気づかない選択 ― 守るための無関心
朝の食卓に、
三つの椅子が並んでいた。
だが、
誰も同時には座らなかった。
茜が先に立ち、
洗濯機の音が回り始める。
悠真はコーヒーを一口飲み、
時計を見る。
珠希は、その間に靴を履いていた。
「……行ってきます。」
珠希の声は、
いつもより少し軽かった。
茜は洗面所から顔を出し、
「行ってらっしゃい。」
悠真も続ける。
「……気をつけて。」
そのやり取りに、
違和感はなかった。
違和感がないことが、
一番の違和感だった。
昼。
茜はスマートフォンを手に取り、
連絡先を開く。
“学校に、様子を聞くべきだろうか。”
その指が、止まる。
“聞いて、
もし問題があったら?”
“今は、
余計な刺激を与えない方がいい。”
画面を閉じた。
何もしない。
それが、
一番穏やかな選択に見えた。
同じ頃、
悠真は書斎で資料を眺めていた。
ページをめくりながら、
ふと思う。
“最近、
珠希は自分から何か言ってきただろうか。”
答えは、すぐに出た。
いいえ。
でも、
それを“問題”だとは思わなかった。
“言ってこないなら、
今は大丈夫なんだろう。”
そう結論づける。
聞かないことが、
信頼だと信じた。
放課後。
珠希は、
いつものように音楽準備室へ向かった。
ドアを閉める。
外の音が消える。
椅子に座り、
壁に背を預ける。
ここでは、
誰も心配しない。
誰も期待しない。
“私がいなくても、
困らない。”
その安心感に、
胸が少しだけ軽くなる。
夕方。
茜は夕食を作りながら、
時計を見た。
“もう少しで帰ってくる。”
そう思って、
何も連絡しなかった。
連絡をしないことは、
信じている証拠だと思った。
夜。
珠希は遅めに帰宅する。
「……ただいま。」
茜は振り返り、
微笑んだ。
「おかえり。
疲れてるでしょ。」
それ以上、
何も聞かなかった。
悠真も、
テレビを消したまま言う。
「……無事なら、それでいい。」
珠希は頷き、
自分の部屋へ向かう。
“今日も、
聞かれなかった。”
それが、
成功だったのか、
それとも――
分からなかった。
深夜。
茜は布団に入り、
天井を見つめる。
“何も起きていない。”
“少なくとも、
表面上は。”
その考えが、
自分を少しだけ安心させた。
悠真も、
同じように目を閉じる。
“無理に踏み込まない。”
“それが、
今の最善だ。”
珠希は、
自分の部屋で灯りを消し、
静かに横になった。
“誰も、
私のことを追い詰めてない。”
その事実が、
同時に
“誰も、
私を見ていない”
という意味でもあることに、
まだ気づいていなかった。
この日、
誰も間違った選択はしなかった。
ただ、
守るために選んだ無関心が、
少しずつ、
家族の距離を広げていただけだった。




