第十七章 明日にかける橋
手違いでこちらを先に投稿してしまいました。
目次にある次の投稿と前後していますので、十六章から先にお読みくださるようお願いします。
封印を解かれた一平は再び哀しみの湖に沈んでいた。
ここがどこなのか。誰といるのか。何をしていたのか…。
それらは全く問題ではなかった。己一人の失望の中にどっぷりと浸かり始めた彼には。
(なぜなんだ…)
(なぜ…)
(どうしてパールだけが死ななければならなかった…)
(あの子は必要なのに)
(誰にとっても…)
(国民にも、病の人々にも、アスランにも。何より、オレ自身にとって…)とって…)
細く白い糸が発生する。母と死に別れた時以来、一度も放出させたことのない光の糸が。
(オクタの壁…)
サンドラは声に出さずに呟く。
オクタリアに於いてはそう呼び習わす。トリトニアではトリトンの壁と呼ぶ。
幼少時には珍しくもない。大きな心身のダメージから回復するための自己防衛手段だ。成人するにつれ、その能力は自然消滅していくという。
れっきとした大人の、しかも最強とまで言われた超戦士の青の剣の守人の一平が、生死に関わる傷を受けたわけでもないのにトリトンの壁を発生させた。その事実にサンドラは愕然となった。
(そんなに…それほどに悲しいの!?そんなに辛いの!⁈三ヶ月も前の、奥さんの死が…)
死者に対する思いの切り替えの早い海人たちには一平の悲しみようは度が過ぎて映る。
オクタリアのサンドラにしても同様だ。
三年の放浪の旅の間、一平は幾度となく生死の境を彷徨った。だがそのいずれの時にもトリトンの壁が現れることはなかった。死の淵から一平を引き上げてくれたのはトリトンの壁ではなくパールの持つ癒しの力だった。
一平の海人としてのトリトンの壁を発生させる能力はとっくに失われていたはずなのだ。にも拘らず、サンドラの目の前にトリトンの壁に包まれた一平がいる。
サンドラは呆然としてその白い球体を見る。僅かに白熱して光る大きな球体は、心なしか柔らかい赤や青や黄色の波を帯びている。その中で一平は胎児のように丸く縮こまって目を瞑っていた。
一平は夢を見ていた。
多分夢だと思う。後で聞くと、球体の中の一平はまるで眠っているように見えたというから。
彼は呟く。繰り言が続く。
「オレの命と引き換えにパールが守れるのなら…オレはそれで本望だったのに…。なぜ、逆なんだ…」
「逆があってはならなかったのだ、一平よ」
どこからか声がした。一平はその声に耳を傾ける。どこかで聞いたことのある声だった。
「考えてもみよ。あのか弱き魂におまえなしの人生が耐えられると思うか?おまえを失ってあの娘が一人強く生きていけると思うのか?」
「……」
声の主は自分たちのことをよく知っているように語りかける。
「おまえを失って悲嘆にくれ、救いを求めるが故に狂気の世界に囚われたとしても、われは不思議には思わん」
「そんなことはない。パールはそんなに弱いやつじゃない。ここには…トリトニアには彼女の両親も弟もいるんだ。そして今は子どもだって…」
「あの姫の心の拠り所はおまえだ。父親でも母親でもない。成人の式すらまだの頃、あれは言ったではないか。パパもママもいらないと。おまえの行く所へついてゆくと。干からびるのを覚悟で日本へすら行くと。あの娘にはおまえが全てだったのだ。そのことは他でもないおまえが一番よく知っているはず…」
そうだ。その通りだ。パールの元を去る決心をした時に、彼女はそう言った。まだ子どもだったが本気で一平のことを思ってくれていた。
「あの娘は怖がりだが、真に怖いものはひとつだけだった。それはおまえを失うことだ。自分の失態でおまえを死に至らしめることだ」
声の言う状態になりかけたことは何度もあった。その度、パールが全身全霊で一平の生命を死の淵から引き上げてくれたのだ。
「オレは…もう何度も死にかけた。…パールがいなければ、今ここにオレは存在していなかったんだ。なのに…オレを助けてくれたパールが、どうしてオレより先に死ななければならない!?」
「それは定めだったのだ。一平よ。あの娘はおまえのためだけに生きた。そう願って生きてきた」
「そんなことはない。アスランに注ぐ愛情だって、オレがヤキモキするほど強い」
「母親であれば当然だ。愚か者。わが子に嫉妬してどうする!?」
声に嗜められ、思わず一平は顔を赤らめる。
「おまえの子だからだ。パールティアはおまえのために産んだのだ。おまえが今よりもっと幸せになるために。血を分けたわが子をおまえに与えるために」
そんなふうに考えたことはなかった。
パールはずっと、夢見る瞳で言っていた。大人になったら赤ちゃんをたくさん産みたいたと。純粋な女の子の単なる憧れで言っているのだと思っていた。どうしたら赤ん坊ができるのか、妊娠したとわかった時でもパールはあまりきちんと把握していないようだったから。
そう言えば、パールは何度も訊いてきた。『嬉しい?』と。
『パールの赤ちゃん』と言うよりは、『パールと一平ちゃんの赤ちゃん』と言うことの方が圧倒的に多かったし、『一平ちゃんの赤ちゃん』と呼ぶことの方が更に頻繁だったという事実に、一平は初めて思い当たった。
それは即ち、自分に赤ん坊が授かったということよりも、一平の子どもを授かったということの方が重要だった、ということではないだろうか。
「パール…」
『アスラン』とは『明日の希望』という意味を持つ言葉だ。パールがなぜ、待望のわが子にアスランと名付けたがったのか、一平はようやく腑に落ちた。
「トリトンの子らよ。われはずっとおまえたちを見てきた。生まれてよりずっと、その内面に光る純粋でまっすぐな心を見出し、伝説の実現者としての力の種を植えつけた。
長じて後、われの決断は正しかったと知った。われはおまえたちの生きざまに真実の愛を見た。そしてそれゆえにおまえたちに定めた。植え付けた種を開花させるべきものとして。
種を植え付けた者は他にも幾人かいる。だが最も相応しいと断じることができたのは一平、おまえとパールティアだった。おまえたちにこそ、その資格がある。必ずわがトリトニアを破滅より救う者になれると、あの娘の上につけた徴を露わにさせた」
(何だ?何を言っているのだ、この声は!?)
とても平静ではいられなかった。この声はとてつもなく重大なことを語っている。耳を傾けずにはいられないことを。
「申し分なく、おまえたちは成長してくれた。われはせめてもの感謝のつもりであのガラティスから娘の子を守ることにした。そうせずにはいられなかった。踏み付けにされたことであの娘の気が触れてしまったらトリトニアは終わりだ。
そうなってはならなかった。おまえたちが成し遂げてくれるであろうことを考えれば、そのくらいの礼はしておいてもよいだろうという気持ちもあった」
(それでは…それではあの、どう考えても理解できない出来事は…)
ガラティスの手に落ちたパールが無事でいられた理由を、一平は初めて得心した。
「われにはわかっていた。
われには見えていたのだ。
あの愚かなガラの放蕩息子が災厄を必ず引き起こすことが。
われの力ではどうにも止められない世の流れであることが。
だがわれはトリトニアを守りたかった。
われを礎にして築かれてきた海人の楽園、トリトンの園を殲滅されたくなかったのだ。
たとえ生き残ったのが五本の指にも満たない人々だったとしても、生きる力を失わず立ち上がれるように癒しの力をあの娘に与えておいた」
「偉大な力を発現するエネルギーを、生まれたばかりのあの娘にに見たからだ。本来ならこの世に誕生することの叶わない肉体だったにも拘らず、あの娘は生まれてきた。それを望む両親の強い愛と娘自身の持つ生きようとする力によって。きっとその力はわれの願う未来へ繋がる力だ、人々の希望の星になれると、われはあの娘の上に見えない徴を付けた。
だがあの娘は思いの外弱かった。あのままぬくぬくと王宮の中で育っていたら、おそらくあの力は発現しなかっただろう。だからわれはあの娘を飛ばしたのだ。運命の絆で結ばれているおまえの元へと。強い望みを持つが故に、勇者となるべくわれに棚を種を植え付けられた今一人の者。一平、おまえの元へ」
目の前がぐらぐらした。
(何だ?この声は誰なんだ?一体、何を言っている?)
そう思っても、頭の何処かでは一平は理解していた。この声の主が想像を絶するほど偉大な力を持った者であることを。




