日常崩壊〜森の目覚め〜
「おはよう……って、誰もいないのに返事が来るわけないよな」
独り言が、冷え切った部屋に虚しく響く。
俺はカンラ。この街の外から派遣された軍人だ。当初の任務は、街の状況把握。仲間と共に意気揚々と乗り込んだが、その結末は無惨なものだった。
現れたのは、鬼のような仮面を被った怪物。銃弾を浴びせても、まるでそよ風でも受けたかのように平然と歩み寄り、仲間を次々と斬り殺していった。俺だけが、奴の爪を命からがら逃れ、この民家に潜伏している。
震える手で本部に状況を報告し、救援を求めた。だが、返ってきた無線命令は、救護とは程遠い「宣告」だった。
『特殊部隊員カンラへ。当該区域には未知の生物兵器が存在する可能性がある。地理的に拡散の恐れは低いが、封じ込めを優先し、唯一の脱出路である橋を軍部隊で完全封鎖した』
――ここからが、耳を疑う内容だった。
『具体的な脅威の内容が不明であり、ウイルス性の二次感染の疑いがある。感染拡大を阻止するため、街から脱出を試みる者は理由を問わず射殺せよ。貴君についてもウイルス感染の疑いを排除できない。よって、街からの脱出を厳禁とする。強行した場合は射殺も厭わない。待機せよ。生物兵器の安全性が確認された後、改めて連絡する』
「は……? ふざけるな!」
つまり、あの化け物は軍が関わっている生物兵器なのか? そして俺は、感染の疑いがあるという名目で、この「生贄の檻」に見捨てられたのか。
だが、ウイルスだというなら、傷を負わなかった俺が発症していないのはおかしい。軍は何かを隠している。
『ピー……』
その時、非情な電子音が響いた。
「まずい……っ!」
唯一の生命線である無線機のバッテリーが切れた。これでは、軍が方針を変えたとしても連絡を受け取れない。脱出の許可を得る手段が完全に断たれた。
予備の電池をバッグの中に探る。……ない。
「まさか、あの化け物から逃げる途中に落としたのか……」
場所は、あの忌まわしい森だ。
行きたくない。あんな化け物が闊歩する地獄へ戻るなんて、正気の沙汰じゃない。
しかし、ここで電池を諦めることは、この街で静かに腐っていく死を待つのと同じだ。
『パンッ!』
俺は自分の両頬を強く叩き、気合を入れ直した。
「……一日でも早く、あの化け物を殺して家族の元へ帰るんだ。こんなところで、捨て駒として死んでたまるか!」
カンラは銃のボルトを引き、再び森へと向かう覚悟を決めた。
「……はぁ……」
一歩、また一歩と森の奥へ踏み込む。だが、どれだけ探しても見つからない。
(どこに落としたんだ……。クソ、いつ襲われるかわからないこの状況で、集中力を維持するのは限界だ)
『――ドンッ!!』
数十メートル後方。巨大な木がなぎ倒される轟音が森に響き渡った。
「まさか、あの怪物が……!?」
恐怖が限界を超え、俺は電池を探すことなど忘れ、民家に向かってなりふり構わず走り出した。
だが、それが「最悪の悪手」だった。
『――ザクッ!!』
走る俺の胸を、鋭い衝撃が貫いた。
「が……はっ……!?」
視線を落とすと、胸から一振りの「刀」が突き出していた。投げられたものだ。数十メートル先から、全力で走る人間の急所を正確に射抜く、神業。
(クソッタレが……。死ぬわけにはいかない……家族に、会うんだ……!)
一矢報いてやろうと力を振り絞ったが、現実は無慈悲だった。アニメのように都合のいい奇跡など起きない。
次に飛来した二振り目の刀が、俺の頭部を容赦なく貫通した。
意識が、真っ暗な闇に吸い込まれていく。
『ふむ……。あなたにも見どころがある。チャンスを差し上げましょう』
どこからともなく、穏やかで冷徹な女の声が響いた。
『しかし、あの「鬼武者」は何なのでしょうね。あんなものまで……。まあ、いいでしょう』
「はっ……!?」
勢いよく跳ね起きると、そこは先ほどの民家だった。
「お、俺は確かに死んだはず……。ゆ、夢か?」
いや、違う。壁の時計は、午前十一時四十九分。俺が「あのメール」を受け取った、ちょうどその時間だ。
『ピッ!』
手元の端末が着信を告げる。間違いない。俺は過去に戻ったのだ。
だが、どうやって? 死ぬ間際に聞いた、あの声は……。
「……キーン……」
思い出そうとすると、頭の奥で鋭い耳鳴りが走り、記憶に霧がかかる。
しかし、現実は非情だ。電池を探しに再びあの地獄へ戻らねばならない状況は、何一つ変わっていない。
行きたくない。あんな化け物に、また殺されるなんて。
その時、森の彼方から空気を切り裂くような音が響いた。
『――ヴォォォォォーーン!!』
「……っ! なんだ、この叫び声は?」
それは、先ほどの鬼武者とはまた違う、耳を弄するようなサイレンの轟音。誰かが襲われているのか。
(助けるべきだ。だが、俺にあの怪物たちを止める術はない。どうする?)
自問自答が脳内を駆け巡る。
もし勝てなかったとしても、また「過去」に戻れるかもしれない。なら、助けに行ける。
いや、もし戻れなかったら? 次が最後だったら?
『パンッ!!』
俺は両頬を強く叩き、恐怖を無理やりねじ伏せた。
「……俺は、誇り高き軍人だ。人を守るために、この引き金を引くと誓ったんだ」
震える手で銃を握り直し、俺は叫び声の主――絶望の淵にいるはずの誰か――を救うため、再び森の中へと駆け出した。




