小さな逃げ場 ― 放課後の居場所
放課後の校舎は、昼間よりも静かだった。
廊下に残る足音が、どこか他人事のように響く。
珠希は下駄箱の前で立ち止まり、
しばらく靴を履かずに、校内を見渡していた。
“今日は、まっすぐ帰りたくない。”
理由はなかった。
ただ、家に戻ることも、
誰かと話すことも、
同じくらい重たかった。
校舎の端にある階段を上る。
使われなくなった音楽準備室の前で、足が止まった。
ドアは半分だけ開いている。
中に入ると、
古い譜面台と、傷のついたピアノ。
埃の匂い。
誰もいない。
珠希は、
その静けさにほっとした。
椅子に座り、
ランドセルを足元に置く。
ここでは、
名前も、噂も、
誰の娘かも関係ない。
ただの“一人”でいられる。
指先で、ピアノの鍵盤に触れる。
音は出さない。
出さなくていい。
“ここなら、考えなくていい。”
時計を見ると、
すでに帰宅時間は過ぎていた。
でも、
誰からも連絡は来ていない。
そのことが、
少しだけ安心で、
少しだけ怖かった。
夕方。
外が暗くなり始めたころ、
珠希は立ち上がった。
廊下に出ると、
校舎はさらに静まり返っている。
その静けさが、
胸にすっと入り込んでくる。
“このまま、
どこかに消えられたら。”
そんな考えが、
一瞬だけ浮かんだ。
珠希は慌てて首を振り、
校門へ向かった。
家に着くと、
玄関の明かりが点いていた。
「……ただいま。」
返事は、少し遅れて返ってくる。
「おかえり。」
茜の声。
珠希は靴を脱ぎながら、
時計を見た。
「……遅くなってごめん。」
茜は一瞬、言葉を探してから、
優しく言った。
「大丈夫。
無事なら、それでいい。」
その言葉に、
珠希の胸がちくりと痛んだ。
“本当は、
心配してほしかった。”
でも、それを言えば、
母を縛ってしまう気がした。
「……うん。」
それだけ答えて、
自分の部屋へ向かう。
夜。
悠真が帰宅する。
「……珠希、今日はどうだった。」
珠希は少し考えてから言った。
「……普通。」
その一言で、
今日の話は終わった。
布団に入って、
珠希は天井を見つめる。
音楽準備室のことを思い出す。
“あそこなら、
少しだけ息ができる。”
それが、
小さな逃げ場だった。
同時に、
誰にも知られない場所を持つことが、
少しだけ誇らしくもあった。
“私には、
私の場所がある。”
その思いが、
ほんのわずかな安心をくれた。
けれど――
安心は、
いつの間にか
“戻らなくてもいい理由”にもなっていた。
リビングでは、
悠真と茜が並んで座っていた。
「……最近、
あの子、放課後どこに行ってるんだろうな。」
悠真の言葉に、
茜は答えなかった。
分からない、
と言うのが怖かったから。
その夜、
誰も知らないまま、
珠希は
“帰らなくてもいい場所”を
一つ、持ってしまった。
それは、
静かで、
安全で、
とても脆い逃げ場だった。




