わずかな遅れ ― 予定がずれる日
その日は、朝から雨だった。
細い雨が、
窓を叩くでもなく、
ただ静かに降り続いている。
珠希は傘を差し、
いつもより少し早く家を出た。
「行ってきます。」
「気をつけてね。」
茜の声は、
昨日と同じ温度だった。
悠真も、
特に違和感を覚えない。
“今日も普通。”
その前提で、一日が始まった。
学校。
授業は滞りなく進み、
珠希はまた、
何も問題を起こさなかった。
だが、
昼過ぎから、
胸の奥がじわじわと重くなっていく。
教室の空気が、
妙に狭く感じる。
帰りたい。
でも、
どこに帰りたいのか分からない。
放課後。
雨はまだ止んでいなかった。
珠希は校門の前で立ち止まる。
“今日は、
まっすぐ帰る。”
そう決めたはずだった。
けれど、
足は自然と音楽準備室の方向へ向かう。
ドアを閉める。
静寂。
外の雨音だけが、
薄く聞こえる。
珠希は床に座り込んだ。
息を整える。
何も考えないようにする。
気づけば、
時計は予定より三十分進んでいた。
“そろそろ帰らないと。”
立ち上がる。
だが、
体が重い。
もう少しだけ。
その“もう少し”が、
さらに時間をずらしていく。
夕方。
茜はキッチンで夕食の準備をしていた。
時計を見る。
いつもの時間。
“もうすぐ。”
そう思い、
特に連絡はしない。
十分後。
まだ帰らない。
茜はもう一度時計を見る。
“雨だからかな。”
そう考え、
自分を落ち着かせる。
さらに十分。
玄関は静かなまま。
茜は、
初めてスマートフォンを手に取った。
メッセージを打つ。
「どこ?」
送信。
既読はつかない。
悠真が帰宅する。
「……まだか?」
茜は、
少しだけ声を低くする。
「雨だから、遅れてるだけだと思う。」
そう言いながら、
胸の奥がわずかにざわつく。
校舎。
珠希は、
ようやく立ち上がる。
スマートフォンを見る。
母からのメッセージ。
一瞬、
胸が強く締めつけられる。
“心配させた。”
その事実が、
急に重くなる。
急いで返信する。
「今帰る。」
送信。
家。
茜は既読の表示を見て、
ほっと息をつく。
「帰るって。」
悠真も、
軽く頷く。
“やっぱり、大したことない。”
そう思いたかった。
二十分後。
玄関のドアが開く。
「……ただいま。」
声は少しだけかすれていた。
茜は近づく。
「遅かったね。」
責める声ではない。
珠希は、
小さく笑う。
「雨で。」
それだけ。
その夜、
三人は何事もなかったように過ごした。
だが、
“少し遅れただけ”の出来事が、
家族の中に
初めてはっきりとした不安を残した。
まだ小さい。
まだ曖昧。
でも確かに、
心の奥に引っかかる感覚。
布団の中で、
珠希は思う。
“次は、
もっとちゃんと帰らないと。”
“心配させないように。”
その決意が、
自分の限界を
さらに押し込めることになるとは、
まだ気づいていなかった。




