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わずかな違和感 ― 立ち止まる瞬間

朝の空気は、いつもと同じだった。


珠希は鏡の前に立ち、

いつものように表情を整える。


目の下の影は、

昨日より少しだけ濃い。


でも、問題はない。


口角を上げる。


「おはよう。」


その声は、

昨日と同じように自然だった。


茜は振り返り、

少し安心したように笑う。


悠真も頷く。


“今日も大丈夫。”


その空気が、

家の中に静かに広がった。


学校。


午前の授業は、何事もなく進んだ。


珠希はノートを取り、

指されたら答え、

目立たず、

問題も起こさない。


“普通。”


それが今日も守られている。


三限目。


黒板の文字を見ていたとき、

ふと、視界が揺れた。


一瞬だけ、

ピントが合わなくなる。


音が遠くなる。


チョークの音だけが、

妙に強く響く。


“あれ……”


珠希は瞬きをする。


視界は戻る。


数秒の出来事。


誰も気づいていない。


だが、

そのあとだった。


立ち上がろうとした瞬間、

足に力が入らなかった。


ほんの一瞬。


体が、

遅れて動く。


机に手をつく。


「……大丈夫?」


前の席の子が、

小さく振り返る。


珠希はすぐに笑う。


「うん、ちょっとだけ。」


声は普通だった。


“バレてない。”


そのことに、

ほっとする。


昼休み。


珠希は席に座り、

パンを開ける。


手が、少しだけ重い。


“疲れてるだけ。”


そう思い込む。


それ以外の理由を考えない。


考えたら、

何かが崩れそうだった。


午後の授業。


先生が教室を歩きながら、

ふと珠希の机の前で止まる。


「佐伯、顔色悪くないか。」


唐突な一言。


珠希は、

一瞬だけ言葉に詰まる。


だが、すぐに笑う。


「大丈夫です。」


先生は少しだけ様子を見る。


だが、

それ以上は何も言わなかった。


“問題なし。”


そう判断された。


放課後。


珠希は校門の前で立ち止まる。


帰る。

それだけのはずなのに、


足が動かない。


理由はない。


ただ、

体が少し重い。


呼吸が、少し浅い。


“歩ける。”


そう思って、一歩踏み出す。


帰り道。


信号待ちで立っていると、

また少しだけ視界がぼやける。


周囲の音が遠くなる。


車の音。

人の声。


全部が、

膜の向こう側にあるように感じる。


珠希は目を閉じる。


数秒。


深呼吸。


戻る。


何もなかったように、

また歩き出す。


家。


「ただいま。」


声は、いつも通り。


茜は振り返る。


「おかえり。」


一瞬だけ、

珠希の顔を見る。


何か引っかかる。


だが、

すぐに消える。


“疲れてるだけ。”


そう思ってしまう。


悠真も、

リビングから声をかける。


「今日はどうだった。」


「普通。」


その一言で、

会話は終わる。


夜。


珠希は机に向かう。


ペンを持つ手が、

わずかに震える。


でも、

書ける。


問題はない。


“まだ大丈夫。”


そう思う。


布団の中。


珠希は目を閉じながら、

今日のことを思い返す。


視界が揺れたこと。

足が止まったこと。

先生に言われたこと。


全部、

小さいこと。


全部、

説明できること。


「……大丈夫。」


小さく呟く。


それは、

誰かに向けた言葉ではなく、

自分に言い聞かせるためのものだった。


この日、

初めて“違和感”は

はっきりと形を持った。


だが、

まだ誰もそれを

問題として扱わなかった。


小さすぎる。

曖昧すぎる。


だからこそ、

そのまま積み重なっていく。

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