重ならない時間 ― 家にいても会えない
夜のリビングは、
いつの間にか“通過する場所”になっていた。
茜はキッチンで夕食の後片付けをしている。
時計は、もう八時を回っていた。
「……珠希、もうすぐ来るかな。」
誰に言うでもなく呟く。
返事はない。
悠真が帰宅したのは、その十分後だった。
コートを脱ぎながら、
何気なく言う。
「……今日は、まだか。」
「うん。」
それだけの会話。
二人は、
それ以上の言葉を探さなかった。
珠希が帰ってきたのは、
九時を少し過ぎてからだった。
玄関のドアが静かに開く。
靴を脱ぐ音も、できるだけ小さく。
「……ただいま。」
茜が顔を出す。
「おかえり。」
その声には、
安堵と、
聞いてはいけない何かが混ざっていた。
「遅くなって、ごめん。」
「うん。
お風呂、先に入る?」
珠希は少し考えてから、
頷いた。
食卓には、
すでに片付けられた食器。
“みんなで食べる”という習慣は、
いつの間にか消えていた。
珠希は一人でパンをかじり、
すぐに部屋へ戻る。
その頃、悠真は書斎にいた。
パソコンの画面を見つめながら、
内容はほとんど頭に入っていない。
「……最近、
あの子と話してないな。」
思いついたように呟く。
でも、
“いつ話せばいいのか”が分からなかった。
朝は、すれ違い。
夜は、もう遅い。
翌朝。
珠希は、
誰よりも早く家を出た。
リビングには、
メモが一枚だけ残されている。
「先に行きます。」
茜はそれを見て、
胸の奥が少しだけざわついた。
“昨日、
ちゃんと顔を見ただろうか。”
思い返しても、
はっきりしない。
夕方。
茜が買い物から戻ると、
家には誰もいなかった。
時計を見る。
“まだ、早い。”
そう思って、
自分に言い聞かせる。
夜。
三人は同じ家にいた。
でも、
同じ時間を
一秒も共有していなかった。
珠希は部屋でイヤホンをつけ、
音を遮断する。
悠真は書斎で資料を読み、
茜はリビングでテレビを消したまま座る。
ドア一枚隔てただけなのに、
それぞれが
別の場所にいるようだった。
珠希は、
ベッドに横になりながら考える。
“今日、
誰とも目を合わせてない。”
それが、
当たり前になりつつあることが、
少し怖かった。
でも同時に、
少しだけ楽でもあった。
リビングでは、
悠真が立ち上がりかけて、
また座り直す。
“今さら、
何を話せばいい。”
その迷いが、
時間をさらにずらしていく。
この家では、
誰も怒っていなかった。
誰も拒絶していなかった。
ただ、
生活のリズムが
静かに、
確実に、
噛み合わなくなっていただけだった。
それは、
壊れる前の家が出す、
とても小さな音だった。




