第十四章 波濤を越えて
タイタンが上衣をかなぐり捨てる。その黒光りする見事な筋肉を見せつけて相手の戦意を減殺しようという肚だ。
対するフォースも思い切りよく脱いだ。こちらもよく鍛えられた身体だが、タイタンのようにごつごつしてはいない。必要なところに無駄なくついた筋肉は引き締まり、かつしなやかそうである。
フォースを除く三人がそれ以外のことに気を取られた。
その身体中に付けられた大小さまざまな傷跡である。胸にも肩にも腕にも…。だが顔と背中にはない。
「フォース…その身体…」
思わずサンドラが呟く。
「ああ。これか!?案ずるな。みな古傷だ。オレは一体何を生業としていたんだろうな?」
フォースは小声で答えた。彼には日常見慣れたものだ。
「こんなにあるのに背中はとてもきれい…」
「!?…そうなのか?自分では見えないからな…」
家に鏡がないわけではないが、わざわざ二枚の鏡を使ってまで後ろ姿をチェックする必要などなかったのだ。
―なぜだろう?―
サンドラは考えた。
導ける結論は一つ。
敵に後ろを見せたことがないからだ、きっと。
それは如実にこの男の性格を表している。曲がったことが嫌いで、しかも困難から逃げ出すことを潔しとしなければこういう結果になる。いいも悪いも正面から受け止めて、かつ撥ね返す力があったからこそ、現在も生き延びてここにある。正義と勇気の証、実力の証明書がこれらの傷跡だ。服に隠れて見えないが、恐らく下半身にも無数にあるのだろう。
同じようなことをタイタンも一目で感じ取っていた。
彼もそれなりの訓練を積んでここまでの肉体を手に入れている。不甲斐ない主人に使われているとはいえ、同類なのだ。一種の尊敬とライバル心を持ってフォースに対した。
キャロは別である。背中にまで気が回らず、なんだ傷だらけじゃないか、顔に似合って弱っちいな、などとほくそ笑んでいた。
四つに組んだ二人は互いに一歩も譲らず、体力勝負となった。
微妙な力の入れ具合で時々体勢が変わるが、なかなかどちらかが投げ飛ばされるというところまで進まない。
二人の脂汗と体温でそこだけ海水が温まっている。
「やるな…」
「おまえもな…」
「どこで習ったのだ?師は誰だ?」
「そんなことを訊いてどうする?オレに隙を作らせようというのなら無駄だぞ」
タイタンの素朴な疑問も迂闊に答えることはできない。下手に喋れば芝居とバレる。
「おれは純粋に感動しているのだ」
タイタンの口調には策略は微塵も感じられない。
「おれも長いこと護衛をやっているが、こんな傷のつき方をした男に会ったのは初めてなのでな。噂には聞いたことがあるが。トリトニアの重鎮にそういう奴がいるとな。だが他にもいるとは…」
タイタンの言葉の何に引っ掛かったのか、フォースは一瞬眉をひくつかせた。何かが彼の心に張った糸を引っ掻いて鳴らしていったのだ。
(何だろう?)
フォースは思った。
(今、何かが…何かを思い出しかけた。一体何をだ?)
疑問に思ったことがフォースに隙を作った。
画策したわけではないが、そういう隙を見逃すようなタイタンではない。足を引っ掛けて横倒しにし、フォースの身体を組み敷きにかかる。
「やった!!」
「フォース!!」
キャロとサンドラが、同時に叫ぶ。
が、終わりではない。海底に倒れる寸前、フォースは身体を捻ってタイタンの身体の下から抜け出していた。
(…!?…)
何が起こったのかわからないほど素早い。タイタンの目の前に伏せられたはずのフォースの姿は既に彼の背後にあった。
次の瞬間、タイタンは羽交締めにあっていた。
ぐぎっ!!
骨のきしむ嫌な音がする。
「ぐあっ!!」
タイタンの肩が外れていた。
「悪いがこれで終わりにさせてもらう。なに、お医師に診て貰えばすぐに肩を入れてくれる」
フォースは言った。怪我の処置も心得ているようだ。自分がしてやってもいいが、今するのは無意味だろう。
関節が外れているので、痛む部分を己が手で抱え込むこともタイタンにはできない。両手をだらりと下げ、膝をついて唸るしかなかった。
蹲るタイタンを尻目にフォースはキャロの目の前に歩み寄る。
「…貴様…」
悔しそうにフォースを見上げるキャロの目に、僅かだが怯えが走った。
「納得、してもらえたかな?」
歯噛みをするが、また噛み付いた。
「まだだ!!うちにはタイタンの他にも強い奴がいる。もう一度勝負だ!!」
精一杯凄んで叫んだが、次の瞬間顎と口を掴まれて背後の岩に押さえ込まれた。
「うぐっ…」
「悪あがきはよせ。男に二言はないはず。潔く退くがいい」
有無を言わさぬ口調であり、目の色だった。
だが、キャロは不自由な頭を横に張った。自分の口を押さえるフォースの右の手を両手で掴んで引き剥がそうと懸命になっている。まるで駄々を捏ねて興奮し過ぎて親の制止もとりなしも耳に入らない小さな子どものように。
「あまり聞き分けがないとこちらも考え直すぞ。今すぐおまえを切って捨てることもできるが、そうされたいか?」
フォースの剣呑な言葉に、さすがのキャロもビクッと止まった。
「サンドラ。剣を」
抱えていたタイタンの中剣を、サンドラはフォースに差し出した。渡すつもりなどさらさらなかったが、命令をし慣れた者の醸し出す雰囲気に抵抗できなかった。
「己の従者の剣であの世へ行きたいか?思い残すことは?」
めちゃめちゃ物騒な物言いである。
この男が実際にこの程度のことで人を殺めることがあろうはずがないと思う一方で、嘘や冗談ではないと思える気迫を感じて、サンドラは一歩も動けない。
さすがのキャロも顔面蒼白で腰を抜かしている。
「…キャロさま…」
痛みを堪えながらタイタンが呼ぶ。動いても何もできない我が身が歯痒く、それでも主人を守らねば、とタイタンの思考は働く。
「キャロさま。退きましょう。帰りましょう。もうだめです。これ以上言い張っても競っても、サンドラさまはその気になりません。あなたにもわかっておられるはずだ。私と共にお館様の元へ戻りましょう…」
「…タ…イタン…」
背後にタイタンの言葉を感じ、フォースは言う。
「おまえはいい主人ではないようだが、いい従者を持っている。いい男だな、あいつは…。彼の助言に従い敬意を持って接すれば、必ずやおまえの株も上がろう。いずれ人の上に立とうというつもりなら、性根を鍛え直すがいい。自分の世間での評判を知らぬわけではあるまい?その年でフラフラしてばかりで何が楽しいのだ?充足感を味わえない男にはどんな女も靡かないぞ」
「……」
フォースの言葉は妙に説得力がある。
本当に何者なのだろう、この人は?と、サンドラはただ感心するばかりだ。
何を思ったか、フォースはキャロの耳元に口を寄せて囁いた。
「それにな。サンドラはもう既にオレがもらった。彼女はいい女だ。おまえは目が高い。だが、お手つきは御免だろう?」
「!!!」
キャロは目をまん丸くした。そして、放してもらった口を魚のようにパクパクさせた。
「…貴様…、もう…やっぱり…」
「女性をあまり困らせるものではない。おまえは若いのだから、努力次第でどんないい女でも言い寄ってくるようになるぞ」
よき先輩のようなフォースの口振りがキャロの心を和ませていた。実の兄にすら、久しくこんな優しい言葉をかけてもらったことはない。
「キャロさま…」
必死の思いで歩み寄ったタイタンに場所を譲り、フォースは立ち上がった。
「参りましょう。キャロさま。まだ私にも随行するくらいはできます」
促すタイタンにキャロは言う。
「いや。いい。それより先にお医師の所へ行こう。無理を言って、悪かったな」
「キャロさま…」
この主人の口から労いや謝罪の言葉を聞くことがあるとは思ってもみなかったタイタンである。目を丸くし、肩の痛むのも忘れるほど驚いた。
「サンドラ」
そしてキャロは不意にご執心の女を呼ぶ。
「おまえはそいつにくれてやる。おれはもっといい女を嫁にするからな。…せいぜい可愛がってもらえよ」
『覚えてろ』とは言わずに去ってゆくキャロとタイタンを、サンドラは呆気に取られて見送った。
「嘘みたい…」
ぼんやりと、サンドラは呟いた。
「む!?」
「あのキャロが…あんなにしおらしくなるなんて。一体どういう魔法を使ったの?」
「…人は、それぞれだ。環境や育ち方で善くも悪くもなる。ああいうわがままに育ったやつには、よいところを一つでも見つけて伸ばしてやることが必要なんだ。なかなか見つけるのが難しかったが…。あの従者がよくできた奴だったので何とかなったようなものだ」
しみじみとフォースは言う。まるで以前にも誰かのわがままを改善してやったことがあるかのような口ぶりだ。
「あなた…よくそんなこと…」
「人を使うには、人をよく見なければならんからな」
―人を使っていたの?―
そう尋ねようとして、サンドラはやめた。訊いても答えられないだろうし、それに何だかあまり思い出してほしくない気がしてきたのである。
代わりにサンドラは訊いた。
「ね。さっき、最後にキャロになんて言ったの?」
「ああ。あれか。もうサンドラはオレのお手つきだから諦めろと、そんなことを言った」
「え!?」
方便だとわかっていたが、思わずサンドラは赤くなってしまった。
「いやだ。そんなこと言ったの?」
「ああいう手合いにはそれくらいがちょうどいいのだ。独占欲が強そうだったからな。…やはり…まずかったか?」
サンドラが気まずそうにしているのに気がついたフォースはちょっと心配になった。
「あ…別に…。いいんだけど…。キャロの口から村に広まったらやだなって、ちょっと思ったのよ」
「すまぬ。そこまで気が回らなかった。婚約者ということになっているので都合がいいだろうと思ったのだが…」
「事実なら仕方ないんだけど…」
事実でないのがちょっと寂しい、とサンドラは思った。
「すまぬ。本当にすまぬ。オレが考えなしだった」
こうなるとフォースは平謝りだ。
その姿がさっきの様子とあまりに違うのでおかしくなり、サンドラは吹き出した。
「…事実に…しよっか!?」
笑いを堪えながら尋ねてみた。
「え!?」
フォースは鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。
ついで、真っ赤になってゆくのを眺め、サンドラは満足そうに言った。
「ばかね。冗談よ」
あの堂々とした態度とこの子どものようなギャップがたまらない。
サンドラはますますフォースを揶揄うのが楽しくなっていた。




