第10話「監視報告 第三十五号:対象による班員の労い(一件)の精査(諸説あり)に関する件」
昼前の工房で注文の下塗りを乾かしてたら戸口の光が翳った。
見れば細長い影が立ってる。文書院の柱が柱を離れてうちの工房の戸口まで歩いてきてた。
「……スティルラ? どうしたの、こんなとこまで」
「招集である」
招集ってのは、うちの班じゃ滅多に出ない言葉だ。
ここ数日うちは平和そのものだった。あたしの報告書は毎日三行で済んで箱のいちばん上に乗って朱の一画も浴びずに綴じられていく。事件の起きる隙なんてどこにもなかったはずだ。
「あたし、何かやった?」
「お前ではない」
「じゃ、誰」
「厨房である」
オティア。あの女が何かをやらかすほうが珍しい。何かをやるのはあの女には労力だから。
「昨日付の厨房の報告書である。三行である。いつもどおり、三行である。だが」
スティルラはそこで一度言葉を切った。切ったというより、詰まった。この人が言い淀むのをあたしは初めて見た。
「中身は」
「言えない」
「なんで」
「口で言えば、本官の要約になる。要約は原文を損なう。原文は書記室にある。歩け」
なんのこっちゃ。けど、原文の番人みたいなこの人がここまで言うんだ。よっぽどの紙が箱に入ってたらしい。
廊下を行くスティルラの歩幅がいつもと違った。この人は歩く速さまで毎日同じ人だ。その同じが今日は崩れてる。紙一枚で。
◇◇◇
書記室には、先客が揃ってた。
机に班長。壁際に当の本人。夜番の人は、夜にしかいない。
オティアは壁にもたれて立ったまま半分寝てるみたいな目をしてた。呼び出された当人のはずなのに、この部屋でいちばん暇そうなのがこの女だった。
「揃ったな」
班長の机の上に紙が一枚乗ってる。離れてても分かる。行が三つ。
「昨日付の厨房の報告だ。読み上げる」
班長は紙を持ち上げもせず目だけ落として読んだ。
「『本日、対象に労われた。返事した。以上』」
労われた。あの御方が。うちの班の誰かを。
その短い中身が腹の底まで落ちるのに何拍かかかった。落ちた頃には部屋の空気が変わってた。誰も一歩も動いてないのに、全員の背筋だけが伸びてた。
最初に動いたのはスティルラだった。
「班長。発言を求める」
「許す」
「記録者に正確な文言の再現を求める。対象の発した労いの一字一句である」
オティアの目がゆっくりスティルラのほうへ動いた。
「労いだった」
「それは分類である。本官が求めているのは原文である」
「労いだった」
同じ答えが同じ拍で二度出た。二度目のほうが心持ち眠そうだった。
それからスティルラの論証が始まった。長かったから、最良の行だけ書き留めておく。
——記録とは原文である。原文を要約した時点でそれは記録ではなく感想である。
「感想」
オティアはその一語だけ拾って少し考えるような間を置いて言った。
「じゃあ、感想だった」
スティルラの手の中で帳面が、みし、と鳴った。
「……付言する」
立て直すのに三呼吸かかってた。
「当班の綴りに対象が班員へ言葉をかけた記録は存在しない。本官は全号を記憶している。存在しない。すなわち、これは初の——」
「書いてないだけ」
部屋の音が、一段、下がった。
書いてないだけ。つまり、あったのだ。前にも。紙にならなかっただけで、誰も知らない配膳の途中に、そういう一行が落ちてたことがある。
「……何度」
スティルラの声がわずかにかすれてた。
「数えてない」
数える女が数えない女に何度と聞いて数えてないと返された。いちばん聞いちゃいけない相手にいちばん欲しい答えを聞いた形だ。スティルラはそれきり自分の帳面に目を落として動かなくなった。
帳面は正しいんだろう。何も間違っちゃいない。ただ、世界のほうが帳面の外で勝手に動いてただけで。
次に動いたのは班長だった。
朱の筆を取って三行の上に構えて——降りなかった。筆が宙で止まったまま口だけが動いた。
「オティア。この報告は足りない」
聞き間違いかと思った。
足りない。この人の口から。四十一枚を一行に煮詰める人だ。書きすぎだ、削れ、まとめろ。そっちの言葉しか持ってないはずの人が行が三つの紙を前に足りないと言った。
「全部書いた」
「労いの中身がない」
「労いだった」
三度目が出た。班長は筆を戻して目頭を指で一度押さえた。
全部書いた、が本当なら、検閲にはもうやることがない。削る字のない紙はあの朱にとってたぶん壁だ。直すところがない、のもっと先。
それからは説の時間だった。
口火はスティルラだ。立ち直りが早い。論証はどれも長かったから、説の頭だけ並べておく。
一つ。規程の礼である説。配膳の労務に対して定められた礼式が存在する可能性。その場で規程集が引かれた。配膳に礼を定めた条文はない。
二つ。御方ご自身の礼法である説。規程ではなく作法。職務にある者へ誰彼なく等しく向けられるもの。検証不能。なにせ盆ひとつ分の距離まで毎日寄れる班員がほかにいない。比べる相手がこの世にいない。
三つ。そもそも労いではなかった説。祝福の定型句か何かを記録者が労いと聞き取った可能性。これは本人が一言で潰した。
「労いだった」
四度目だった。本日いちばん揺るがない声だった。といっても、寝言と区別がつかない程度にはいつもどおりの声だったけど。
説が三つ立ってどれも倒れたか倒せなかった。事実のほうは朝から一個も増えてない。
で、だ。
気がついたら、あたしの口が動いてた。
「ねえ。どんな顔で、言われたの」
部屋がしんとした。
規程でも原文でもない問いがよりにもよって絵描きの口から出た。自分の声が一拍遅れて自分の耳に届いて、それでようやく、聞いたんだ、あたしは、と分かった。
オティアの目がこっちへ動いた。
「盆、見てた」
「……顔は」
「見てない」
そりゃそうだ。配膳の途中だ。盆の上には湯気の立つものが乗っててこぼしたら一大事だ。だから配膳人は、盆を見る。世界でいちばん近くに立つ女は、世界でいちばん、見ない。
知ってた。知ってたのに、聞いた。
そのあとも細かい問いは続いた。続いたが書くほどのものは出なかった。出るわけがない。原文は出ない。顔は見てない。回数は数えてない。三方向から掘って出てきたのは「ない」が三つだけだ。
鐘が二つ過ぎた頃、班長がようやく筆を持った。
「記録する。説、三件。いずれも未検証。諸説あり、とだけ書く」
それからオティアの三行をもう一度頭からなぞった。
「『返事した』」
筆の尻でその行を、とん、と叩いた。
「返事の内容が書いてない」
言われて気づいた。あれだけの間、誰もオティアの返事のほうは聞かなかった。全員揃ってあの御方の言葉ばっかり掘ってた。
「追補を書け。返事の内容だ。本日中」
オティアは頷いたんだか首が傾いただけなんだか分からない角度で応えてするっと部屋を出ていった。呼ばれたときと同じ顔で。たぶん昼寝の続きの算段をしてる顔で。
散会だった。
廊下をスティルラと並んで戻った。
「収穫、なしだったね」
「あった」
「どこに」
「『労いだった』が四回。記録である」
……この人の帳簿じゃ「ない」も勘定に入るらしい。あたしの商売じゃ空振りは空振りなんだけどね。
◇◇◇
夕方、自分の三行を書いて書記室へ出しに行った。
本日のあたしの報告に昼の騒ぎは入れない。あれは監視の記録じゃなくて内輪の話だ。書くなら、班長の管轄だ。
廊下でオティアと行き合った。盆じゃなくて紙を一枚持ってた。
「追補」
すれ違いざまにそれだけ言った。
「もう書けたの。なんて」
「返事の内容。はい。以上」
「……それだけ?!」
「それしか、言ってない」
そう言って書記室のほうへ歩いていった。足音が廊下の途中で聞こえなくなった。あの女の足音はいつも途中から消える。
あたしはその場にしばらく立ってた。
三時間だ。班の全員と、規程集と、説が三つと、スティルラの論証がたっぷり三時間。それだけ注ぎ込んで、この世の紙に増えるのは一行きりだ。それも、あの御方の言葉じゃない。オティアの返事のほう。
はい。以上。
◇◇◇
工房に戻って描きかけの前に座った。
筆はすぐには持たなかった。今日の書記室を頭の中でもう一回開けてみる。職業病だ。引っかかった絵は寝かせると粗が浮く。今日のは粗どころじゃなかった。
あの場の全員が同じものを欲しがってた。
スティルラは原文を欲しがった。一字一句、違えずに。班長は足りないと言った。あの、削ることしか知らない人が、だ。で、あたしは——顔を聞いた。どんな顔で、って。
聞き方が違うだけだ。あの御方からうちの誰かへ向けて出た言葉。この世にそれが一行分存在したと聞いて寄ってたかって群がった。
尋問って看板が掛かってたけど、あれは市だ。誰も買えない品がひとつ出て買えない客が三人値段だけ聞いて帰った。
で、品の持ち主は値打ちを知らない。
仕入れ値ってのは、欲の薄い順につく。欲しい欲しいって手を伸ばす客ほど高値を掴まされて、要らないって顔の客にだけいちばんの品が安く回る。商売をやってれば、嫌ってほど見る図だ。けど、こんなに綺麗に決まった図は見たことがない。誰より欲しがらない女のところにだけ、誰もが欲しがるものが、向こうから歩いてくる。
オティアは今ごろ寝てるだろう。労われたことも尋問されたこともたぶん同じ棚に放り込んで。あの女の本日の大事件はせいぜい焼き菓子の端っこの大きさだ。
それでいいんだ、ほんとは。あの無関心はうちの班でいちばん上等な守りだ。あの盆を欲しがる側の誰かが持ってたらと思うと、ぞっとする。三日で報告書が紙の山になる。
問題は、あたしだ。
どんな顔で、って聞いた。班のど真ん中で。
欲しいものを、欲しいって顔に出すな。客の前では商売の負け、お上の前では命取り。前科がつく前から知ってて、ついてからは骨身に刻んだ、最初の鉄則だ。それを破った。手に入らないと分かってる品で。
しかも、だ。何て言われたのかも知らないんだ、あたしは。文言はない。顔もない。労い、って分類が一個あるだけ。形も色もない品物を見もしないで欲しがった。鑑定眼が泣く。
描きかけの聖人さまは板の上で今日も黙ってる。
労いの一言も、よこさない。当然だ。絵だし、描いてるのはあたしだし。
筆を取った。注文はあと三件。
銀貨は、誰のことも労わない。そのかわり、勘定だけは間違えない。今夜のところは、それで充分だ。




