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第11話「監視報告 第三十六号:当班の管轄外における図像の評判の流通(規模、御家中まで)に関する件」

注文の帳面が勝手に育ってた。


あと三件、と書いたのはつい先日のはずだ。それがいつの間にかあと九件になってる。あたしが手を伸ばした覚えのない数字が欄の下に列を作って待ってる。


聖歌隊が三。信心会が二。庶務方がなぜか四。


庶務方。帳簿と鍵束の人たちだ。御絵を拝みそうな顔はいちばんしてない連中だ。その連中までがこぞって、目隠しの聖人さまの板絵を一枚ずつ欲しがってる。


商売としては笑いが止まらない。


止まらないんだけど。


◇◇◇


止まらない数字をもう一度上から眺めた。


聖歌隊から始まって、祭服工房を経由して、信心会まで歩いた。そこまではこの前自分の足で見て回った。あたしの後付けの聖人さまが館じゅうをすいすい泳いでた。


その魚が、今度は庶務方の机の上に乗ってる。


庶務方の次は、どこだ。庶務方の上は、御家中だ。法教区のお偉いさんの周りだ。あたしの半刻仕事が、お偉いさんの机のあたりまで噂になって届きかけてる。


評判ってのはこうやって階段を上っていく。一段ずつ。誰が運んでるわけでもないのに。


階段を上りきった先に、何があるか。


見られる、だ。


人がたくさん拝むものは、人にたくさん見られる。たくさん見られるものは、いつか、誰がこれを描いたんだと調べられる。


そこまで考えてあたしは帳面を閉じた。


閉じても、数字は減らない。


◇◇◇


午後、工房棟の納品口に荷が着いた。


うちの工房は、館の物の出入り口を兼ねてる。外から入る品はいったんここの土間に下ろされて、それから館の各所へ散っていく。だから、あたしの仕事場にはいつも館じゅうの匂いがまとめて運ばれてくる。


その日の荷は大口だった。


戸口の外に荷車が二台。引いてきたのは見ない顔の男だった。年のころはよく分からない。日に焼けた手で縄を解いてる。荷の縄ってのは、解き方に癖が出る。この男の解き方は、急がず、雑じゃなく、ほどよく手を抜いてた。何百回も同じことをやってきた手だ。運び屋だ。


「工房の人かい」と男が言った。「下ろさせてもらうよ。厨房の分が、大半だ」


土間に木の箱が次々と積まれていく。


匂いが立った。


いちばん上の箱からまず燻した肉の匂いが来た。塩と煙と脂が固く乾いて落ち着いた匂いだ。その下の箱を開けるとこっちは乳の匂いだ。カセウス。硬く締まった乾酪が布にくるまれて何十と並んでる。指で弾いたらこん、と詰まった音がしそうな硬さだ。


「重いよ、それは」と男。「ひと冬ぶんだ」


ひと冬ぶんの乾酪。あたしの背丈ほどある箱にぎっしり。


次の箱は甘かった。メリス。蜂蜜の壺が藁に守られてずらりと。蓋の隙間からとろりと糖の重い匂いが滲んでる。その隣に蜜蝋の塊。同じ蜂から取れる甘いのと甘くないの。


土間がどんどん台所の匂いで埋まっていく。


干した果実の酸っぱくて濃い匂い。根の漬けもののつんと刺す匂い。香りの粒——遠い土地から来る、舌を焼く小さな実——を詰めた袋からは、開けてもいないのに鼻の奥を突く匂いが漏れてた。


最後の箱を開けたときあたしはちょっと唾を飲んだ。


クルストゥラ。


院の厨房が焼く堅い焼き菓子だ。蜜と乳と麦を練って固く焼き締めた日持ちのするやつ。それが焼きたてじゃないのに、箱を開けた拍子に、ふわっと麦と糖の焼けた残り香を吐いた。何十枚も重なってまだほんのり温かかった。窯から出してそう経ってないらしい。


ひと箱ぶんの温かいクルストゥラ。


商売柄、あたしはたいていのものに値がつけられる。けど、いまあたしの腹が出した値は商売とは関係のないやつだった。腹がぐう、と鳴った。


「腹、減ってんのかい」と男が笑った。「いっこ、つまむかい。割れたのが一枚ある。割れたのは数に入らねえからな」


「……いただきます」


割れたクルストゥラの端っこを、もらった。固い。前歯でこり、と割れて、それから口の中でゆっくり崩れた。蜜の甘さが麦の香ばしさの後ろから遅れて来る。


商品のためなら見栄も張れる女のはずなんだけど。この一枚の前では無理だった。


◇◇◇


男が空になった荷車を土間の隅に寄せた。


その動きの合間に男から別の匂いがした。


革と蝋だ。


荷を縛る革紐の汗の染みたなめした獣の匂い。それと、荷札に押された封蝋の冷えて固まった蝋の匂い。商売道具の匂いだ。男の上着にも手にもその匂いがしっかり染みついてた。


あたしはついその匂いを辿りかけた。


贋作師の癖だ。物の匂いには来歴が出る。この革はどこの獣のなめしだ。この蝋はどこの蜂のだ。男の手の革の染みの濃さは何年ぶんだ。匂いを辿れば男の歩いてきた道がだいたい見える。


そこまで嗅いでやめた。


運び屋の素性を当てたところで、一文にもならない。荷さえ間違いなく着けばそれで仕事だ。あたしの粗探しは銀貨にならない方向に行きすぎる癖がある。革の匂いを、革の匂いのまま、置いておく。


「で、御絵は」


男がふいに言った。


◇◇◇


御絵。


聞き間違いかと思った。荷の話の途中でいきなり何だ。


「目隠しの聖人さまの板絵。あんた、描いてる人だろ」


「……描いてますけど」


「いっぺん、見せてもらえないか。噂のやつを」


男の目が急に子どもみたいになってた。荷を下ろしてた手はもう止まってる。さっきまでの、何百回も同じことをやってきた手じゃない。何かを楽しみに待ってる手だ。


「噂。どこで」


「行く先々でだよ。おれは、あちこちの院に荷を入れる。どこ行っても、近ごろ、この館の御絵の話だ。目隠しの聖人さまの。御利益がどうの、よりさ」


男は声を少し落とした。秘密を打ち明ける顔で。


「中身が、いいんだとさ」


中身。


「あの御絵には、続きがあるって聞いた。一枚目があって、二枚目があって、だんだん話が進むって。身分の高い御方と、それを遠くから見てる名もない誰かの、その——文のやりとりみたいな。手紙の。届かない手紙の」


あたしは口を半分開けたまま固まった。


そんなものは、描いてない。


あたしが描いてるのは目隠しの聖人さまの立ち姿が一通りと、注文によって花を添えたり額をつけたりしたただの一点ものだ。続きもなければ、話も進まない。手紙のやりとりなんて、影も形もない。


「あの、それ、たぶん——」


「いいんだ、いいんだ」と男は手を振った。「種明かしはしないでくれ。おれは、こういうの、自分で味わいたいたちでね。次がどうなるか、楽しみにしてるんだ」


楽しみにしてる。


板絵に。


御利益でもなく、聖人さまの徳でもなく、男が楽しみにしてるのはありもしない「続き」だった。男の頭の中では、あたしの一点ものがいつの間にか、長い長い身分違いの恋の物語になってる。届かない手紙のやりとりに。


どの院で、誰が、その「続き」の話をした。なんで運び屋が荷の合間にわざわざ御絵の続きを楽しみにしてる。荷一口入れるだけの男がなんでそこまで——


でも、訊かなかった。


客がどこで何を聞いてこようがあたしの商売には痛くも痒くもない。むしろ、ありがたい。続きが楽しみだと客は次も買う。


「続き、ね。まあ、楽しみにしててください」


「だろ?」と男は、嬉しそうに頷いた。「次の荷のとき、また寄らせてくれ。新しいのが出てたら、見せてくれよな」


「効能は描いてないんで、そこは、各自で」


「ははっ。あんた、面白いこと言うな」


男は空の荷車を引いて機嫌よく出ていった。革と蝋の匂いを後ろに引きずって。


楽しみにしてるだけ、ってことにしておく。


運び屋ってのは長い道を一人で行く。退屈なんだろう。荷の中身に自分の物語をくっつけて、それを楽しみに次の院まで歩く。そういう客は悪い客じゃない。


そう思うことにした。


◇◇◇


その日のうちに書記室へ寄った。


膨れた注文のことを、班長の耳に入れておく必要があった。あたしの聖画はもうあたし一人の商売じゃない。御家中まで噂が届きかけてる以上、班の仕事にも引っかかってくる。報告は早いほうがいい。


書記室には班長がいた。机に向かっていつもの赤い筆を握ってた。


「班長。聖画の評判が、また広がってます。聖歌隊と、信心会と、それから庶務方まで。注文が、あと九件」


「九件」


班長は筆を止めずに繰り返した。


「庶務方にも、御家中にも、噂が回ってます。あたしの絵は、もう、あたしの手じゃ、止められない。歩く金貨にしたら、たぶん、勝手に、両替所まで行く。運び屋にいたっては、続きを楽しみにしてるってんだから、もう、書簡体小説です」


班長はしばらく何も言わなかった。


それから、机の脇に積んだ綴りの、いちばん上の一冊を引き寄せた。表に何も書いてない分厚いやつだ。あたしの知らない綴りだった。


ぱらりと、めくった。中はびっしりと字で埋まってる。誰かの言葉とその横に別の字で何か書き添えてある。同じ言葉を二通りに写してあるみたいだ。


「これは」


「お前たちの紙を、私が、読める言葉に直すための、控えだ」


班長は新しい一行をその綴りに書き足した。


「お前の聖画の評判が、どの口から、どう言われて、どう変わって伝わったか。それを、一つずつ、ここに、ためている。スティルラの『熱』も、ファーマの世間話も、庶務方の噂も、全部、形を変えながら、ここを通る。私は、それを、揃えて、しまう」


しまう。


「揃えて、しまうと、どうなるんです」


「散らからない」


班長は筆を置いた。


「噂は、放っておくと、勝手に育つ。続きが生えたり、尾ひれがついたり、別の話と混ざったりする。育った噂は、もう、元の形を取り戻せない。だから、入ってきた端から、ここに、元の形で写しておく。私の控えの中だけは、まだ、散らかっていない」


あたしはその分厚い綴りをもう一度見た。


館じゅうの噂がここへ流れ込んでる。聖画の評判も、続きの妄想も、庶務方のおしゃべりも。全部、この一冊に毎日一行ずつためられていく。流れ込む量は増える一方だ。あたしの絵が膨れたぶんだけ、この綴りも厚くなる。


それでも、班長は呑まれてなかった。


流れ込む噂を、一つずつ、つかまえて、元の形に直して、棚に揃える。どれだけ流れ込んでも、班長の手元では、噂はただの整理された記録だ。続きの妄想にも尾ひれにも、班長は乗らない。


「便利な綴りですね」


「便利ではない。年々、厚くなるだけだ」


班長はまた赤い筆を取った。


「お前の絵が、どこまで歩こうと、私は、写すだけだ。写して、揃えて、しまう。それが、私の仕事だ。流されはしない」


流されはしない。


短い言葉だった。誰に言うでもない独り言みたいな言い方だった。それがこの人の踏みとどまり方なんだと分かった。


館じゅうがあたしの後付けの聖人さまに、続きだの徳だの恋だのを、思い思いにくっつけて浮かれてる。その渦の真ん中で班長一人だけが浮かれてない。


そうやって自分だけは絵の外に立ってる。


「報告は、聞いた。注文が膨れたことは、記録する。図像の評判の流通、規模、御家中まで——そう書く」


「規模、御家中まで」


「それ以上、外へ出るなら、また、別の手を打つ。出ないように、見ておく。お前は、描いていろ」


描いていろ。


つまり、絵を止めろとは言わなかった。膨れた評判を班長は止める気がない。止める代わりに、写してしまう。流れは流れのまま、自分はその外で勘定をつける。


書記室を出るとき、班長はもうこっちを見てなかった。新しい一行を、赤い筆の隣の黒い筆で、控えの綴りに書き足してた。


館じゅうで、いちばん噂を浴びてる人が、館じゅうで、いちばん噂に呑まれてない。


◇◇◇


工房に戻ったら、土間がまだ台所の匂いだった。


厨房の連中がまだ自分の箱を取りに来てない。燻した肉と乾酪と蜂蜜と焼き菓子の匂いが混じり合って、夕方の工房にぬくぬくとたまってる。腹がまた鳴った。


本日の納品、受け入れ完了である。


——また出た。やめだ。荷の数を読み上げてると、班長の控えみたいに几帳面になってくる。あの几帳面は、聞いてるとうつる。


机に向かって膨れた注文の帳面をもう一度開いた。


あたしの半刻仕事はもうあたしの手を離れてた。続きが生えて、徳がついて、噂が階段を上って、運び屋の退屈しのぎにまでなる。


評判が立つのは悪くない。銀貨が増える。


でも、評判が立ちすぎると、見られる。たくさん見られると、いつか、誰がこれを描いたんだと調べられる。あたしには、調べられていいことが、一つもない。


明日は絵の出来をほんの少し落としておこうか。誰の目にも引っかからないありふれた一点に。広がりすぎた評判をわざとつまらなくして潮を引かせる。


でも、それもたぶん無駄だ。一度館じゅうの口に乗ったものはもうあたしの手じゃ止められない。班長の控えに写されるくらい勝手に歩いていく。


筆を取った。下塗りの乾いた板が三枚机に並んでる。あと九件。


銀貨は、噂を立てない。立てられた噂のぶんだけ、黙って、重くなる。重くなった巾着は、いつか、誰かの目に留まる。


それが今夜のあたしの勘定だ。

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