バルチック艦隊現る
連合艦隊は待った。
バルチック艦隊発見の報告をだ。
本来の計算では、昨日、一昨日、一昨々日にその艦影を見ているはずだったのだが。
ツシマ海峡に敷いた監視網に、敵の姿は映らない。
東郷長官はヤワラギ列島全体に、見張り台や観測船を配置していた。
それこそ、列島近海を航行する船舶のすべてをキャッチできるようにだ。
しかしその監視網にかからないということは………。
バルチック艦隊は広い太平洋の、遠海を進んでいるのではないか?
参謀本部にそのような疑念が湧くまでになっていた。
「大矢少尉、本当にバルチック艦隊は、ツシマを抜けてくるんだろうね?」
参謀本部付きの大尉が、こっそりと聞いてくる。
「天宮緋影の祈祷に、間違いはありません」
そのたびに俺は答えていたが、実を言うならば緋影にたよるより他に、まったく根拠は無い。
ただ空元気のように、心配いりません、と繰り返すより外はなかった。
そんなある日。
「やあやあ大矢くん、お待たせしたねぇ」
芙蓉が上機嫌で話しかけてきた。
瑠璃、輝夜、咲夜の三人は、緊張を顔にあらわしている。
来たか!
俺の頬もこわばった。
「ようやくバルチック艦隊を発見したよ」
芙蓉はカモメや飛び魚の使い魔を駆使して、大海の見張りをしてくれていた。
「場所は? 進路は?」
「う~~ん………この辺りかな? 進路はねぇ………」
海図を指差す。
艦隊のどちら側に太陽があるか、教えてくれた。
海図を丸めて、士官室に駆け上がる。
いや、途中で航海長に出くわした。
「航海長! 天宮緋影の従者が、バルチック艦隊を発見しました!」
「なにっ! どこでだっ!」
はい! と言って海図を広げる。
芙蓉の示したポイントを指で押さえた。
「………会敵時刻は、明日の午前中か。よし、上に報告する。大矢少尉も来たまえ」
連合艦隊の中枢、士官室に連れ込まれる。
そこには鬼より怖い顔をした、海軍と国の存亡を担う御歴々が、雁首を揃えていた。
「航海参謀!」
航海長は申告する。
「民間人天宮緋影の従者が、バルチック艦隊を発見しました!」
みんな立ち上がった。
来たか! 本当か? 間違いは無いのだろうな!
さまざまな思いが、表情から読み取れる。
航海長は参謀に現在位置を告げた。
俺の海図は奪い取られ、高級参謀たちが頭を寄せあって海図をのぞき込んだ。
その姿を笑ってはいけない。
海軍のお偉いさんであっても、いやお偉いさんだからこそ、この報告を心待ちにしていたのだ。
つまり、やる気満々!
誰一人として退官後の恩給や待遇など、考えていない。
安全な後方で、無責任な指揮を摂ろうなどとは、考えていない。
「俺たちがやらなければ、バルチック艦隊に国が犯される! オロシヤの兵が大挙押し寄せ、国が犯される!」
その思いで一杯だった。
「やりましょう、長官!」
「御命令を、長官!」
「バルチック艦隊は間違いなく、ヤワラギ海に来ます! というか、もう入ってきています!」
「長官!」
「………………………………」
部下の呼び掛けに、東郷長官は瞑目していた。
深くなにかを考え込んでいるようだった。
その鋭く厳しい目が、開かれる。
そしてまず呼んだのが。
「補給参謀」
「はい!」
「燃料と水は、充分かね?」
「はい! いつでもいけます!」
「………補給参謀」
「はい!」
「今夜は肉がいいなぁ。できれば、ゴツい牛肉なんぞが………」
「はい! 準備させます!」
「いやいや、不公平はいかん。将兵すべて、ひとしく肉を食わせてくれ」
「はい! わかりました!」
つまり、今夜の抜錨は無いということだ。
出撃は明朝、あるいは未明。
バルチック艦隊を引き付けて討つつもりなのだ。
「あぁ、補給参謀」
「はい!」
「天宮緋影さんには、縦だか横だかわからんような、ゴツい牛肉を与えてやってくれ。彼女こそ、救国の艦隊を導く女神だ」
それと、長官のポケットマネーから、緋影のためにワインが振る舞われることとなった。
夜。
海軍の食事は使鬼たちにも好評で、六人分の食事を申請していた。
それをおか持ちに入れて運ぶのが、俺。食器の運ぶのが緋影。
そして窓も無い士官用の狭い寝室で、肩寄せあっていただくのが日課だった。
ドン、と四角い牛肉の塊。
「これはさすがに、食べきれませんねぇ」
いかに東郷長官の好意と言ってもだ。
つーか、本当に縦だか横だかわからんような肉を出しやがったか、あのオヤジ。
まあ、約束実行の精神は、男としては見習いたい精神ではあるが。
「緋影さま」
輝夜が手を挙げた。
「この輝夜、海軍飯を一人前平らげたところで、まだ胃袋には弱冠の余裕が御座る。………お手伝いいたしましょう」
ふむ、俺もワインを楽しんだら、きっと食欲が倍増するだろう。
「俺も少しは手伝えるかな?」
「わ、私もがんばるけんね! 緋影さま、しばし御時間を!」
咲夜もワイングラスを傾けた。
空いたグラスに、瑠璃がトプトプと注ぐ。それも、間髪入れず容赦なくだ。
芙蓉はすでに出来上がっている。
「戦さ! 戦さですよぉ、大矢くん! いよいよヤワラギ帝国の運命を賭けて、大一番だ!」
狭い室内だってのに、俺の背中をバンバン叩いてくる。
「芙蓉?」
「なにかな、大矢くん?」
「この一戦、勝てるよな?」
「もちろんだよ、私たちがついていて、ひ~ちゃんがいるのなら、ヤワラギ帝国に負けは無いよ!」
ただし、と付け加える。
「もちろん人は死ぬ。敵味方問わず、この海戦でたくさんの人間が命を落とす。故郷で子供が待ってる兵隊さん、年老いた母が待ってる兵隊さん。まだ女の子と手を繋いだこともないような兵隊さん。誰であろうと彼であろうと、みんな死ぬ。あるいは手足を失い、それでも生きて帰って田んぼや畑に挑まなきゃならない兵隊さんも、たくさん出てくる」
芙蓉は真顔で言った。
「なんで人間は、戦さなんかしたがるんだろうね? 軍人の大矢くんなら、わかるかな?」
なんて嫌な質問なんだか。
当然、答えることはできない。
なぜなら俺は、軍人だからだ。
戦争屋が自分たちのことを、サルからいくらも進化していない生き物だとは、さすがに言えなかった。
人間は縄張り争いをするサルのことを、笑うことはできない。
なぜなら人間の行いなど、サルと大して変わらないからだ。




