第2話「監視報告 第二十七号:対象の停止地点に出没した不審人物一名(身元判明)に関する件」
晨祷ってのは、いいものだ。
聖堂に人が集まる。歌が始まる。つまりこの時間、回廊には誰もいない。
だから、あたしがいま北の回廊で敷石の前にしゃがんでても、誰にも見られない。見られなければ、来なかったのと同じだ。論理は完璧。文句は受け付けない。
行かない、と言った覚えはある。あれは昨日のあたしだ。昨日のあたしの発言に、今日のあたしは責任を持たない。
問題の石は、すぐわかった。
回廊の北側、柱まで十歩の、なんの変哲もない一枚。昨日、あの人が止まった場所だ。
さて。
贋作師ってのは、物を見る商売だ。紙の漉き目、インクの沈み、封蝋の照り。本物と偽物の差は、だいたい誰も見ない場所に出る。だから誰も見ない場所を見る。それが手順だ。
石にだって同じことをするまでだ。
まず斜めから見る。朝の光は低くて都合がいい。彫りでも磨り減りでもあれば、影が出る。
出ない。
次、指の腹。冷たさ、湿り、目地の砂。隣の石と比べて、違いがあれば指が知らせる。
知らせない。
爪で目地をなぞって、砂を一つまみ。隣の目地の砂と見比べる。同じ砂だ。あたりまえだ。同じ回廊なんだから。
匂い。香油の一滴でも撒いてあれば手がかりになる。膝をついて、鼻を寄せる。
石の匂いがした。以上。
後ろで足音がして、跳ね起きた。心臓に悪い。振り返ったら、盆を抱えた厨房のおばさんが立ってた。
「おはよう」
「……おはようございます」
おばさんは何も聞かずに行った。何も聞かれないってのが、却って怖い。聞かれたら言い訳できる。聞かれなかったぶんは、向こうの胸の中で育つ。前科持ちの経験則だ。
気を取り直して、最後の手段。拓本——は、道具を持ってこなかった。それに、墨と紙を抱えて回廊の床を擦ってたら、さすがに言い訳の利く範囲を出る。やめておく。あたしにもまだ、世間体という財産が少しはある。
「……シロだ」
完璧にシロ。本物そっくりの、ただの石。むしろ感心した。あたしが「ただの石」の贋作を作るなら、こういうふうに作る。お手本みたいな、ただの石だ。
じゃあ、なんで。
なんであの人は、ここで止まった。
石は答えない。当然だ。石だし。収穫はあった。「何もない」っていう、とびきり使えない収穫が。
「動くな」
出た。
振り向かなくてもわかる。柱と同じ色、柱と同じ姿勢。文書院のスティルラ。うちの班の数える人は、晨祷の時間も持ち場にいるらしい。
「祈りは」
「出た。走って戻った」
「祈りって、走っていいんだ」
「規則にはない。調べた」
調べたんだ。
スティルラはあたしの三歩手前で止まって、帳面を開いた。
「観察位置から三歩以内に近づかない。昨日からの規則である」
「近づいてない。あたしが先に着いてた」
「では新規則を追加する。観察位置の敷石に触れない。本日からの規則である」
「もう触っちゃった」
「記録する」
書いた。本当に書いた。線じゃなくて字で書くんだ、そういうのは。
「ちなみに、あたしはいま何て書かれたの」
「『対象の停止地点を検分する不審人物一名。身元は判明している。当班の者である』」
「身内を不審人物って書くな」
「事実である。不審だった。膝をついて、石の匂いを嗅いでいた」
「見てたなら声かけてよ」
「観察した。声をかけては観察にならない」
ぐうの音も出ない。仕事は正しい。正しさの向く先がおかしいだけで。
スティルラは帳面を閉じかけて、閉じる前に、自分の線の列を一度だけ見た。
「……石に、何かあったか」
声が、少しだけ低かった。
「何もない。それが調べた結果。そっちは」
「四百二十一」
「は?」
「対象があの石を踏んだ回数。本官の——わたしの記録にある範囲で。立ち止まったのは、昨日が初めてである」
四百二十一回踏んで、止まったのは一回。
そこまで知ってても、理由はひとつもわからない。あたしの目とこの人の数字を足しても、出てくる答えは「何もない」と「初めて」だけだ。
「その線、ぜんぶあとで読めるの」
「読める。読めるように引いている」
「読めて、それで、どうするの」
「綴じる。第二十五号までの綴りと同じ場所に」
「読み返すことは」
「……ある」
短い返事ほど、中身が重い。深掘りはやめておいた。人の帳面の中身は、人の帳面の中身だ。
「管轄外だね、こりゃ」
「管轄外である」
意見が合った。この班に来て、初めてかもしれない。
帰り際、もう一度だけ石を見た。ただの石が、朝の光の中で、ただの石のままそこにあった。何もない一枚の石を、女がふたりがかりで調べて、何もなかった。今日も大聖堂は平和である。
◇◇◇
晩、工房棟の納品口に、祭服工房の子が来た。
約束は三日、仕上がりは二日。信用はこういう細部でできてる。前科持ちは、特にだ。
「板絵一枚。銀貨二枚」
布をめくって見せた。いつもの型の、単身の立ち姿。ただし昨日、実物を見てきた目で引き直した線だ。法衣の裾の落ち方が、先月までの絵とは別物になってる。腕が上がる理由が理由だけに、素直に喜べないけども。
子は両手を口に当てて、それからその両手で拝んだ。
「目隠しの聖人さまだ……」
「御利益は描いてないからね。祈りの効きは各自の信心しだい。あと、雨ざらしは厳禁。顔料が泣く」
「飾るのは部屋の中です。寝台の、枕元の壁」
「具体的だね」
「毎朝、起きたらいちばんに見えるように」
聞かなきゃよかった。信仰は、聞けば聞くほど据わりが良くて怖い。
子は巾着から銀貨を二枚、几帳面に数えて置いた。それで終わりかと思ったら、もじもじしてる。
「あの……それで」
来た。「それで」は追加注文の顔だ。商売をやってると、顔でわかる。
「聖歌隊の子がふたり、欲しいって言ってて。あと、厨房のおばさんも」
厨房。
朝の、盆のおばさんの顔が浮かんだ。いや、考えるな。厨房は広い。おばさんは大勢いる。
「三件ね。順番で、十日見て」
子は何度も頷いて、板絵を抱えて帰っていった。胸に抱えて、布越しに、落とさないように。
あれは買い物の持ち方じゃない。お迎えの持ち方だ。
◇◇◇
夜。自分の報告書を書いた。
本日の対象、晨祷ののち聖堂より出でず。嘘は書いてない。あたしが回廊で石を嗅いでた時間、あの人は聖堂の中にいた。会ってない。見てもいない。
書きながら、妙な発見をした。描くなと言われてから、余白ってのは急に広くなる。筆を持つたび、紙の右下が視界の隅でこっちを見てる。見るな。おまえはただの余白だ。何も生えるな。
報告は三行で済ませて、さっさと筆を置いた。触らぬ余白に祟りなし。
彩飾禁止令、効果てきめん。班長もさぞ満足だろう。
片付けにかかって、手が止まった。
明日の火種にしようと端に積んでた、板絵の切れっ端。その一枚に、いた。
親指の先ほどの、白い目隠しの立ち姿。例の、止まった一瞬のやつ。
「……いつの間に」
描いた覚えはない。もう言い飽きたし、聞き飽きた。手はあたしの手で、筆致はあたしの筆致で、出来は——見なかったことにする。
火種の山に戻した。戻して、三呼吸して、拾い直した。
燃やすのは、負けな気がした。何にかは、まだ知らない。
規則ってのはたいしたもんだ。報告書はあのとおり、きれいになった。絵が別の口から出てくるようになっただけで。
寝る前に、注文を帳面につけた。聖歌隊、ふたり。厨房、ひとり。型は例の立ち姿でいい。
と、祭服工房の子の言伝てを思い出した。注文は、もう一件あったんだった。
文書院のかたが——立ち止まってるところのを、だそうだ。北の回廊の、柱の手前の。
文書院。立ち止まってるところ。場所まで付いてる。
あの瞬間をこの目で見てたのは、世界にあたしと、もう一人しかいないはずなんだけど。
没収じゃなくて注文で来るようになったか。進歩なんだか、悪化なんだか。
ま、いい。銀貨は銀貨だ。
帳面に書く。立ち止まりの聖人さま、一枚。客の名前は——書かないでおく。管轄ってものがあるからね。




