昼の回廊で見たのと同じ人だ。違うのはまわりに誰もいないことだった。供も灯持ちもいない。たったひとりで暗い堂の奥へ入っていく。
ウィジリアが低い声で言った。
「今日引き取り手のない人がひとり運ばれてきたの。名前もわからなくて」
「……それで、あの人が」
「決まりでは一句の祝福で足りるんです。誰も来なくていいの」
誰も来なくていい。なのに、来た。
あの人は名も知れない死者のそばに膝をついて祈りはじめた。低い声で何かを唱えてる。遠くて言葉までは届かない。
「夜祷の句」ウィジリアが、誰に言うともなく、口の中で唱えた。「今日流れし命を、女神に返す。明日また流れる命を、女神に乞う」
一句で足りる祈りをあの人は夜通しやるつもりらしい。誰も見ていない堂で。誰も覚えていない死者のために。明日になれば、土に還ってそれきりの人のために。
あたしは贋作師だ。物を見る商売だ。本物と偽物の差は誰も見ない場所に出る。だから誰も見ない場所を見る。それが手順だ。
幻滅を探した。今夜こそ、と思った。誰も見てないんだから手を抜いたっていい。そういう一瞬を一個でいいから見つけてやろうと思った。
なかった。
灯明の輪の中の祈りは昼の回廊と一分も違わなかった。見られている時と見られていない時で何ひとつ変えない人だった。
……まいったな。仕入れるつもりなんてなかったのに。
隣を見たらウィジリアも祈ってた。
手を合わせて目を伏せて聞こえるか聞こえないかの声であの句を重ねてる。その手には何もない。
ふと思った。この人は班長のところへ口で報告する人だ。
いまのあれも書かないんだろうな。
書けないんだ、たぶん。あんなものは書いたらこぼれる。
あたしは何も言わなかった。言うことじゃない。
◇◇◇
東の空が、白みはじめた頃。
あの人は最後にもう一度だけ頭を垂れて来た時と同じ静けさで堂を出ていった。紅の裾が灯明の輪を抜けて夜祷堂はただの暗い堂に戻った。
ウィジリアが長い息をひとつ吐いた。それからようやく口を開いた。
「もうお帰りになっていい刻ですよ。お疲れさまでした。敷石、助かりました」
「仕事だからね」
道具を畳んでいたら、お茶を出された。やっぱり出てきた。温かいやつ。
「今日班長さんにお伝えしておきます。工房のミニアさんに、よくしていただいた、って」
「いいよ、そんなの。報告するほどのことしてない」
「しましたよ」
譲らなかった。世話を焼く人ってのは、こういうところで、頑固だ。
「あの方がいつものように歩ける。それは報告しておきたいんです」
書かないけど伝えはする。紙には残さないけど口では言う。何を残して何を残さないか、この人の中にはちゃんと線が引いてあるらしい。あたしの帳面とは引き方が違うけど。
帰りぎわもう一度三つ目の敷石を見た。
直したところはもうどこにも見えなかった。摩り減る前と同じ高さ。あの人も何も気づかない。気づかないように直した。
「上手くいったか、わからないな」あたしは言った。「気づかれなかったら成功なんだか失敗なんだか」
「気づかれないのが成功です」
ウィジリアは迷いもせずに言った。
「あの方が何も考えずにここを通り抜けてくださったら。それがいちばん」
何も考えずに通り抜ける。
そのために敷石を髪の毛二本ぶん誰にも気づかれないように戻す。そのために紙に残らない要望を班長のところまで口で言いに行く。そのために夜番をひとりで毎晩。
あたしの今夜いちばんの仕事は何も変わってないように見えることだった。
贋作師の、本望だ。
それがこんなに割に合わない本望だってのは今夜はじめて知ったけど。
◆◆◆
血祷を終えて、堂を出た。
外はまだ暗い。けれど空気の縁のあたりがわずかにぬるい。私の体は夜の長さをよく覚えている。今夜は長かった。
立っていた時間がいつもより長かったせいだ。一句で足りるところを夜通し唱えた。誰のためでもない、と言えば嘘になる。名がないから誰も来ない。誰も来ないなら私が行く。決まりではなくそれだけのことだ。
息を一つ継ぐ。歩き出す前に、もう一つ。
回廊はひと気がない。足の裏で石の継ぎ目を数える。順番は体が知っている。
入口の三つ目の石。
少し前からここがわずかに落ちていた。爪先が毎度ほんの半拍迷った。じきに直すよう頼もうと思っていた。
踏んだ。
迷わなかった。
半拍止まった。それはつまずいたからではない。つまずかなかったからだった。落ちていたはずの段が昨日と同じ高さでそこにあった。
誰がとはわからない。
夜祷堂にはひとりいる。息の浅さ、衣ずれの間合い、灯火を寄せる時のかすかな空気のうごき。声は、交わす。短い挨拶をひとつ向こうから。私がひとつ返す。それより先はない。
そういう者が、いる。
今夜はもうひとりいた気がする。慣れない足音だった。膝をついて何かを撫でるような低い物音。石をいじる音に似ていた。
……これか。
爪先でもう一度段を確かめた。落ちていた縁が戻っている。私が言う前に。
礼を言うべきだろうか。
声を出しかけてやめた。私が気づいたと知れば相手は次から私の歩く先を直すだろう。気づかれぬように直したのだ。ならば気づかぬふりが礼になる。
それに、と思う。
私が誰かに何かを返せるほど、私には何も残っていない。
息を一つ。もう一つ。脚が重い。朝が遠い。
そう思うことも近ごろは口に出さない。出したところで聞く者もない。
「……もう、歩け」
自分にだけ言った。
歩いた。三つ目の段を迷わず越えて。
誰かが私の歩く道を昨日と同じにしておいてくれた。それがどういう手でどういう心でなされたのか、私には見えない。
見えないものは、語れない。
ただ足の裏が覚えている。今朝は迷わなかったと。




