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言えない言葉 ― 娘の沈黙

夜更け。

珠希の部屋には、机のスタンドライトだけが点いていた。

ノートは開かれているのに、

文字は一行も増えていない。


ペンを持ったまま、

珠希はじっと紙を見つめていた。


“助けて”

その二文字が、頭の中で何度も浮かんでは消える。


でも、書けなかった。


書いてしまったら、

何かが決定的に壊れてしまう気がしたから。


学校では、

今日も何事もなかったように一日が進んだ。


誰も珠希に直接何かを言わない。

それが、逆に重かった。


休み時間、

机を囲んで話す輪が、

ほんの少しだけ珠希を避ける。


偶然を装って。

気遣いを装って。


それが、いちばん残酷だった。


「……佐伯。」


後ろから声をかけられ、

珠希は肩を震わせる。


振り返ると、担任の先生だった。


「最近、元気ないね。」


その一言に、

胸の奥がきゅっと縮む。


“元気です”

そう言えば、話は終わる。


“大丈夫です”

そう言えば、誰も困らない。


珠希は、微かに笑って言った。


「……大丈夫です。」


先生は少しだけ安心した顔をして、

それ以上踏み込まなかった。


その表情を見て、

珠希は分かってしまった。


大人も、深く知りたくないのだ。


放課後。


校門を出たところで、

スマートフォンが震えた。


母からのメッセージ。


「今日はどうだった?」


昨日と同じ文面。

昨日と同じ問い。


珠希は、しばらく画面を見つめてから、

同じ答えを返した。


「大丈夫。」


それが、

自分を守るための唯一の言葉になりつつあった。


帰宅すると、

家は静かだった。


悠真はまだ戻っていない。

茜はキッチンに立っている。


「おかえり。」


その声は優しかった。

だからこそ、

珠希は胸が痛んだ。


「……ただいま。」


ランドセルを置き、

自分の部屋へ向かおうとする。


その背中に、茜が言った。


「今日は、無理しなくていいからね。」


珠希は一瞬、立ち止まった。


“今なら、言えるかもしれない。”


そんな気が、ほんの少しだけした。


でも、

母の声が震えていることに気づいてしまった。


“ママも、もう限界なんだ。”


そう思った瞬間、

珠希は何も言えなくなった。


「……うん。」


それだけ答えて、

部屋に入る。


夜。


悠真が帰宅する。

コートを脱ぐ音。

鍵を置く音。


「……珠希は?」


「部屋。」


短い会話。

それ以上は、続かない。


悠真は珠希の部屋の前に立つ。

ノックしようとして、

また手を止めた。


“今、声をかけたら、

 俺の正しさを押し付けるだけになる。”


そう思ってしまった。


結局、

何もせずに戻る。


深夜。


珠希は布団の中で、

目を開けたまま天井を見ていた。


胸が苦しい。

息が浅い。


でも、

それを誰にも言えない。


“言ったら、

 ママはもっと壊れる。”


“言ったら、

 パパはもっと戦おうとする。”


どちらも、

自分が望んでいることではなかった。


「……私、

 いなくなったら、

 二人は少し楽になるのかな。」


その考えに、

珠希は自分で驚いて、

慌てて首を振った。


“違う。

 そんなこと、考えちゃだめ。”


布団を強く握りしめる。


涙は出なかった。

声も出なかった。


ただ、

言えない言葉だけが、

胸の奥に溜まっていった。


翌朝。


珠希は、

いつもより少し早く目を覚ました。


窓の外は曇り空。


その灰色が、

妙に落ち着いて見えた。

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