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第八章 幻想即興曲

 一平には幻想が見えていたのだ。

 パールと共に行きたいと思うあまり、一平は海上に浮かんで行くパールの幻を現出させた。だが、それは二ヶ月前の在りし日のパールの姿ではない。服も着ていず、足もない。まだ幼魚だった頃のあどけない人魚の姿。一平が守ってやらねばと思い詰めた、長く苦しい旅路の頃の、何者にも邪魔されない二人きりの至福の時間を、彼は望んでいた。

「待て。パール。そっちはだめだ。鯨の通り道だぞ」

 一平が止めてもパールは夢中で気が付かない。

「ほら、鮫だっているじゃないか。戻って来い!」

 言うそばからパールの周りを数頭の鮫がうろつき出した。パールは進路を塞がれて右往左往している。

「ボクの言ったことを聞いてなかったのか?夜は黙ってそばを離れちゃいけないとあれ程…」

 泳ぎ回る魚の隙間を縫ってパールの腕を取り、引き寄せる。素直なパールはされるがままだ。


 と。

 急流が沸き起こった。

 足元を掬われ、体勢が崩れるのをかろうじて踏みとどまった。背後から現れたのは大きな黒っぽい塊だ。ムルロアで出会った怪物だとわかる。

 慌ててパールの腰を抱え直した。あいつの食欲に付き合ってやるわけにはいかないのだ。

(冗談じゃない…)

 何だってこんなに一時に、いろんな敵が現れるのだ。鯨や鮫はともかく何だってあの怪物まで…。確か奴はパールが施術をしておとなしくさせたはずだ。

 パールが治したにしろそうでないにしろ、攻撃を仕掛けてくるのであれば彼らにとってそれは敵だ。手加減したり躊躇したりすればこちらがやられる。



 一平は背中の大剣に手を伸ばした。よく馴染んだずっしりとした重みが手応えとして返ってくる。抜き身の剣は手入れが行き届いていて、いかにもよく切れそうだ。

 鋭い刃先を惚れ惚れと眺めると身の裡に力が漲ってくる。かつては毎日のようにこの剣を振り回して身を守ってきたものだった。守人となってからは―いや、トリトニアに着いてからだ―真剣で敵対するものがめっきりと減り、刃を血糊で汚すことも骨を断ったために刃こぼれを起こすことも稀となった。日々の鍛錬こそ欠かさぬものの、切れ味を実感した最後の記憶は二ヶ月も前に遡る。


 傍らにはパールがぴたりと張り付いている。刃先の怖いパールは身を引きたいはずだが、それよりも一平から離れる方が怖いのでこうしている。いつものことだ。

「あの怪物を殺しちゃうの?」 

 パールがおずおずと尋ねた。

「…場合による…」

「あの子は悪くないよ!?」

「こっちの命を守るためだ」

「じゃあ、青の剣にしようよ。聖なる光の力の方がいいよ」

 パールの言うのはもっともだ。青の剣の力ならば、この怪物も死なずに済むかもしれない。聖なる光が魔を浄化する可能性は極めて高い。

 だが…。


「だめだ。青の剣は右宮だ」 

 一平が今携えているのは大剣のみである。

「目を瞑ってろ」

 一平は言い放つと向かってくる怪物に正対し、剣を構えた。

 吸引される。

 踏ん張っても掴まっても無駄だということはわかっている。

 対抗策としてはただ一つ。

 自ら相手の懐に飛び込んで行って中から破壊するのだ。

 パールを連れて危険な賭けに出るのはどうかと思われた。だがもう選択の余地はない。一平は己の身を投げ出した。

 怪物の口に飛び込む寸前、入り口を切り裂いた。

 衝撃で怪物が怯む。

 容赦なく、口の中を縦横無尽に切り付ける。

 血液と共に体液が吹き出し、辺りの視野を奪う。しまいに歯と思しきものを蹴り付けて、一平は怪物の外へ出た。



 どこから現れたのか、一頭のイルカが泳ぎ来る。

 一平たちを目掛けてやってきたイルカのパドだった。彼も一平の親友だ。道中仲良く喧嘩しながら大西洋を北上した。パドのおかげで旅程はぐんと短縮された。

「こんな所でうろうろしてていいのか?大事なお役目があるんじゃないの?」

 パドには知らせていない。いや、知らせる手段がなかったのだ。それなのに、一平が守人になったことを知っているような口振りなので不審に思ったが、そういうこともあるかとすぐ思い直した。


「ああ。オクタリアの女王の件か。もっと詳しく調べる必要はあるが、オレの印象としてはかなりやり手だ。初めて会ったのにもかかわらず、オレのことも懐柔しようとしてきた。そして何より常識の感覚がまるで違うのに驚いた。陛下に報告するには十分だろう。他でもない、陛下自身がオレの感触だけでよいと言われたのだから」

「そうじゃねーよ。パールをトリトニアへ送り届けるんだろって言ってんの」

 パドは一平の言葉を一蹴する。

 一平も、ああそうか、と思う。何だか無茶苦茶だが流されてしまう。

「パドは…何してるんだ?タイミングよく現れてくれて助かったが、お姉さんには会えたのか?もし暇なら、今一度オレたちに付き合ってくれないか?」

「何言ってんだよ。もう道案内なんか必要ねえだろ」

 確かにそうだが、パドがいると早い。


「そう言わずに。…な?」

 一平はともかく、パールの消耗を軽くしたくて一平は言い募る。

「しょーがねーなあ。おらっちも、嫁さんに無断で行くわけにゃいかねーからよ」

「パド。お嫁さん貰ったのか。おめでとう」

 一平は破顔する。

「一平もだろ。かわいくて優しくて、高貴なお姫さんだっていうじゃないか」

「うん。…子どもも生まれたんだ。男の子だよ。アスランっていうんだ」

 パドの言う妻の姿を思い出して一平はあれ?と思う。なぜ、パールに尻尾があるのだ?

 隣にいたはずの少女を見ると、少女は大人になっていた。背丈も伸び、顔つきも大人びて美しい。もちろん尻尾はなく、清楚なドレスを着ている。胸には赤ん坊まで抱いていた。



「パール!?」

 妻は一平に赤ん坊を差し出した。

 一平が受け取ると赤ん坊の頬に優しくキスをして微笑んだ。

 そして何も言わずに一平に背を向け、泳ぎ出した。

「パール!?」

 呼び止めるが応えはない。

 パールの姿はぐんぐん遠ざかってゆく。

 その先には光の輪があった。

 オパール色に輝く、人一人が通れるほどの大きさの淡い光の輪。

 その輪の中に、パールは身を滑り込ませた。

 砂の中に潜り込んだかのように、光の輪がパールを飲み込んで閉まってゆく。

「パール!!」

 一平は慌てて後を追った。


 その間にも、光の輪はどんどん輝きを失っていった。

(あの光がなくならないうちに、入らなくては…)

 そうしなければ二度とパールには会えないという強迫観念が一平を突き動かしていた。

 だがそれは叶うことはなかった。

 光の輪はそこにあったが、勢いよく飛び込もうとした一平の侵入を冷たく拒絶して跳ね返したのである。

 衝撃は半端ではなかった。脳震盪を起こして気を失うほどに。

 彼はその場に頽れた。

 何も考えることができなくなり、大事な記憶を手放した。



 オクタリアの宮殿では小さな騒ぎになっていた。

 例の寝台の美女が女王にご注進したのである。

 賓客が女性の手に落ちなかったと言うことはこれまで一度もない。

 オクタリアでは何百年も前からこのような方法で各国の大使を懐柔し、様々な有利な約束事を取り付けていたのである。

 トリトニアは距離が離れていることもある上に、女の園ということで女性が使者に立つことが多かったから、情報が不足していたと言えよう。知っていたら、例えオスカーでも傷心の一平をオクタリアに寄越すことは控えたに違いない。

 オクタリアにとって一平を取り逃したことは大きな失態であったが、これを放っておくことはもっと大事に繋がる。その辺の教育は夜伽の女たちにも徹底して施されていたのでいち早く報告が行ったのである。


「変わった男よの」

 報告を聞いたオクタポーダの第一声はこれだった。

「やはり、我が行くべきだったか…」

 本気か冗談かわからない顔でそう呟く。

「…まことに…。私めの力不足でございます。しかし…入室して私に気付いてからもほとんどと言っていいほど動じず…。本当に生身の男であるのかと疑問を感じずにはいられないほどでした。もしや、不能なのでは?とさえ…」

「不能で子どもが作れるかえ?」

 トリトニアの青の剣の守人に息子がいることはとうに承知である。

「…御意…」


 しばし考え込み、オクタポーダは言った。

「よい。そなたの話から察するところ、一平どのは精神に異常を来していると考えられる。夜伽の女王の異名をとるそなたが剣もほろろに扱われたとあっては、そう判断するしかない。トリトニアへは『一平どのご乱心により逃亡』との知らせを飛ばせ。そして密かに行方を探させるのだ。なに、今宵のうちの出来事だ。まだそう遠くへは行っていまい」

「はっ」

 参謀が承り、部下に伝えに退出してゆく。

 その後ろ姿を見送りながら、オクタポーダはひとりごちた。

「せっかくオクタリアでも極上の美女を用意してやったというのに…。あの若さで二ヶ月も女っ気なしというのは考えられん。周りも放っておくはずがないと思うのだが…」

オクタポーダにはどうにも理解ができなかったのである。一平の亡き妻への一途な愛が。



 オクタリアの兵たちと共に、諜報部の精鋭が捜索に当たったが、トリトニアの青の剣の守人の行方は杳としてとして知れなかった。

 それもそのはず、オクタリア陣はまるで見当違いな所を探していたのである。 

 一平が幻想の中に出現させたパールは実際には影も形もなかった。だがパドのことは他のイルカで代用していた。パールと共にぐんぐん逃げた時、イルカの持つスピードで相当の距離を進んでいたのだった。

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