第二章 溢れよ、わが涙
一平は久方ぶりにアスランを見た。
彼が乳母の元を訪れた時、子どもは眠っていた。
赤ちゃん用の寝台で―それは彼らの寝台と同じくアコヤ貝でできていた。但し小型の―アスランは身体を丸めるようにしてすやすやと寝息を立てていた。
海人は胎生の生き物だった。
母親の子宮の中で六ヶ月をかけて育ち、卵ではなく赤ん坊の形で生まれてくる。但し、人間の子どものような二本足があるとは限らない。上半身は人間そのものだが、女児は下半身に鱗に覆われた尻尾を持っている。この尻尾は魚というよりは海獣類のそれに類している。男児には足の脛に鰭がある。一年に一度ずつ、段階を追って大きくなり、―これを変態と呼んでいる―大変態の後に成人となる。男子は十四歳、女子は十三歳でこの大変態の時を迎えるのだ。
パールはかなり長い間、一平のことをずっと年上だと思っていた。それは出会った当初から一平の脚に鰭がなかったからであり、一平の十二歳という年齢で大変態を終えている男の子はトリトニアには一人もいなかったからだ。鰭のない脚を備えているのは十四歳以上であり、だから当然一平は少なくとも十四歳―当時九歳のパールより五歳年上―にはなっていると思い込んでいた。
まさか同族である一平に、生まれた時から鰭がなかったとは、及びもつかない考えだったのだ。
従って、パールにとって一平は、初めて会った時かられっきとした大人として映っていたわけだ。
それとは逆に、一平はパールのことを本来の年齢よりずっと下だと思っていた。見た目も小さくてあどけなさでいっぱいの甘えん坊の少女はとても九歳には見えなかった。六歳か七歳、場合によっては幼稚園生ぐらいに見えることもあった。どう欲目に見ても八歳が限度であり、十歳の誕生日が近いとは、一平でなくとも思えなかったことだろう。
その出会った頃の幼いパールに、アスランの寝顔は生き写しだった。一平が何としてでも守ってやりたいと思った、あどけなく安心しきった寝顔に。
一言二言言葉を交わした後、乳母は退出していったので、室内には父と子の二人だけが残された。
言葉もなくじっと息子を見つめる視線を感じ取ったのだろうか、それとも不思議な力で父親が来たのがわかるのだろうか、アスランは目をひくつかせ、んーん、と伸びをして目を開けた。
円らな真っ青な瞳が一平を見つめた。
(パール…)
赤ん坊の目はパールの目そのものだった。
一平の愛してやまない妻の眼差し。失ってしまったはずの汚れなく真っ直ぐな瞳。無条件に彼を受け入れて温めてくれる信頼溢れる微笑み…。それらの全てがそこにあった。
けれど、それを持つ者の姿はパールではない。体格も性別も年齢も異なる、パールのたったひとつの忘れ形見。
失ってしまったものの大きさを、一平は思い知った。
計り知れない悲しみが、彼の心を襲い来る。
寂しさが、彼の上にのしかかる。
じわりと涙が、堰を切って溢れ出した。
二ヶ月を経てやっと出てくることを許された涙だった。一平の涙を封印していったパールの癒しの力がついに効き目を失ったのだ。
あの時―
今まさに死んでゆこうとする妻を目の当たりにして、一平の心は千々に乱れた。自分ではどうしようもない抗えない力に引き裂かれることに、彼は承服できずに暴れ回った。心の中はさながら、嵐に揉まれる小舟のようだった。
未だかつてほとんど目にしたことのない一平の涙。
それが自分が死にゆくために流されているのだと知った時、パールは心から一平を抱き締めてやりたいと思った。いつもいつでも、パールの何歩も先を歩き、大人として導いてくれた一平が、今は小さな子どもに戻っている。それも意外で愛しくもあったが、彼が悲しんでいるのは嫌だった。しかも自分のせいで。
だからパールはもう残っていないはずの力を振り絞った。
一平が涙を流さなくていいように。自分が死んだ後も愚かしく惨めに落ち込んでしまわないように。乱れた心臓の音を正常に戻し、無理やり冷静さを取り戻させた。
(ああ…)
最後の仕事をし終えた時、パールは思った。
(この音が、パールは一番好きだったの。ずっと、この音を感じていたかったの。これからもずっと、一平ちゃんのそばに…)
そばにいたかったと言いたかったのか、それともそばにいるよ、と伝えたかったのか、それさえもパールにはもうわからない。歌うことはおろか、話すことも、何かを思うことも、もうパールにはできなくなっていた。
そのことでパールが安心して新たな世界に旅立ってゆけたのだとしても、それが一平にとって幸せなことなのかどうかには疑問が残る。
大切な人の死に涙することは、必ずしも不幸なことではない。泣くことで、人は辛い思いや哀しみを吐き出し、新しい気持ちに生まれ変わっていけるのだ。愛しい人が死んだことでみっともなく取り乱したとしても、それが愛の深さゆえと、周りの者は痛々しく思いこそすれ、決して非難はすまい。
実際、そのどちらも見せることができなかった一平を、人々は自立心の強い人だと感心もし、また、あれだけの愛妻家であったのにと、不思議にさえ思った。
大切そうにパールを抱えて王宮に戻り、弔いの湖へパールを沈めた時も、彼は自分がどこが遠くからこの光景を見つめているような気がしていた。現実感がなく、悲しいと感じる心がどこかへ持ち去られてしまったようだった。
トリトニアでは死者は水葬に付す。
海の中にはよく亀の墓場とか鯨の墓場とかいうものが見つかるが、動物たちはたった一人で死を迎えるものだ。子育て中の母親でさえ、わが子の死を認めると遺体を置き去りにしてその場を去る。その後遺体がどこへ流されようが腐ろうが他の動物の糧となろうが関知するものはいない。
しかし、曲がりなりにも人間と同程度の知能と感情を持つ海人たちは、その他の動物たちとは若干異なっていた。
死者は手厚く葬る。
当然のことながら海の中では火葬も土葬も不可能だ。水葬が順当だが、無闇とその辺へ流したのではどこかで人目に触れることになる。生前の死者を知る者にとっては、腐りかけた状態を目にするのは耐えられないことだろう。だから彼らは一定の場所へ死者を葬る。
何百年も前に沈んで真っ白になって積み重なる珊瑚の森の奥深くに湖がある。海の中に湖など、と思うだろうが、海の中にもれっきとした湖が存在する。海底から湧き出す清水の噴出口がそれだ。
海を浄化する作用のある石灰華を含む水は、後から後から絶えることなく湧いて少しずつ海水に溶け込んでゆく。いきなり混ざることはなく、青白い水を深く湛えて湖面を作り出している。その浄き湖へ、トリトニアの人々は死者を葬る。真水の湖は遺体を水の底へと迎え入れる。
葬儀は大仰には行わない。ごく近しい者だけが一人乃至二人、多くても三人で見送るのが普通だ。例えそれが国家の長の葬儀であっても。
ニーナの時にパールと二人で訪れたその場所に、一平はただ一人で立っていた。パールの両親である国王夫妻に一平は同行してくれるよう申し入れたが、王は首を横に張った。パールはすでに親の手を離れ、一平の元に嫁いだのであり、一子を設けた後では今の家族の手で葬るのが筋だろうと。
今の家族といっても、一平の他にはまだ生後二ヶ月の赤ん坊しかいない。
泳げぬ赤ん坊と物言わぬ動かぬ死者の二人を連れて行くのは少し無理がある。勿論一平にそのくらいの体力は備わっていたからできないものではない。しかし、そこまでする意味もあまりなかった。まだもののわからぬ赤ん坊をほとんど人の寄りつかぬ寂れた地に同行するのはほとんど無意味だ。
オスカーがそう言ったのは、アスランを口実に自分たち夫婦が二人の別れの場から遠慮するための計らいだった。娘婿となったこの男がどれほど自分の身を顧みずに娘を守ってきてくれたか、どれほど深く広い心で娘を見守り愛してくれたか。そして娘も、それに負けぬほどこの優しく力強い戦士に恋焦がれ、見つめ続けてきたことを、オスカーはわがことのように知っていたのだ。
オスカーにはシルヴィアがいる。これまた王族ではないながらも気品に溢れ、芯の強い淑やかな美女に、オスカーは心を奪われ続けている。結ばれてより十七年経つが、いつまでも傍らに寄り添っていてほしい存在だ。
だが、一平にはもうパールはいないのだ。僅か九ヶ月。懐妊したとわかるまでならたったの一ヶ月。蜜月の時は苦労の大きさに比べてあまりにも短かった。
それが不憫だった。同じ男として同情を禁じ得ない。
そして混乱の渦中にあるトリトニアの国内で、守人の地位にある一平がもう亡き妻と水入らずで過ごせる時と場所は、浄めの湖での弔いの場しかないように思われたのだ。
結局、一平はアスランを王宮に置いて一人で湖に出向く。
湖の水は青いが白くも見えて、透き通っているのに視界が効かない。不思議な不思議な光景だ。
だがその神秘さも、今の一平の心を動かすことはない。
腕の中にある愛しいものにすでに体温はなく、あの限りないほどしっとりと柔らかく思えた肌も冷たく強張っていた。最期にと触れてみた唇も一平に応え返すことはなく、平穏だけを湛えていた。
湖の畔で、一平はどのくらいの時間そうしていたのだろう。
パールを沈める決心がいつまでもつかない、勇気のない子どものように、一平はパールを抱いたまま身動ぎもしなかった。
リン―と、涼やかな鐘の音が聞こえたような気がした。
とても懐かしい音だ。子どもの頃、その音を聞くと涼しく爽やかな気分になったものだ。
そう。あれは風鈴。日本の夏の風物詩。軒下に下がる硝子細工。錘の下に下げた短冊が風に揺られて硝子の空洞に音を立てる。
なぜそんな音が聞こえたのかわからない。
わからないが、それは合図だった。
パールを放せという合図。
おまえの妻を黄泉の世界へ解き放てと、誰かが一平の背中を押している。
一平は逆らわなかった。
いつまでも未練たらしく繋ぎ止めていてはいけない。これが自分のパールに対してできる最後のことなのだから。一平が放してやらなければ、パールを弔うことにも葬ることにもならないのだから。一人でここまできた以上、それは一平の役割なのだから。
彼は責任を果たした。
パールの小柄な身体は一平の手を離れ、ゆっくりと沈んでいった。
その先には何が待っているのだろう。
長い年月をかけて彼女の肉体は分解され、この地球の一部になるのだろう。それはわかっていた。
だが魂は?
魂はどこへ行くのだろう?
一平を一途に愛し、慕ってくれた、あの無垢なる魂は?
自分はどこかでもう一度、パールに会うことがあるのだろうか。
あの世からお迎えが来たら、またあいつに会えるのだろうか。
転生というものが存在するなら、また会わせてほしいと彼は思った。
その時には今度こそ、守り抜いてやる。オレより先には絶対に死なせるものかと、一平は空しい決意を抱え、祈った。
その時にも涙は出なかった。
そのことで、自分をなんて薄情な奴だと思いもしなかった。
けれど―
あれから二ヶ月。
アスランの顔を見て泣くことになろうとは思いもよらなかった。
パールのかけた魔法が切れて、一平は泣いた。
涙は後から後から湧いてくる。
パールは泣き虫だったから、その分一平は泣けなかった。けれどパールがいない今、パールがもう戻ってこないとわかった今、あいつの分も泣いてやろうと、一平は思った。
堪えても堪えても悲しみは嗚咽となって押し寄せ続ける。
赤ん坊が一平を認めて「だぁだ…」と、無邪気な声を上げ、手をばたつかせて喜んでも、彼は息子を抱き上げることもできずに小さな寝台の上に屈み込んで泣いた。
絶望の涙は海の水よりも塩辛かった。




