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第1話「監視報告 第二十六号:報告書の余白に出現した図像一点(筆者不明)に関する件」

「誰。これ描いたの」


朝の工房棟で、あたしは自分の机に向かって誰何した。


返事はない。当然だ。一人なんだから。


机の上には、書き上げたばかりの報告書が一枚。文面は完璧だ。日付よし、字配りよし、誤字なし。お役所のお手本みたいな、堅くて退屈な字。そう見えるように書いてるんだから当然だ。問題はそこじゃない。


余白だ。


紙の右下の余白に、絵がある。小指の先ほどの大きさで、白い目隠しの人が立ってる。回廊を歩いてるときの横顔。法衣の裾の流れまで描き込んである。


誰が?


……いや、わかってる。筆跡ってのは隠せない。線の入り、抜き、手首の返し。どこからどう見てもあたしの手だ。あたしが描いた。記憶にないだけで。


「またかぁ……」


言っとくけど、あたしは信心ってものを一粒も持ってない。ミニア。元・贋作師。証書でも印影でも筆跡でも、なんでも本物より本物らしく作ってきた、手に職の女だ。なんでそんな女が修道服を着てるかというと、その手がお上にバレて、首根っこを掴まれたからで。要するに、手が良すぎたんだ。色々と。


で、いまの仕事がこれだ。修道女のふりをして、この大聖堂のいちばん新しい枢機卿さまを見張って、見たことを書いて、班長に出す。誰が何のために見張らせてるのかは、知らされてない。知る必要もない。書けば食える。それだけの仕事の、はずだった。


それだけのはずの報告書に、近ごろ、あの御方の絵が生える。


描いてるのはあたしだ。寝ぼけてるんだか、手が勝手なんだか、書き物をして、ふっと我に返ると、余白にあの人がいる。今日で三度目だ。


まず、削ろうとした。


彫刻刀のいちばん細いやつで、絵の線だけを浚う。普段ならできる。羊皮紙の表面を薄ーく一枚、文字を残して飾りだけ消す。御家芸だ。なにせ前科がある。


できなかった。


腕の問題じゃない。刃を当てて、三呼吸して、やめた。出来が良すぎる。今月あたしが描いた中で、文句なしにいちばんいい。寝ぼけたあたしは、起きてるあたしより腕がいいらしい。職人として、これを削るのは負けだ。何にかは知らないが、負けは負けだ。


じゃあ書き直しだ。紙ならある。文面は頭に入ってる。四半刻で写せる。


写した。


余白に、今度は斜め上から見た立ち姿が生えた。さっきより構図がいい。


もう一枚。


歩き出す半歩前の、裾のふくらみ。本日いちばん。


「やめろっての!」


机に三枚並べて、あたしは頭を抱えた。書き直すたびに上手くなる。なんなんだこれは。修行か。誰の。


落ち着け。原因を考えろ。あたしの手は、見たものを写す手だ。頭ん中のあの人が鮮明すぎるから、勝手に出てくる。なら、上書きすればいい。実物を見て、絵にならないところを確かめてくればいい。大丈夫、あの御方だって人間だ。近くで見れば、猫背の一つも、あくびの一つもあるだろ。幻滅は職人の薬だ。


我ながら筋が通ってる。あたしは帳面と炭筆を持って、工房を出た。


失敗作の三枚は袖の中だ。証拠ってのは、処分の心が決まるまで肌身から離さない。これも前科の知恵だ。燃やすとは言ってない。


◇◇◇


お目当ての御方は、昼前、きまって北の回廊を通る。書庫から聖堂へ戻る道だ。うちの班はそれを知ってる。知ってるどころか、たぶんこの件に関しちゃ大陸一詳しい。


回廊がよく見える柱の陰に入ったら、先客がいた。


「動くな」


低い声がした。柱と同じ色の修道服が、柱と同じ姿勢で立ってる。文書院のスティルラ。うちの班の、数える人だ。


「……今日は何を数えてんの」


「本官の——わたしの観察位置から三歩以内に近づかない。規則である」


「その規則、いつできたの」


「いま」


スティルラは回廊から目を離さずに言った。手元の帳面には線がびっしり並んでる。正の字ですらない。ただの線。たぶん歩数だ。この人は毎日あの人の歩数を数えて、毎日報告書に書いて、毎日班長に削られてる。それでも数えるのをやめない。何かの修行なんだと思う。うちの班はだいたい全員、何かの修行をしてる。


「ミニア。持ち場は工房棟のはず。ここは管轄外である」


「実物の確認。仕事の精度を上げに来た」


「精度」


スティルラがちらりとあたしの帳面を見た。まっさらな、まだ何も描いてないやつを。


よし。今日のあたしは、まだ無実だ。


三時祷の鐘が鳴った。


スティルラの背筋が伸びた。来る。


回廊の奥に、白が差した。


白い目隠し。白い手袋。その下に、深い紅の法衣。歩くたびに、裾が半拍遅れてついていく。雨でも降ってれば言い訳もできるのに、よく晴れた昼前に、あの人のまわりだけ空気の色が違う。


よし、見ろ。職人の目で見ろ。幻滅を探せ。


猫背は。ない。


着崩れは。ない。


皺は。……ない。なんでだ。布なのに。おかしいだろ、布なのに。


色もだめだ。目隠しの白と、法衣の紅。あの紅を顔料で出そうと思ったら金貨が飛ぶ。それが布になって歩いてる。歩く金貨だ。違う。値踏みをするな。粗探しに戻れ。あくびを待て。


あの人が、止まった。


柱まであと十歩、というあたりで。ふっと。糸の切れ目みたいに。


あたしの息も止まった。隣でスティルラの線も止まった。回廊には、誰の足音もない。


なんで止まる。そこ、何もないだろ。窓もない。像もない。ただの敷石の上だ。風? 鐘の残り? それとも——


三つ数えるあいだ、あの人は立ったままだった。


それから何事もなかったみたいに歩き出して、聖堂の側へ消えた。紅の裾が最後にひらりと角を曲がって、回廊はただの石の廊下に戻った。


スティルラが、長い長い息を吐いた。あたしも吐いた。


で。


手元を見たら、もう、いた。


帳面のどまんなか。立ち止まった、あの一瞬。裾の流れも、目隠しの結びの影も入ってる。描いた覚えは今日もない。なのに筆致は隅から隅まであたしので、出来は——くそ。本日どころか、今年いちばんだ。


そして遅れて、血の気が引いた。


描いてたってことは、手が動いてたってことだ。炭が紙を擦る音。しんと静まった回廊で。あの人が立ち止まった、ちょうどあのへんで。


聞こえてた?


いやいやいや。十歩はあった。聞こえるわけない。仮に聞こえてたとして、炭の音だけで「描かれてる」なんてわかるわけがない。わかってたまるか。普通は。


……あの人、普通だっけ?


横から、スティルラがあたしの帳面を覗き込んでた。


長い沈黙があった。


「……対象の図像の、無認可の作成」


「違う。事故。手が勝手に」


「手が」


「ほんとに。あたしは粗探しに来ただけで」


スティルラはあたしの顔と絵を三往復見比べて、それから、ものすごく嫌な結論を口にした。


「監視中の写生は監視記録である。記録の私蔵は規則違反。よって提出する。班長へ」


「は? 待って、それは」


「管轄である」


「あんたの管轄、どこまであるの!?」


スティルラは答えなかった。帳面からその一枚だけを、断ってから、丁寧に外した。両手で。角を揃えて。風の当たらない側に抱えて。


あれは証拠品の持ち方じゃない。お供えの持ち方だ。


ま、いい。よくないけど、いい。没収なら没収で、あの絵があたしの手元から離れるなら、枕を高くして寝られるってもんだ——


袖の中の三枚を思い出したのは、書記室の戸の前だった。


◇◇◇


書記室は、紙とインクと封蝋のにおいがする。


班長は手紙の山の向こうにいた。ケンスラ。うちの班の元締めで、あたしらの書いたものを上へ送る前に検閲する人だ。机の端で、書き潰された羽根ペンが三本死んでる。


スティルラが事情を述べた。簡潔に、正確に、最悪に。


班長は写生を一瞥して、それからあたしを見た。目は何も言ってない。何も言ってない目ってのが、いちばん効く。


「……自首します」


あたしは袖から三枚出した。前科持ちの知恵その二。お上に挟まれたら、自首は早いほど安くつく。


机に四枚が並んだ。朝の報告書三枚と、回廊の写生一枚。班長は何も言わずに、順番に読んだ。文面を読み、余白を見て、また文面を読んだ。四枚目の写生のところで、ほんの少し、息ひとつぶんだけ長く止まった。


読み終わって、班長は一言だけ聞いた。


「筆者は」


「不明」


即答した。嘘じゃない。描いた記憶は本当にないんだから、半分は本当だ。半分は。


班長はあたしを見た。絵を見た。もう一度あたしを見た。それから羽根ペンを取って、手元の紙に何か書きつけた。


「では、そう記録する」


え、通るんだ。


通っちゃいけない気がするが、通るらしい。お役所ってのはそういうところだ。書いてあることが、あったことになる。


班長は机の下から空の木箱を出して、四枚を一枚ずつ、間に紙を挟みながら収めた。重ねない。角を当てない。それから蓋をして、言った。


「本日付で通達する。報告書への彩飾、図像、装飾線の記入を禁ずる。班の全員にだ」


「全員って、描くのあたしだけでしょ」


「規則は個人の名前で作らない。それが規則のいいところだ」


深いんだか深くないんだか。


それから班長は新しい紙を一枚出して、今日の騒ぎを書類にした。さらさらと、たった三行。あたしの半日ぶんの大騒ぎが、三行。最後に一行を書き足しながら、声に出して読んだ。


「要約——異常なし」


異常なし。


どこがだよ。報告書に絵は生える、写生は没収される、規則は一個増える、立ち止まった理由は誰にもわからない。異常しか起きてないだろ、今日。でも、お上に届く紙の上では、この大聖堂は今日も何もかも正常だ。


……あたしね、贋作で食ってきたから、わかるんだけど。


いちばん堂々とした嘘ってのは、ああいう顔をしてる。


帰りぎわに振り向いたら、班長は没収の箱の蓋に、何か書きつけているところだった。字が、ちらっと見えた。


『参考資料』。


参考って、何の。


◇◇◇


晩祷のあと、工房で注文の彩飾を片づけてたら、戸口から声がかかった。隣の祭服工房の、若い子だ。


「あの、ミニアさん。目隠しの聖人さまの御絵を描いてくださるって、聖歌隊の子から聞いて……」


来た。もうこれだ。この修道院、伝書鳩より口が早い。


「描けなくなった。本日付で」


「そこを、なんとか」


「……禁止されたのは、報告書に描くことでね。板に描くなとは、言われてないな」


口が勝手に抜け道を見つけた。手だけじゃなくて、口までか。あたしの体に、あたしの味方はいないのか。


「銀貨二枚。三日待って」


若い子は拝むみたいに頷いて、帰っていった。あたしは下描きの板を引き寄せる。今日は楽だ。なにせ実物を見てきた。立ち止まった、あの一瞬がある。


線を引きながら、ふと、昔のことを思い出した。


ここに来たばかりの頃、一度だけ、あの人と正面から会ったことがある。文書院に納める書類の、運び役だった。受け取るとき、あの人は、ただの運び屋のあたしに向かって言ったのだ。


丁寧な仕事だ、って。


中身の半分は、あたしの偽造した書類だった。


あれは礼だったのか。皮肉だったのか。それとも、見抜いた上で言ったのか。本日の説は、こうだ。見抜いた上の、礼。……いや、それがいちばん怖いんだって。却下。明日考える。


絵は半刻で上がった。今年二番の出来だ。一番は、参考資料の箱の中にある。


筆を洗いながら、明日のことを考える。あの人が止まった、何もない敷石の上。聞こえてたのか、いなかったのか。確かめに行くなんて馬鹿のやることだ。行かない。行かないったら。


……晨祷のあとなら、空いてるな。

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