第九章 さまよえる海人
オクタリアの首都、オクタリンの東の外れにサコッシュという村がある。
オクタリンの街の賑わいとは打って変わって寂れた村だ。寂れたとはいっても織物などは盛んで、王宮御用達の店もある。この村が寂れているのは人口が少ないことに因るもので、その原因は村の外れにあるミップモップという森のせいだ。
この海藻の森は特別深く、暗い。
即ち、妖物が棲むのに好都合な条件を満たしているのだ。妖物の中には害のないものもいるが、大抵は攻撃的で、腹を空かせた妖物に出会ったらまず無事ではいられないと人々の間で囁かれている。その妖物の巣食う森が隣接しているので、人々はこの近くに住みたがらないのである。サコッシュの村を治める海主のサムソンは、領民から吸い上げる地代がが少ないのでいつも苦労しているという。
その村のガンとも言えるミップモップの森の片隅に、採集袋を手にした女性の姿があった。
彼女の名はサンドラ。ミップモップの森の近くに居を構え、縫い子をしてたつきを立てている。年は二十五。家族は母が一人。独身だ。
採集袋の中には大小様々な貝や骨、海藻などが入っている。だが、いつもよりは少ない。潮の流れが変わったのか、いつもの場所に求めているものがなかったので少し奥まで足を伸ばしていた。あまり奥へ行くと妖物が出没するので普段は避けている。だが夜ではないのでまだ何とか安全だとふんだ。
思った通り吹き寄せられた小貝が溜まっていた。これらは穴を開けたり紐で括ったりしてボタンや飾り帯などになる。縮れた海藻はフリルやレースのようにして利用する。特殊な技で織り上げられた布を裁断して縫い上げるのが彼女の仕事だ。
王宮御用達であった母仕込みの腕はよく、自分で調達してくる小物や飾りのセンスがよいと評判でもあった。特に、貝殻を加工したボタンやスパンコールなどが素晴らしい。応用でアクセサリーも作るので、これも引く手数多である。
勇気を出して足を伸ばしたおかげで今日も採集袋はいっぱいになった。拾いながらもアイデアは膨らみ、帰ったら早速仕分けをしようと腰を上げた。
何かが目の端に引っ掛かった。
見慣れないものが転がっている。
いや、見慣れないわけではない。転がっているのは人だから見たことはある。見知らぬ顔ではあったが不気味ではない。場所に似つかわしくない、という意味で見慣れなかったのだ。
(男の人?)
海藻の茂みに転がっているのは若い男性だった。整った顔立ちをしている。髪は短髪で黒く、大柄だ。立てばサンドラより頭ひとつ分は優に高いだろう。だが太ってはいない。袖や裾から除く手足は太く逞しいが、筋肉質で引き締まっている。
鍛え込んだ身体だ、と思った時、背中の大剣に目が行った。
男の背には斜めに剣帯が掛けられていた。その剣帯に収まっているのはどう見ても剣だった。それも大振りの。滅多に使いこなせる者はいないと言われる重たい剣。もちろんサンドラは間近に見るのは初めてだった。
(軍人さんかしら?)
それにしては軍服ではない。旅装だ。それもかなりいい物だ。縫い子をしているので物の良し悪しはわかる。サンドラの元へも、これくらい上等の布を持って依頼に来る者は珍しい。
(どこかのぼんぼん!?)
それにしては大剣が不似合いだが、それと頷けるような気品とかわいらしさも寝顔からは感じられる。
(どうしたのかしら?…かなり、ハンサムよね…)
いかなる故あって行き倒れているのかよりも、その容貌に、サンドラは見惚れてしまった。髪と同じ色をした眉は適度に太く、きりりとしている。閉じているので色はわからないが、目元も涼やかだ。鼻筋は通っているし、口元も意思が強そうに引き締まっている。頬が些かこけていた。
「もし…」
俯せになった肩を揺すって呼び掛けてみた。息はあるようだ。
身体を揺すってみて気がついた。気を失っているのであれば介抱してやりたいが、この身体を自分一人で家まで運んでいくのは不可能だと。
大剣を除いたとしても、サンドラより重いことは確実である。十キロできけばよいがおそらく無理だろう。それに、自分の荷物もある。
これはどうあっても気付けをして起こさなければどうしようもない。帰って村の人を頼んでもよいが、サンドラはこの場所を他人に知られたくない。いざという時のためのとっておきの採集場なのだ。
(仕方がないわね…)
サンドラは周りを見回し、ある海藻を見つけると、毟り取って咀嚼した。飲み込むことはせず、ぐちゃぐちゃになるまで歯ですり合わせるようにして舌でまとめる。
何とか男を仰向けさせると、鼻を摘んで顎を下に引っ張った。開いた口の中に自分の口の中のものを流し入れる。
唇を離すと手で押さえた。母直伝の気付け薬だった。
暫く待つと、男は目を開けた。
何色だろうとわくわくしていたが、想像していたのと全く違うので驚いた。
オクタリアでよくある水色や灰色ではない。琥珀色でもない。何と黒だった。少し茶がかっているか。このように濃い色の瞳はここオクタリアでは珍しい。
旅装であることもあってか、他国人かしら、との思いが頭を掠める。
男は数秒ぼおっと目の先にあるものを眺めていたが、不意に頭がはっきりしたようで勢いよく起き上がった。その動きたるや敏捷で、今まで気を失っていた人とはとても思えなかった。
視界にはサンドラの姿も周りの景色も入っていたようである。
「ここは…!?…あなたは、どなたか!?」
そう言い終わるまでに、男は仰臥のまま右膝を立てた姿勢を、右膝はそのままに左膝をついた姿勢にまで変えた。人にものを尋ねる姿勢ではないとの配慮を一瞬のうちにしたものと思われた。
「ミップモップの森ですわ」
サンドラは答え、安心させるように微笑んでみせた。「私はサンドラ。この森の裏手に住まっておりますの」
「ミップモップの森…」
聞いたことがない、と男の口調は言っていた。
「オクタリアのミップモップの森といったら結構知られてますのよ。妖物がいるという悪い方の噂ですけれど」
「妖物…。オクタリアですか。ここは…」
「!?…どちらからいらしたの?」
まるで今までオクタリアにはいなかったかのような男の物言いに、サンドラは首を傾げた。
「え!?…………」
答えようとして、男は押し黙った。
自分はその答えを持っていないことに気がついたのだ。
「…あなた、お名前は?」
ちょっと変だな、と思い、サンドラは質問を変える。言いたくない事情があるのかもしれないし、と。
「……」
これも、男は答えることができなかった。
「お聞きしてはいけないことだったらごめんなさい。この森へは何をしに?どうやっていらしたの?」
「………」
「いえね。旅のお方でも、この森を通ることは滅多にしないものだから…」
「………」
口数が少なく、というかなくなってしまった男の表情は冴えない。サンドラが問いを浴びせるほどに、不安と焦りの色が男の顔を暗くしていく。
その目の色の濃さも影響しているのだろうが、男の瞳は翳りを帯び、底知れぬ海の深みへ沈んでしまったように見えた。
「あなた、もしかして…」
サンドラが言い終わる前に、男は両の手で己が頭を抱えた。
「オレは…オレは…誰だ?オレの名は…!?何をしに…どこへ行こうとしていたのだ?オレはどこの…何者なんだ!?」
「やっぱり…」
男は記憶を失くしていたのだ。何が原因かはわからない。頭をひどく打ちつけると記憶喪失になることがあると聞くが、まさか間近に実例を見ることになろうとは思わなかった。
「オレは…オレは…」
男はパニックに陥りそうだった。少なくともサンドラにはそう見えた。
自分で自分がわからない。
それはどれほどのことだろう。
不安で怖くて足元が掬われるようで…。きっと、どうしようもないほどいたたまれないのに違いない。
そう思ったら、サンドラはこの男が哀れで、痛々しくて、愛しささえ感じた。
「オレは…」
その言葉しか発せなくなってしまった男の顔を、サンドラは優しく抱き寄せた。
ハッとして男が身を引こうとするのを引き止めて、聖母のようには優しく胸に抱き締め、撫で付けた。
「落ち着いて…。大丈夫よ。あたしがついてるわ。…きっと、いつかは思い出せるわ。大丈夫よ…」
「……」
「あたしの家に行きましょう。ちょうど男手が欲しかったの。母の足腰が弱ってて…。お医師さまの所へ連れて行くのも一苦労なのよ。あなたさえよければいつまででもいていいのよ。ゆっくり、思い出すといいわ」
「……」
諭されて男はしばし呆然となすがままだった。が、男の目を覗き込んで促すサンドラの身体が離れたのに気づくと、一歩下がって片手で額を抑え込んだ。
「…情けない…。大の男が女性の前で取り乱し…大変失礼した」
「そんなことないわ。当然よ、気にしないで」
「先ほどのお申し出、本当にお受けしてもよいのだろうか?察するところ女所帯のようだが、他にご家族は?」
取り乱してはいても察しはいい。こちらの言ったことを正しく理解している。
「いないわ。母とあたしの二人だけよ。言っとくけど、大黒柱はあたしよ」
男の気分を軽くしようと、ちょっとおどけてサンドラは言った。
「だが…それでは問題があろう。やはりオレはあなたに世話になるわけにはゆかぬ。親戚でも知り人でもない見ず知らずのあなたに…」
「見ず知らずは今のあなたにとって世の中の人全てなんじゃないの?」
「それは…そうかもしれないが…」
「心配いらないわ。うちは村外れよ。付き合いも仕事ぐらいしかないし、遠縁の者が遊びに来たとでも言っとけばいいわ」
「しかし…」
「今オクタリアは新女王の即位でお祭り調子だもの。首都に近いここなら、親戚を頼って上京したって言ってもおかしくないわ」
サンドラの説得を男は眉尻を下げつつ聞いている。
「あ、それよりも…そうね。いっそ、あたしの婚約者だってことにしておけばいいか。仕事で遠くに行っててやっと帰ってきたことに。…どう!?」
サンドラが上目遣いで見ると、男はものすごく情けなさそうな顔をした。明らかに婚約者と聞いて戸惑っている。
見れば妙齢の若者だ。口振りから老成して見えるとしても、自分よりは年下だとサンドラは判断していた。若い男の子をちょっと揶揄うつもりもあった。
「こ…婚約者、というと…やはりそれなりの対応をしなければならないのだろう?」
「人前だけでいいのよ」
「……」
人前だからこそ困る。と男の顔は言っていた。
「あなたは知らなかったでしょうけど、あたし達、もうとっくに口付けしてるのよ」
「え!?」
男の目が飛び出した。
「気を失ってたから、あなた。あたし一人ではどうしても運べなかったし。気付け薬を飲ませたの。口移しで」
「……」
「だ・か・ら。気にしないで世話になりなさい。あたしは魅力的だからムラムラくることもあるだろうけど、その時はその時よ。あなたがいいと思ったらあたしもその気になるだろうし、お断りだったら即逃げ出すわ」
サンドラはあくまで年上を気取っている。そうすることで優位に立とうとしている。赤の他人の男を家庭内に引き入れるには、そういう上下関係が必要だった。
ならば無理して引き取らなくてもよさそうなものだが、それはそれ、サンドラもオクタリアの女であり、困っている人を放って置けない肝っ玉母さんなのだった。
男はさっきから赤くなりっぱなしである。若いとはいっても成人して何年かは経っているだろう。海人の常として女性関係の一人や二人ありそうなものだと思ったが―しかも、この男前で―意外や純情ではないかと、サンドラは初々しくさえ思ったのだった。




