静かな限界 ― 触れられないSOS
朝の空気は、やけに澄んでいた。
冷たくて、痛いほどに透明だった。
珠希は、鏡の前に立っていた。
顔色は悪くない。
目も腫れていない。
制服もきちんと整っている。
“問題なし。”
そう自分に言い聞かせる。
外から見れば、
どこにも異常はない。
それが、
いちばん安心できる条件だった。
学校。
授業中、
先生に指名された。
「佐伯、ここ読めるか。」
教科書を見て、
文字を追う。
声は出る。
ちゃんと読める。
でも、
自分の声が遠くに聞こえた。
教室の空気が、
薄い膜の向こうにあるみたいだった。
読み終えると、
誰も何も言わない。
それでいい。
“目立たなかった。”
それが、
今日の小さな成功。
昼休み。
机の上に、
知らない紙が置かれていた。
折りたたまれている。
開くと、
たった一言。
「まだ学校来てるんだ。」
字は雑で、
名前もない。
珠希は、
少しだけ指が震えた。
でも、
紙をゆっくり折り直し、
ポケットに入れる。
破らなかった。
捨てなかった。
“証拠”にする気も、
“怒る”気もなかった。
ただ、
持っておく。
それが、
自分が受け止めた証になる気がした。
放課後。
音楽準備室。
今日は、
鍵盤に触れてみる。
小さく、
かすれた音が鳴る。
その音が、
自分の心の奥に直接届いた。
胸が、
きゅっと締めつけられる。
“助けて。”
頭の中で、
初めてはっきりとその言葉が浮かぶ。
でも、
誰に向けて言えばいいのか、
分からなかった。
ママ?
壊れそう。
パパ?
戦いそう。
先生?
踏み込まない。
誰にも、
ちょうどよく届かない。
珠希は、
鍵盤から手を離した。
夜。
帰宅時間は、さらに少し遅れた。
「……ただいま。」
茜は振り返り、
一瞬だけ珠希の顔を見た。
その目の奥に、
疲れがあることに気づいた。
でも、
何も言わなかった。
“聞いたら、
あの子はもっと閉じる。”
そう思ってしまった。
優しさのつもりだった。
悠真は、
書斎から出てきて、
軽く言う。
「最近、顔色悪いぞ。」
珠希は、
すぐに答える。
「平気。」
その即答が、
不自然なほど早かった。
悠真は、
一瞬だけ違和感を覚える。
だが、
それを追わなかった。
“無理に広げるな。”
自分に言い聞かせる。
深夜。
珠希は布団の中で、
胸の上に手を置いていた。
心臓の鼓動が、
いつもより速い。
呼吸が浅い。
でも、
泣けない。
“泣いたら、
本当に壊れちゃう。”
天井を見つめながら、
静かに思う。
“誰か、
気づいて。”
声には出ない。
音にならない。
そのSOSは、
部屋の空気に溶けて、
誰の耳にも届かなかった。
この日、
珠希の中で、
はっきりとした“限界”が生まれた。
でもそれは、
外からは見えない形だった。
家族は、
同じ屋根の下にいながら、
その小さな崖に
まだ、
気づいていなかった。




