第4話「監視報告 第二十九号:上層指令『対象の紅茶の銘柄を特定せよ』の解釈(諸説あり)に関する件」
朝いちばんで持ち場に立った。
回廊のよく見える柱の陰。あたしの定位置だ。三日ぶりの監視業務。商売は抜き。画板は持ってきたけど、これは資料用だ。誰が何と言おうと資料用だ。
息を吸う。石と朝の匂い。本日のあたしは監視員だ。
三分で終わった。
「ミニアさん。班長がお呼びです。すぐ、って」
修練の子が息を切らせて呼びに来た。三日ぶりの本業、通算三分。戻ろうと思った日に限って、これだ。
◇◇◇
書記室にはもう三人いた。
机の向こうに班長。柱みたいにスティルラ。そして部屋の隅に見たことはあるけど話したことのない女がひとり壁にもたれて寝てた。立ったまま。手の中に焼き菓子の端っこを握ったまま。
厨房のオティア。配膳係だ。うちの班で唯一、毎日あの御方の間近まで行ける女。なにせ茶を運ぶ。回廊の十歩どころの話じゃない。卓まで、盆ひとつぶん。そしてうちの班で唯一そのことに何の感想もない女でもある。報告書は毎回三行だと聞いた。来た。書いた。寝た。それで通るのかって班長に聞いたら、通る、だそうだ。世の中は不公平にできてる。
班長が小さな紙片を机に置いた。封蝋の割られた跡がある。
「上から指令だ。読み上げる」
咳払いもなしに読んだ。
「『対象の紅茶の銘柄を特定せよ』」
沈黙。
「……以上ですか」
「以上だ。理由は書いてない」
理由は書いてない。当然だ。書いてあったら、指令じゃなくて説明だ。お上ってのは説明をしない。説明するくらいなら、最初から自分でやってる。
それにしても、だ。
「茶ぁ?」
「茶だ」
「あの御方の?」
「対象の、だ」
言い直された。はいはい。対象の。職務上はそう呼ぶんだった。
「こういうの、前にもあったんですか」
「あった」
班長は手を止めもしなかった。
「『対象の使う蝋燭の本数を確認せよ』」
「……それで?」
「確認した。報告した。それきりだ」
それきり。本数を数えさせて、何に使ったのか、使わなかったのか、上は何も言ってこない。うちの仕事は井戸に銀貨を投げるのに似てる。落ちた音すら返ってこない。
で、会議になった。なるのか、紙切れ一枚で。なった。うちの班は、紙一枚で会議のできる班だった。
◇◇◇
口火はスティルラだった。帳面を開いて、論証を始めた。長かったから、いちばんいい行だけ書き留めておく。
「飲食物の特定は、混入経路の管理である。すなわち、警備上の照会である」
毒の話だ。物騒だけど、筋は通ってる。通ってるが。
「警備なら警備の係があるでしょ。なんでうちに降りてくるの」
「……管轄の混乱である」
管轄の人がそう言うなら、そうなんだろう。
あたしも一説出しておいた。
「査定だよ。経費の。上の連中はたまに人の湯飲みの中身まで数えたくなるんだ。高い茶を飲んでないか調べて、帳簿と突き合わせる」
筋は通ってたはずだ。誰も拾わなかった。なんでだ。
班長は何も言わずに聞いてた。聞きながら書き留めてた。書くんだ、これを。
スティルラが二周目の論証に入った。今度のは長いうえに、途中から雲行きがおかしかった。贈答の慣行がどうの、茶葉の等級と家格の釣り合いがどうの。論証ってのは走り出すと止まらないものらしくて、止まったときには変なところに着いてた。
「——以上により。先方の家が、対象の、日常の嗜好を照会している可能性が、ある」
先方の家。
「縁談の身辺調査では」
言った。スティルラが言った。言って、自分の帳面を見つめたまま固まった。
部屋が静かになった。
縁談。縁談ね。なるほど、縁談。
胃の底がすうっと冷えた。なんでだ。あたしの縁談じゃない。誰の縁談でもない。まだ何も決まってない。何がだ。何も決まってないのは最初からだ。落ち着け。これは職務上の照会で、つまりあれだ、営業の話だ。お得意先がよそと専属の契約を結ぶかもしれないって話。そりゃ冷えるだろ、商売人なら。商売の話ってことにしておく。
誰も何も言わなかった。否定する者も、肯定する者もいない。
スティルラは帳面の同じ行を三度なぞって、線が濃くなりすぎて紙の裏まで抜けた。それから早口で付け足した。
「仮説である。検証されていない仮説は、事実ではない」
「諸説あり、と記録する。判断は上の仕事だ」
班長が締めた。お役所は今日も平常運転だ。説の真偽より、説が出揃ってることのほうが大事らしい。
「白枝」
声がした。
部屋の隅からだった。オティアが目を開けてた。いつから起きてたのか、そもそも寝てたのか、定かじゃない。
「……は?」
「対象の茶。アルトゥラの白枝。三番摘みの方」
全員が隅を見た。班長がゆっくり聞いた。
「なぜ知っている」
「配膳だから」
「いつから知っていた」
「ずっと」
「なぜ言わなかった」
「聞かれなかったから」
返す言葉がない。探す気も起きない。正しすぎる。
裏は取らないの、と聞きかけて、やめた。聞きかけたのはあたしだ。取るも何も。運んでるのはこの人だ。毎日。湯気の立つやつを。世界でいちばん確かな出どころがずっと部屋の隅で寝てた。
会議は半日。回答は一行。スティルラの議事録は三頁になってた。班長は三頁と一行を見比べて、息をひとつ吐いて、一行のほうだけ書きつけた。
あの一行、どこの誰が読むんだろうな。読んで、何に使うんだろう。
——考えても銀貨にならない。やめだ。
◇◇◇
散会ぎわオティアがあたしの横で止まった。
「厨房のが」
「ん?」
「絵、いつかって。聞いてこいって」
伝言だった。厨房の追加注文、二枚。まだ描けてない。
「描いてる。順番があるから、もうちょっと」
「そう」
それだけだった。それだけ聞いて、もう歩き出してる。足音が小さい。盆を持って歩く足だ。
「……ねえ」
呼び止めてから、何を聞く気だったのか、自分でもわからなかった。あの人は茶をどんなふうに飲むのか、とか。湯気の向こうでどんな顔をしてるのか、とか。聞いてどうする。描く気か。描くな。資料はもう足りてる。
「なんでもない」
「そう」
オティアは振り向きもしなかった。追わない人だ、徹底的に。
◇◇◇
午後持ち場に戻った。本日二度目の本業だ。通算はまだ一刻に届かない。
回廊は静かだった。あの御方は通らなかった。書庫の日じゃなかったのか、別の用か。理由はわからない。わからないことが今日も一個増えた。いい調子だ。
帳面はまっさらのまま、夕方になった。
書くことがない。いや、あるにはあるか。本日対象の茶の銘柄が判明。アルトゥラの白枝、三番摘み。あたしの手柄じゃないし、あたしの管轄でもないけど。
オティアの報告書を思う。来た。書いた。寝た。あれは手抜きじゃなくて、完成形なのかもしれない。書くべきことだけ書いて、あとは書かない。あたしの帳面は逆だ。書けないことばかり増えて、書くことがない。このごろは書かないことのほうで黒字だ。
明日は通るかな、北の回廊。
通ったら、今度こそ監視をする。見て、書いて、それだけだ。写生は、しない。
……資料が足りなくなったら、別だけど。




