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第三章 守人の弟子

 その翌日から―

 一平の様子は一変した。

 パールの死を直視して絶望した一平は腑抜けと化した。

 今までの彼を知る誰もが目を疑うほど、一平は見るからに惚けて見えた。

 あの堂々とした、誠実で意欲的な彼はどこへ行ってしまったのか。

 ぼんやりとしていることが多くなり、毎日欠かさなかった身体のトレーニングもしようとしなかった。

 食欲は減退する。何をするでもないのに面やつれがしてくる。

 まるで惚け老人だ。

 今まで拠り所にしていたものをなくすと、急に年寄りは惚けるという。今まで日課にしていた仕事を取り上げてもそうなることが多い。

 まさにその状態だった。


 一平は守人になりたくてなったわけではない。

 変な言い方かもしれないが、一平は守人になろうとしたのではないのだ。彼が欲しかったのはパールの心。なりたかったのは王女のパールに相応しい夫というポジションだった。

 それがイコール守人の地位だったから、彼は目指した。

 パールのそばにいて彼女を守りたい。守人となり、共に剣を守ることで、パールのいるこの国を守る。そのことがパールを守ることになる。そう信じればこその選択だった。

 適任であることを見抜いて提案したのはオスカー王だった。青の剣の守人となれれば娘を嫁にやろうと、一平の目の前に最適な餌を吊り下げたのだ。

 そして一平は見事にその期待に応え、自力で守人の座を勝ち取った。


 だがそれはパールがいればこそ。

 一番守りたい核となるべきパールがいなければ、目的も望みもなしくずしに崩れてしまう。

 一平はするべき目標も生き甲斐をも見失っていたのだ。

 伝説(いいつたえ)の勇者が自分のことであり、珊瑚姫がパールであると知り、戸惑いながらも日々力の限り精一杯生きてきた。だが、その伝説はすでに終焉を迎えた。人々を遍く癒してこの世を去ったパールと共に、自分の任務は終了したのだ。

 だったらこの守人稼業はもう廃業するべきなのではないのだろうか。仕事は全て、終わったのだから。

 

 パールと一緒なればこそ、頑張ってこれたのだ。

 パールと一緒なればこそ、やり遂げる自信もあったのだ。

 でも。

 そのパールはもういない。

 一平には何もかもが無意味に思えた。

 一日前まではごく普通に―いや、人並み以上に精力的に―働いていた一平が、突然のこの体たらくである。人々の驚愕と戸惑いは大きかった。

 ―勇者は気がふれた―

 そういう噂も出回った。

 事実、仕事には無気力で、暇さえあれば息子の遊び相手に日がな一日明け暮れるようになっていた一平だった。


 

 一平の変化に真っ先に気がつき頭を抱えるようになったのは、侍従長のブルッフだった。前任のミカエラに勝るとも劣らず、新任の守人に心酔していた彼は、なんとかしてこの事態を早めに打開しなければと、必死で一平を宥めたりすかしたりした。

 本人は何とも思っていないようだが、守人のこのような腑抜けた状態が世間に知れるのは不名誉であると同時に、民衆の不安を煽ることになる。最愛の人を失ったという点では同情の目が集まるだろうが、武人の頂点に立つ者が執務もままならないほどの精神状態に陥ってはならないのだ。


 ―青の剣の守人がいればトリトニアは大丈夫。守人がどんな時でもしっかりと国を守ってくれる―

 人々はそう信じ、守人を頼みの綱としているのだから。

 このことは自分一人ではどうにもならないと悟ったブルッフが相談を持ちかけられるのは一人しかいなかった。

 前守人であるミカエラだ。彼はブルッフの竹馬の友でもある。

 国民にも、国家の長であり一平の舅でもあるオスカー王にも気づかれる前に何とかしたいと、ブルッフはミカエラに泣きついた。


「まさか。そんなことのあろうはずがない」

 話を聞いただけではミカエラには信じられなかった。

 あの一平が…数々の苦労、難関を潜り抜けて、自分の力だけで守人の座を勝ち取った一平が、まさか精神面で弱ろうとは…。

 心身共に容易には崩れない打たれ強さを備えていればこそ成し得た業績であり、それだからこそこの男のみとトリトン神に任命されたのだ。その一平が、妻の死ごときで哀れな男やもめに変貌してしまうとは…。しかもまだ年若く、人生これからという時に。

 だがブルッフの言は決して大袈裟ではなかった。ミカエラは一瞬自分の目を疑った。

 それほどに一平は憔悴し、やつれきって、生きる気力のない精神病患者のように見えた。



「一平どの」

 ミカエラが声を掛けると一平はゆっくりと振り向いた。

 アスランを寝かしつけていたらしく、右手が赤ん坊のおなかの辺りを軽く叩いてリズムを取っている。

 ブルッフの言うように、一平の目には光がなかった。身体の角度からいってミカエラのことを見ているはずなのだが、その瞳にはミカエラが生きた人間として映っていないようだった。

「え…と…」

 普段なら、先輩であり師であるミカエラからの訪問を受ければ何を置いても立ち上がり、機敏に動いて歓迎の意を表す男だった。今の一平はまるで目の前の男の名も、そもそも知り人だったかどうかもわからなくなっているように見える。


「一平どの!」

 ミカエラはわざと強い調子で―それでなくとも、この男の声は大きく低い。がははと笑えば赤ん坊も驚いて泣き出すほどだ―呼び掛けた。

「ミカエラ…せんせい…」

 ミカエラはほっと胸を撫で下ろす。

(よかった。オレの名を忘れてしまったわけではないらしい)

「沙汰に及ばず失礼している。久しぶりだな。それがおぬしの息子か。名は確か…」

「アスランと言います。明日の希望という意味です」

 意外や一平は、まともな受け答えをした。

「明日の希望…か…。今のトリトニアのためにあるような言葉だな」

「……」

 何を思っているのか、一平はミカエラの感想に何の言葉も返さなかった。


 ミカエラは、赤ん坊に歩み寄り、寝顔を覗き込む。

「ほう…。黒髪か。おぬしに似て利発そうな顔立ちをしている。ラサールにも…似ているな」

「…似ているのは髪の色だけです。この子はパールにそっくりだ」

「そう言われれば、パールティア姫にもよく似ておられる。だが、やはり男の子の顔立ちだよ。姫には見えん」

尊師(せんせい)は…この子の目を見ていないからそんなことが言えるんです。アスランの目はまるでパールの生まれ変わりのように生き写しですよ」

「…奥方は…お気の毒だったな」

 ミカエラは思い出したようにお悔やみを申し述べた。


「だが、あれほどの偉業だ。人々は皆、パールティア姫を第二のピピア女神とも崇め立て始めているぞ」

「……」

 力づけるつもりでミカエラは言った。だが、一平は心動かされた様子はなかった。

「早いものだ。あれからもう二ヶ月。おぬしたち守人が率先して働いてくれたおかげで街は活気づいている。トリトニアが元の姿を取り戻すのはそう遠い話ではないだろうな」

「……」

「どうした?覇気がないな」

 一平の口から何某かの思いを引き出そうと、ミカエラは敢えて一平の心に踏み込もうとする。それに対して一平はぼそりと呟いた。

「…元通りじゃない…」

「なに?」


「パールのいないトリトニアはトリトニアじゃない…」

(少なくともオレのトリトニアではない。オレの故郷は、亡くなってしまった…)

 そこにパールの家があると知ってから…そこが自分の本当の故郷かもしれないと思い始めてから…三年もの歳月をかけてやっと辿り着いたトリトニア。

 豊かで平和なこの国を狙い、横から利を掠め取ろうと虎視眈々と目を光らせる敵国から、力を尽くして守ってきたトリトニア。

 激しく傷ついた体を、今必死の思いで立て直しているトリトニア。

 一平にとっても様々な想いが入り乱れるこの国を、今の彼は何の感慨も持たずに眺めていた。あの溢れるほどあった愛国心が、今の一平からは微塵も感じられない。



「…尊師…。オレは…守人を廃業したい、…」

 耳を疑う言葉をミカエラは聞いた。

「バカを言え。就任したばかりだぞ」

 思わず大声で一蹴してしまう。

「オレにはもう守れない…。オレの仕事は終わってしまった。パールの死と共に」

「勝手なことをほざくな。阿呆が。…それとも、新しい宣旨が降りたのか?オレは何も聞いとらんぞ」

「…じきに、降りるに決まっている。伝説の珊瑚姫はもういない。だから勇者も不要だ。オレはただの戦士…いや、ただの男になった。だからきっと、守人にはもう相応しくない」 

 そう思う心こそが資格のなくなった表れだと、一平は思っていた。

「一人で決めるな。おぬしが退任なぞしたらどうなる?他に守人に相応しい奴などまだ育っておらんぞ。トリトニアを青の剣の守人不在の弱国にするつもりか?」

「あなたが、戻ってくださればいい」


 ミカエラは呆気に取られた。

 隠居したこの身をカムバックさせろだと?

 そこまでやる気がないのか、こいつは!?

 そこまで、情けない男になってしまったのか?あの一平が!?

 一度引き受けたことを途中で投げ出すことなど死んでもしない男だと思っていた。なればこそ、引き際も気持ちよく守人の座を譲れたのに。この男の人柄と力量に、強戦士のミカエラは惚れきっていたのに。


 今目の前にいるのは一平ではない、とミカエラは思った。

 本来の一平ではない。だから言っていることもまともに受け取ってはいけない。やっていることの意味を、本人が自覚していると思ってはいけないのだ。

 しかし、ミカエラは言い放った。 

「そんな…そんなみっともない真似ができるか!…大体、神がお許しになるわけがない」

「神…か…」一平が呟く。「何が…神だ…。何の罪もないパールをあの若さで死なせるのが神なのなら…そんな神などくそくらえだ!」

  苦々しげに吐き捨てた一平の言葉に、ミカエラは思わず手を上げた。



 無防備に俯く一平の頬をいきなり張り倒した。

 バシッと大きな音がして、一平が吹っ飛ぶ。

 引退したとはいえ、まだまだ若いもんには負けないぞと、ミカエラの腕っぷしは語っていた。

 一平は体勢を崩して赤ん坊の寝台にぶつかった。衝撃で赤ん坊が眼を覚ます。

 その場の空気のただならぬことを感じ取ったのか、赤ん坊はすぐにふぎゃっと泣き出した。

「悲しいのはわかるが、言葉を慎め。ここは青の剣の聖廟にいちばん近い所だぞ。トリトン神の怒りを買いたいのか」

 ミカエラの言うのは正論だ。国を守るべき神の代理の守人が口にしてはならないことを、今一平は口走ったのだ。


「…怒ればいい。怒って、オレを連れて行けばいい。あいつを連れ去った場所に、オレを連れて行ってくれ…」

 悲痛な叫びが一平の口から漏れる。

(こいつは、死にたいのか!?)

 ミカエラは思う。

 愛しい妻に今一度会いたくて…妻の行ってしまった世界に自分も行きたくて…それでもどうしようもないので自暴自棄になっているのか!?

 それほどに…パールティア姫は一平の心の拠り所だったのか…。

 だらしのない格好でアスランの寝台に寄りかかったまま、一平は全てに絶望しきった様子で息をついていた。

 その背後で赤ん坊がふぎゃふぎゃ泣いている。彼はやっとその声に気がついたように、のろのろと起き上がり、息子を抱き上げた。


「パール…」

 抱き上げた赤ん坊をぎゅっと抱き締め、彼は声を絞り出した。

 赤ん坊の名はアスランだ。していることと口にしていることのギャップが、なぜかミカエラの心を切なく締め付けた。

 赤ん坊は抱き上げられて一旦泣き止んだが、乳もくれず、あやしてもくれないので再び不満を面に表して泣き始めた。

 どちらかといえば無骨なミカエラには、この後輩のために何をしてやったらいいのかまるきりわからなくなっていた。

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