第一章 別れの曲
この作品は「トリトニアの伝説」の外伝です。
本編完結直後の出来事です。
本編あらすじ
海人と地上人との混血児一平は生まれ育った村の海で人魚の少女と出会う。
少女パールは大西洋にある海人の園ポセイドニアの一国、トリトニアの王女であった。
二人で旅を続け、様々な経験を積み重ねるうちに、二人の絆は離れ難いものになってゆく。
故郷への帰還を果たし、王女を連れ帰ったことで一躍有名人となる中、一平はオスカー王からの提案を受け入れて青の剣の守人となるべく修行に励むこととなった。
ひとえにパールと添い遂げたいがための選択だった。
めでたく目的を達成し、婚姻を結んだ二人に隣国ガラリアの魔の手が伸びる。
癒しの力を持つパールの第二の力、破壊の力をわがものにしようと国主のガラティスは執拗にパールを狙った。
ガラリアの主要産業である魔術を乱用した結果、海底火山が噴火し、ガラリアは元より隣接するトリトニアにも大きな被害が及ぶ。
思いもよらぬ災害に逃げ惑い苦しむ人々を勇気づけるために、パールは癒しの力を増幅させた。
一平の目の前で力を使い果たしながらも、取り乱す一平を鎮静させるために、再び癒しの歌を歌い、パールは天に召されていった。
詳しくは第一部〜第八部をお読みください。
パールが天上人となってから二ヶ月。
トリトニアは突然見舞われた災害から驚異的な速さで復興していた。
海底火山の噴火により押し寄せたマグマは、ガラリアとの国境を中心に多くの家屋を飲み込んだ。噴火の勢いで強い海流と共に流れてくる巨大な塊は、王宮のある首都までやってきてあちこちに被害をもたらした。
一度噴火をした火山は何度か小さな噴火を繰り返し、その度人々に恐怖を味わわせた。
だが人々は建物や町並みの修復の手を抜くことはなかった。最初の噴火で飲み込まれた人たちを除いて、生き残った人々は皆生きる力を失っていなかったからだ。
傷ついた身体も精神も、程度の差こそあれパールの力で癒されていたので、働く意欲を失った者は誰一人としていなかった。重症だった者は回復に少々時間がかかったが、元気な者は自ら進んで家族や知り人と力を合わせ、自分たちの国の復興に力を尽くしたのだ。
民衆がそういう姿勢でいるのに、それを治める国王がのほほんとしているわけにはいかない。トリトニアの国王、赤の剣の守人であるオスカーは、白の剣の守人ウート、青の剣の守人一平と共に率先して動いた。人々に指示を出し、まとめ、自ら現場へ出向いて朝から晩まで働いた。
まるで何かに取り憑かれているかのように。仕事に没頭することで、何かを忘れようとしているかのように。
実際、その通りだった。
ガラリアのガラティスが引き起こした災害で犠牲になったのは国境にいた人たちばかりではない。残された人々を癒すために己の持てる力を使い果たした癒しの娘も、神に召された一人だった。
伝説そのままに、その秘宝とも呼べる力によって人々を遍く癒し、生命を燃やし尽くしたひとりの娘。
それこそはオスカー王が目に入れても痛くないほどかわいい愛娘であり、青の剣の守人である一平が人生を捧げた愛妻であったのだから。
娘の、妻の、己の身を犠牲にした尊い行為を誇らしく感謝の気持ちで受け止めたとしても、それで悲しみが薄れるわけではない。
病弱なためろくに友達もいず、王宮の中に閉じ込められるようにして育った娘。ある日突然いなくなり、三年もの間大洋を放浪い、苦労した娘。その立場ゆえ、成人してから三度も敵国に囚われるという憂き目を見た娘。オスカー王にとってパールはその素質ゆえに不憫極まりない薄幸の娘であった。
その娘も近頃やっと幸せを手にした。放浪の旅の間常にそばにいて守ってくれた素晴らしい男とようやく結ばれたのは、わずか十一ヶ月前の出来事だ。子宝を授かり、憧れの母となり、幸せな家庭を築いてゆこうという矢先に、死神は娘を迎えに訪れた。
わずか十六年の、短い生涯。
そのうちの六年を共に過ごした夫の一平。
彼にとっても、自分の人生は終わってしまったに等しかった。
パールは一平にとって運命の人だった。
海人の血を引きながら、そうと知らずに地上で育ち、父の死とパールとの出会いをきっかけに海へ旅立つ決心をした彼。―幼い少女を守りたい―その一心で七つの海を越え、艱難辛苦を乗り越えて故郷へ辿り着いた若者。見守ってきた少女への愛の力だけでさらに努力を重ね、その手で掴み取った栄光の座。青の剣の守人という、トリトニアでただ一人しか許されない椅子。パールの夫という、ただ一つのポジション…。
身も心もひとつになれる幸せを一年とは味わっていないのに、彼は妻を奪われた。決して手の届かない世界に、神はパールを連れ去ってしまった。
その衝撃から立ち直る暇どころか、悲しみに浸る時間すら与えまいというように、彼のするべきことは山積みだった。この非常時に、国の三大柱のひとつが個人的な事情で内に籠っているわけにはいかないのだった。しかも一平はそれだけ責任感の強い男だったし、請われる以上の能力を身の裡に持っていた。力だけが自慢のただの武人ではなかったのだ。
部下の采配は勿論、些細な陳情にも耳を傾けたし、力仕事はむしろ進んでその身に引き受けていた。
考えたくなかったのだ。
パールが死んでしまったことを。
知りたくなかったのだ。
自分が希望の星を永遠に失ってしまったことを。
気づきたくなかったのだ。
もう傍らに、心を和ませてくれる存在がいないことを。
だから一平は人の何倍も働いた。
周りが心配するほど身体を酷使して、睡眠時間すら必要最低限しかとらなかった。
自室へ戻った時、眠りに就こうとする時、パールを思い出して寂しくならないように。寝台に倒れ込んだら何も考えずに眠れるように。無意識に身体を疲れさせていた。
だがそれもいつまでも保つものではない。鍛えた身体がお医師が驚くほど保っても、周囲の事情がそうさせない。
急ピッチで進んだ復興作業は二ヶ月もするとピークを超え、いちいち長の手を煩わせる必要のないところまで収束してきた。そして同時に、周りが一平を気遣い、休養を勧める。
仕事が減ると身体が空く。
普段の執務をこなしても、余暇の時間を持て余す。
仕方なしにトレーニングに励んだり、息子の様子を見に行ったりするようになる。
四ヶ月前に生まれた子どもは男の子だった。
二人はアスランと名付け、できる限り自分たちの手で育てようとした。
パールは元王女であり、生まれた子はトリトニア王家の血を引く。国王の孫でもあるのだ。
一般に王族の子どもには教育係というものがつきものであり、母親が政務に忙しい場合に代わって乳をやる乳母という制度もある。
パールの母シルヴィアは王族の出ではない。従って、乳母の導入にはあまり積極的ではなく、本当にどうしようもない時以外は自分で世話をすることを望んだ。しかも嫡子で生まれた長女のパールは死産していてもおかしくないほどの未熟児だったのだ。健康に育つためにはとにかく母乳が一番だというお医師のザザの判断もあり、良い乳を出すための食事にもかなり留意して母乳を与え続けたという。
当然、その娘のパールも母に倣った子育てを希望するようになる。
とにかくたくさん子どもを生んで賑やかな大家族を作って一平を喜ばせる、というのがパールの夢だった。結局その夢は叶わず、一子しか生むことはできなかったが、あの事件の最中、夫の一平一人の手で取り上げることになった長男は至極健康体であった。自分が病弱であった分、パールの喜びは格別だった。
お乳はよく出た。
これもパールは嬉しかった。
初めてわが子に乳を含ませた時、こくんこくんと音を立てて赤ん坊が自分の身体の中から湧き出るものを吸い取ってゆくのを感じた時、パールは初めて母となった喜びに打ち震えた。夫に愛撫される時とはまた違う、自分が分け与えた生命の存在というものを、暖かく静かで、それでいて力強く実感した。
―この子は私の子。この子を守るのは私。この子のためならどんなことだって我慢できる。してあげられる―
全ての母親が思うことを、パールも確かに思っていた。
子どもは元気に育っていた。
お乳の時間が来ると人並み以上に大きな声で泣き、右宮の時報代わりともなっていた。
生まれた時から首がしゃんとしているということと、脚に鰭があるということ以外はなんら地上の赤ん坊と変わらないように一平には思えた。
赤ちゃんはぽよぽよ、ぐらぐらして、下手に抱くと壊れてしまいそうで怖いと未経験者は思うものだが、その点、海人の赤ん坊は落としても水の中に浮いているので壊れることはなく、首もしっかり座っているので抱きやすい。
父親になった一平も、好んでわが子を抱いたものだ。なにせ、生まれて初めて抱き上げたのは他ならぬ一平本人であったのだから、そういう意味での優越感は十分過ぎるほど味わっていた。
子どもは日を追う毎にどんどん可愛らしくなる。無垢な瞳を真っ直ぐに向けて自分に意思があることを伝えてくる。あやしてやると笑うようになり、嬉しい時や気持ちがよいと、手や足鰭をバタバタさせて喜びを身体で表すのは地上の人間と同じだ。
二人はわが子を溺愛した。
二ヶ月の間。
突然母親を失った子どもは今まで以上に泣くことが多くなった。
身体が小さく、元々が病弱だったパールの状態を危ぶんで、王家では予め乳母の手配をしてあった。
が、パールの乳の出は順調で、しかもパールは赤ん坊の世話を他の者に任そうとしない。だから、控えの乳母は開店休業状態だった。だが、乳をやるというからにはその乳母にも赤ん坊がいるということであり、アスランにやらないからと言って貴重な母乳が無駄になることはなかった。
海人の子どもも一年近く母乳を飲んで成長する。生後二ヶ月で母親を失ったアスランはその後の半年余りの栄養を、予定していた乳母に頼ることになった。
激務で忙しい一平は、この二ヶ月、新しい乳母にアスランを任せっきりにしていた。
正直な話、アスランを見ればパールを思い出すのに決まっている。だから意識して避けていた面があるのは否めなかった。
男の子のアスランは驚くほどパールに似ていた。その面差しが。
元々が他人より幼く、成人しても赤ちゃんぽいところのある妻だった。無垢な瞳は結婚しても相変わらず純粋さを湛えていた。
その瞳をアスランはそっくり写しとって生まれてきた。
その輝きも、明るく青い色も。
髪は黒い。一平も、その父も、髪は黒かった。生まれたのが黒髪の男の子であることを知った時、パールはとても喜んだ。「一平ちゃんのようになる」と言い、「そっくりだ」と主張した。
一平にはこの子のどこが自分に似ているのかさっぱりわからない。彼にはパールの方にこそそっくりに見えるのだ。
不思議なもので、子どもはその父と母、両方に似る。両親の子どもの頃の顔同士は全く似ていないはずなのに、どちらにもそっくりになる。
パールにはアスランが一平のミニチュアに見え、一平にはパールが赤ちゃんだったらこんなふうだろうと思えて仕方がないのだ。
そして客観的に言っても、アスランはより母親の方に似ていた。




