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第十六章 運命の力

 いつもそうだ。いつもいつも。

 断片的に思い出す言葉の中に、封印をかけられているかのように空白になる単語がある。このニュアンスだけがたまらなく懐かしく思い出され、一層、何と言っているのか知りたくなる。

 フォースが思いに耽っている間にサンドラは急いで事を進めていた。いつの間にやら彼はやんわりと押し倒され、上衣を解かれて柔らかい胸の谷間に顔を埋めていた。

 幼子をあやすように優しく受け止めて、サンドラは男の手を己の胸に誘う。

 未知の感覚ではなかった。

 彼の手は知っている。この柔らかく温かい感触を。

 だが、何かが違う。

 

 サンドラは海主の息子が懸想するだけあって美しかったし、それに見合った見事な身体つきを有していた。男の妻とは比べものにならぬほど豊満で男好きのする体型であった。気持ちがよいことは否めない。

 しかもサンドラはそれを望んでいる。名前や過去の出来事の記憶はなくとも、こういう時どうするものなのかは本能が知っていた。

 彼女の行為に応えることが恩返しの一部になるのならそれでもいいか、と気持ちが傾く。サンドラは高揚してくると大胆になり、妻が決してしたことのない積極的な所作をした。 


(違う…)

 フォースは思う。

(こうじゃない。オレがしたいのは…)

(オレが見たいのはこの顔じゃない。この姿じゃ…)

 違和感は募る一方だった。

 ―…ちゃん―

 蘇る呼び声。頭の中に誰かが自分を呼ぶ声が響く。聞きたいのはこの声だ。

(オレを呼んでいる。オレを呼ぶのは誰だ?)

 ―….ちゃん―

(何だ?オレの名は!?)

 ―…ぺいちゃん―

(教えてくれ!!オレは誰なんだ!?)

 ―一平ちゃん、だあい好き―


  不意に、明確な台詞と笑顔が浮かんだ。

 少女のような笑顔。

 足があるからには大人の女性ではあるようだが、あどけなさの残る天使のような微笑みだった。

 桜貝のような唇。愛嬌のある鼻。底知れぬ青い瞳と珊瑚色の長い髪…。

 その髪が縮む。若返りの薬を飲んだようにその姿は幼く変化してゆく。

 同時に、成人のしるしの二本足がなくなる。細かい鱗に覆われた、アザラシの身体にも似た、それでいて痩せてスマートな尾鰭に変化する。人魚の姿の少女の髪は肩の上まで届かない。

 ―パール!!―

 フォースは叫んだ。心の中で。

 自分の見たいのは彼女だ。声を聞きたいのも、抱き締めたいのも、一番守りたいものもこの娘だと、フォースははっきり自覚した。パールティア姫という名の、ただひとりの女性(ひと)



「…思い出した…」

 フォースは呟いた。

 既にサンドラの身体とは接触していない。少し前から男の動きが止まったことに気づいてはいたが、衝撃的なこの一言は一足飛びにサンドラを我に返らせた。

「オレの名は一平だ。…国は、トリトニア…」

「トリトニア…」

(そうだ。トリトニアだ。名実共に故国となった。オレはトリトニアの一平。パールと共に青の剣を守るのがオレの役目…)

「イッペイって…まさか…あの…)

 

 その珍しい名は聞き及んでいた。オクタリアとトリトニアはかなりの距離を隔てていたが、同じポセイドニア十国のひとつである。国の名と共に、それを支える重鎮の名も数々の噂と共に伝わっている。しかも、一平が青の剣の守人になったのは僅か十一ヶ月ほど前のこと。守人の交代劇は記憶に新しい。その生まれと登用の過程が特異なこともあって、ここオクタリアでも大きな関心事となっていた。


 サンドラは言った。

「トリトニアの青の剣の…守人の一平?パールティア姫を守って七つの海を越えてきたという、大剣使いの勇者、一平!?どんな妖物にも負けなかったという百戦錬磨の超戦士?」

 サンドラの問いに男は目元を綻ばす。

「そんなふうに…伝わっているのか!?オレも変に有名になったものだ…」 

 サンドラは大きく溜飲を下した。 

 さもあろう。この体躯、この容貌、この広く懐深い包容力。トリトン神にこれと見定められるだけの器量を、この男は確かに備えている。話に聞く姿形とも一致する。自分などには手の届かない雲の上の人だったのだ、この人は。

 奇しくも、サンドラが付けたフォースという名に相応しい魂と実力を身に兼ね備えていたのだ。一平の評した爽やかで強いという響きと共に、戦いの神という語感がその役職にぴったりだった。


 あまりの驚きにその後の言葉もないサンドラの肩に、一平は脱ぎ捨てられた衣類をふわりと被せた。

「すまない…。ここまでしておきながら…。オレはあなたを抱くことはできない。オレにはこの命をやっても悔いない妻がいる。そして大切な息子も…」

 そのことも聞き及んでいた。青の剣の守人の妻が童女姫(あるいは珊瑚姫)と呼ばれるトリトニアの王女であり、その王女にどれだけ勇者が惚れ込んでいるかも。偉大なる癒しの力を持つ王女が既にこの世の人でないことも。

(そうよ!もうパールティア姫はいないんだわ。この人は今は独り身じゃないの。何を遠慮することがあるというの!?)

 サンドラは気づいてしまった。そして、そのまま口にしてしまった。

「でも、もう姫はいないわ。パールティア姫は噴火の犠牲になった人々を癒して力尽きたと聞いているもの。もう三ヶ月も前のことよ。あなたは解放されなくてはいけないわ。後添えを貰ったとて、誰もあなたを責めやしないのよ。そうじゃなくて?」

「何を…バカなことを…」

 


 一平の記憶は全て戻ったのではなかった。サンドラとの行為をきっかけに、溢れ出る泉の如くに過去の記憶が蘇ったが、ただひとつの点―パールの死―に関しては記憶の扉は閉ざされたままだったのだ。まるで意図してそこだけ何重にも鍵をかけた封印のように。

 パールの死を信じたくなかったからかもしれない。

 認めたくなかった。受け入れたくなかったのだ。この事実を。一平は、自分の人生からパールの死を抹消してしまいたかったのだ。

「オレがこんな所にいる理由はわからぬが…。パールは右宮でアスランの世話をしているはずだ。…そうだ。オレは親善使節に遣わされたのだった。陛下自ら、オクタリアの新女王の人柄を見定めてくるようにと任務を託されて…。アスランの世話は陛下たちが見るからと…」


 はて…と一平は思う。何か辻褄が合わぬような気がする。パールがいるのになぜわざわざアスランの世話に多忙な国王夫妻がしゃしゃり出てこなければならなかったのだ!?

「……」

「道理が変よ。わかるでしょう?」

「……」

「あなたの奥さんはもういないの。死者の国へ旅立ったのよ」

「うそ…だ…」

 一平は狼狽えた。迷子の子どものように心細げな瞳が辺りを彷徨った。

「嘘じゃないわ。誰でも知っていることよ。大事件だったもの、トリトニア北部の火山の噴火は。…それを収めたのがあなた。トリトニアの守人が青の剣の力を使って噴火を堰き止めたという話よ。当事者ならわかるでしょう!?」

「噴火…青の剣の力!?……ああっ!!」

 

 一平はいきなり両の手で頭を掻きむしった。ひどい頭痛に耐えかねているように。頭の中で起こっている何かと必死で戦っているように。

「あ…あ…。ああっ!!…う…うおお…」

 呻き声は、どんどん大きく苦しげになる。実際、一平の身体は激しい痛みを伴っていた。頭も、顔も胸も、どこもかしこも…。

 思い出したくないことを無理やり引きずり出そうとするために起こる精神の痛みだ。それが全身に実際の痛みとなって現れていた。導火線についた火種のように燃え広がって全身を燃やした。


 眼裏に光景が広がる。サンドラが言った光景だ。

 ガラリアとの境に跨る海底火山が赤い火を噴いていた。大地も水も鳴動し、大小の燃える礫が無数に飛来する。おそろしい光景だ。

 人々が逃げ惑うその様子を、一平は少し小高い場所から見下ろしていた。

 そこに唐突にパールが現れる。癒しの歌で皆を力づけたいと。一平がそばにいるならできるに違いないと考えて跳躍してきたのだ。

 同時に、青の剣も一平を呼ぶ。パールと二人で青の剣を捧げ持って念じろと剣は囁く。

 言われた通りにすると次第に噴火はなりを潜めていった。まるで怒りが鎮まってゆくかのように。

 果てしなく長い時間が流れたと思われたその後、修羅場と化していたトリトニアの海は嘘のように静まり返っていた。

 被害はそのままに、だが未然に防げた部分は大きかった。

 噴火の余波で地震の続くトリトニアに人々の不安が渦を巻く。それを鎮めるため、パールは無理をした。 

 そして逝った。最後に一平の心を癒して…。


 全てを一平は思い出した。

 パールを弔いの湖に沈めたことも、大惨事の後休む間もなく働き通したことも、全てに絶望して捨て鉢な言動をし、周りの者を困らせたことも。見兼ねたオスカーが大任を口実に一平を一人旅に出してくれたことも、せっかくの王の心配りを、心労から来る不注意で台無しにする結果となったことも。

 命より大切なパールのことを、一時とはいえ思い出すこともできないようになったのはその報いだったのかもしれないと、今一平は思った。

 一平の(まなじり)から涙が溢れ落ちた。

「パール…」



 トリトニアの青の剣の守人は超戦士だと聞いている。大柄で逞しい肉体を見ただけでそれは頷けるほどらしいが、強靭でしなやかなのは身体だけではなく、精神面にも及んでいるという。

 それを如実に表しているのが、最愛の妻を亡くしても涙ひとつ見せず、政務を怠らず、国の復興に尽力しているという逸話だ。一平が端から見て幼魚に毛の生えたぐらいにしか思えぬ幼妻にぞっこんだったのは周知の事実だったから、却って人々は守人の意思の強さに感心し、惚れ直したという。

 それほどの男が、涙を流している。

 サンドラの目の前で涙を隠そうともせず、臆面もなく涙している。


 ―最愛の人を亡くした涙だ―

 サンドラは知っている。

 彼女も、愛しい人を幾人も失っている。父を、兄を、友人を。

 それを乗り越えて愛した人だったが、この人に自分の声は届かない。

 一平の涙を見てサンドラは確信した。

 あと何年か経って一平の哀しみが薄れても、この男は決して二婦にまみえないだろう。理屈ではなくそう感じ、それが間違っていないことを断言できた。

 同時に、彼の哀しみを蘇らせてしまった自分の言動を素直に恥じた。この男の気持ちも考えず、自分勝手な望みを押しつけようとはしたない行為に及んだことを後悔した。

 打算がありはしなかったか。

 愛してくれなくてもいいなどとはこれっぽっちも思ってはいなかったはずだ。所詮は若い男なのだから、関係を持ってしまえば繋ぎ止められるに違いないと、心の隅で考えてはいなかっただろうか。

 

 すんでのところで男が過去のことを思い出したのは、たまたまそうなったのではなく、そうなるべく定められていたからではないだろうか。

 そう思わせる運命の強い力を感じるのは、この男の数奇な半生が波瀾万丈であり過ぎるせいかもしれないが、いずれにしろ、自分とこの男の間には運命を共にする決定的な何かが足りなかったのだ。

 

 やっと、この人ならと思える人に巡り会えたのに。

 やっと、彼の去った苦さを克服できたのに。

 フォースには運命の人がいた。

 それは自分ではない。

 死してなお、フォース―一平―の心を掴み続けている王女、パールティア。

 話に聞くだけで想像するしかないが、きっと素晴らしい女性だったのだろう。これほどの男が心奪われて久しくも長いということは。自分など及びもつかないほど美しく性格もよく、力もあったのだ、きっと。他の女という女が全て霞んでしまうくらい。

 会ってみたかった、とサンドラは思った。

 そうすれば諦めもつくかも知れない。自分の至らなさを思い知らされるかも知れないが、少なくとも納得ができる。

 だがそれほ叶うことはない。

 決して、叶うことはない。

 サンドラ自身も。誰よりそう望んでいるであろう、この男にも。

 



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