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第七章 夜の女王のアリア

 夜更けまで続いた舞踏会が終わり、やっと一平は任務から解放された。オクタリアに到着したのは明け方だったので、丸一日慣れない宮廷で女性の相手ばかりしていたことになる。時折給仕にやってくる男性の従者を見ると心が軽くなるような気がするほど気を違う一日だった。

 オクタリアの従者に案内されて通された部屋は大袈裟なまでに整えられていた。壁の至る所に飾り布や壁掛けの類が掛けられていて、まるで品揃えの豊富な店舗のようだった。

 趣味は悪くない。どれをとっても女性らしい細やかさが表面に出ていて感心する。さすがは女性上位の国だと思わせるものがあった。

 

 だが、一平には不要だ。オクタリアの男たちはこのようなものを好む質なのかもしれないが、質実剛健な気風のトリトニアの水に馴染んだ彼には些かうざったく映った。こんなものに使う金と労力があったら、国民の暮らし向を向上させることに費やすべきだと考えてしまう。青の剣の守人職にある身としては当然の考え方だ。一平は就任して一年と経たないが、そんなところはもう既に、すっかりトリトニアの要職のひとつになりきれていた。

 

 他国の女王にお目見えした後とあって、さすがの一平も疲れを感じていた。今日はもう何もせず休んでしまおうと、剣帯を外し、正装を解いた。荷は既に運び込まれていたので、夜着を引き出すと掴んだまま寝台の帳を引き開けた。

 一枚でも邪魔だと思うのに、ここの帳は三重にもなっていた。中へ入るにつけ、素材は少しずつ薄くなる。が、外からは中の様子はまるで見えない。

 おかげで気づかなかった。

 一平が今しも休もうとしている寝台の中に、既に別の誰かがいることに。


 通常の一平なら、見えなくても気がついただろう。人の気配を敏感に察する能力は守人として必要欠くべからざるものだったから。

 が、今の一平は普通の状態ではなかった。絶望と諦めの境地にある投げやりな今の彼の神経はまともに働いていない。さすがに一国を代表する公務とあって、昼間の謁見などでは気をしっかり持っていたが、一人になるとどっと気が抜けた。

 やっと辿り着いた寝台に、取り敢えず腰を下ろした。

 肩を落として背中を丸めていても、筋肉が鍛えられたものであることは隠せない。見苦しいほどではなく均整のとれた見惚れるほどの背中が、引き締まった腰へと続いている。

 一平はゆっくりと左腕を上げ、手にした夜着に袖を通そうとした。

 と。


「見事なお身体ですわね。さすがはトリトニアの武の頂点に立つお方」

 華やいだ女性の声が後ろから降りかかってきた。

 一平はハッと振り返る。

 愁眉を顰め、不覚、と舌打ちする。

 飛び退ろうとしたが、女性は既に一平の腰に絡んでいる。一平の背に頬ずりをしながら見上げる目は媚を帯びて光っていた。

 その身体には何も身につけていない。素早く動いて一平に取り付いたためか、上掛けは激しく乱れて尻の盛り上がりをも見せていた。



「…誰だ!?」

 不審な眼差しを、一平は向けた。

 目的は明らかだ。彼は何度かこういう目にあったことがある。

 パールしか目に入らぬ一平には、ふるいつきたるくなるような豊満な美女の裸身も絵に描いたもの程度にしか映らない。だから今までその手の誘惑に屈したことはなかった。

 今も全くその気はなかったが、、目的はわかっていたので『何者か』だけを尋ねた。

「おまえ、とだけお呼びください」

 女性は名乗らない。名乗る必要がないのだ。

 即ち、誰であっても同じなのだ。目の前に供された魚は魚であればよく、女は女であれば条件を満たしているということなのだ。

 この女性は賓客である一平に供された『もてなし』なのだと確信した彼は、動じぬ顔で言った。

「オレはこのようなもてなしは好かぬ」


 女性は眉をひくつかせたが、すぐに気を取り直して言った。

「見上げたお心がけ。でも女に恥をかかせるものではありませんわ。せめてお味見なさいませ。意外とお気に召すかもしれませんことよ」

 言いながらも女性の手は一平の胸を這い上がってくる。それに伴い、背にはぴたりと二つの肉の塊がくっついた。

「二つ、尋ねたい。おまえはオレが誰だか知っているのか?そしてこれは、女王陛下の差し金か?」

「無粋な方ね。誰の差し金でもいいではありませんか。私は女であなたは男。だからこういうことをして差し上げられるのですわ。陛下はあなたのことをとても気に入られたの。だからできる限りのことをして喜ばせてあげたいのよ。本当は陛下自らここに来てもてなしたいくらい…」


 一平の背筋がゾクっとしたのは女に背中を愛撫されたからではない。あの女王が自分の床に裸で忍んでくるところを想像して怖気が走ったのだ。

 好感を持たれているのは感じていた。いや、好感などという生易しいものではない。あの女王は一平に対してびんびんたる秋波を送ってきていたのだ。

 一瞬でも一平がびくっと震えたのを感じたと勘違いした女は、なお一層媚を含んだ声で言った。

「あ・た・し・も・あなたが気に入ったわ」

 這い上がった指先は肩を回って一平の喉まで来ていた。

「あたしに飽きたらすぐつぎの()と代わるように言われたけどとんでもないわ。朝まであたしが独占しちゃう」

「一方的だな。オレの気持ちはお構いなしか」

 うんざりだ、という口調で一平はため息を吐く。

「あら。男の人はみんな好きでしょう?こういうことが。当然よ。そういう生き物なんだから」

「……」



「女だって、好きなのよ。だって、よりよい子孫を残すためにはより強い因子が必要なんだもの。多くの人と関わって探さなくちゃ。そのためにもとても役に立つ仕事なのよ、あたしの役目は。

「…仕事で、しているのか!?」

 そういう職種があることは知っていた。しかし、街中ならともかくこんな、仮にも王宮の中で、とは考えなかった。事実、トリトニアにはない。少なくとも王宮の中で春を売る娘たちを飼ってはいない。


「何を驚いているの?かわいそうだなんて思わないでよ!?あたしは好きでしているんだから。ね。…早くしましょうよ」

 女は急いている。本当に、心からその気なのだ。一平のことを気に入ったというのも嘘ではないだろう。一平はそれだけ魅力のある男だったし、若いし、それに錯覚でも気に入ったと思えばこの仕事もやり易かろう。


「悪いが…オレにその気はない。オレを誰だか知っているのなら、オレが妻子持ちだということも承知のはず」

「それが何か?一人としか交わっちゃいけないわけじゃなし…」 

 今度こそ、一平は目を丸くした。

 同じポセイドニアの中にあっても、オクタリアとトリトニアではこうも常識が違うのかと唖然とした。


(オクタリアは一夫一婦制じゃないのか?)

 ガラリアでもレレスクでも一国の王からして女を囲っていたから珍しい話ではないのだろうが、どうにも一平には納得できない。

「とにかく…退出してもらえまいか。オレは疲れている。今日は何もせずぐっすりと眠りたいのだ」

 公の仕事で来ている者を無碍には追い出せない。一平は精一杯下手に出て懇願した。

「疲れているなら余計よ。癒してあげる。あそこを。楽になってよ」

 そう言って一平の下半身に顔を寄せた女を、一平は思わず突き飛ばした。

「よせっ!!」

 そんなところを癒す必要はない。

 妻を失って二ヶ月以上経つが、癒すというのはそういうことではない。パールはそんなことはしなかった。彼女は存在そのもので、心で、皆を癒した。癒すという言葉を下衆なことに使うな。



 いつの間にか一平は息を切らしていた。

 激しい運動をしたわけでも病気でもないのに。

(パール!パール!!…おまえに癒されたい)

(なぜ、おまえはいないんだ!?)

(こんな…こんな女を当てがわれるほど、オレは落ちぶれた。おまえがいなければ、オレは生きる術を見つけられない…)

(なぜ死んだ!?なぜ、オレより先に逝ってしまったんだ)

(後も追えない…。アスランを放っておけない。なぜ、オレになど頼む!?)

(なぜ一緒に来てと言ってくれなかった!?あんなにいつも、オレの後をくっついてきたくせに…)

(おまえはもう、オレが一緒にいなくても平気なのか!?)

 まるで、パールがまだ生きてこの世のどこかにいるかのように、一平の思考は働いていた。ただ故なく離れ離れになってしまった恋人たちのように、いや、パールが一平を見限って去って行ってしまったかのように、一平はパールの後を追いかけたがっていた。

 置いてけぼりにされた子どものように、一平は為す術もなく立ち竦むか、涙を流して鬱憤を晴らすしかない。どちらにしろ、大の男が―それも並よりでかい―して似合う姿ではなかった。


 だがその状態に、一平はあった。

(オレはだめだ。おまえがいなければ…)

(待ってくれ。オレを置いていかないでくれ)

(皆そうだ。皆、オレを置いていく。母ちゃんも、父ちゃんも、さっさとあの世に行ってしまった。一緒に育ったのに、翼の奴だって先に逝った。それなのにパールまで逝ってしまうのか。オレより後に生まれたくせに、オレより先に行くのか!?順番が違うだろう!?)

(オレのことを何度も助けてくれたのに、おまえが先に死ぬのか?そんな理不尽が許されるものなのか?トリトン神よ!?)

 

 一平は己の妄想の中に取り込まれていた。

 傍らの様子はもう目に入らない。

 一平の急な変わりように女は戸惑っている。

 明らかに様子が変だとわかる。

 苦痛に歪んだ顔をしたり、情けなさそうに笑ったり、涙を流して手を差し伸べたり、何かに狂ったように地団駄を踏んだり…。狂っていると思われても無理からぬ行動だった。

 心配になり、女は一応一平を宥めようと手を伸べた。

 これではいくら何でも行為は無理と判断し、一平が着ようとしていた夜着を着せかけた。


 一平はその手をも振り払った。

 何を思ったか、荷の袋の元へと急ぎ、中から旅の装いを取り出した。ここへ着くまでの道中着用していたものだ。旅装とはいえ、守人仕様の誂えであり物は良い。何を始めるのかと思っている間に手早く身につけ、さらに大剣を背負った。

「どうし…」

 女の問い掛けなど全く耳に入っていない様子で、一平は貴賓室の窓から飛び出した。

「待って!どこへ行くの?」

 返事をすることも振り返ることもなく、彼は一目散に海上を目指し始めた。



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