日常崩壊〜終幕〜
「ハッ!」
ダルクは勢いよく身を起こした。
「……おはよう」
部屋には静寂だけが返ってくる。いつもなら聞こえるはずの、両親の生活音がない。
どこへ行ったのかな。まあ、用事が済めば帰ってくるだろう。
「よーし、写真撮りに山に行こーっと」
ダルクはカメラを手に取り、いつものように森へと足を踏み入れた。
数時間後。
「よし、いい写真も撮れたし。そろそろ二人とも帰ってきてるだろ。帰るか」
満足げに歩き出したダルクの耳に、異音が届いた。
『――ゔぁーん……』
地鳴りのような、不気味な低い振動音。
「あれ、何の音だ? あっちの方から聞こえたな。行ってみるか」
ダルクは音の鳴る方へと足を進めた。しかし、近づくにつれて言い知れぬ悪寒が全身を這い上がってくる。
(な、なんだ……? 近づくほどに嫌な予感がする)
これ以上進んではいけないと、細胞の一つ一つが警鐘を鳴らしているようだ。
『……え……』
『……かえ……』
『帰れ』
『家に帰れ』
「ハッ!」
頭の中に直接響くような何者かの声に、ダルクは立ち止まった。な、何なんだ、今の声は。
『バンッ!』
不意に、破裂音が森に響いた。
ダルクが恐る恐る振り返ると、そこには目まで裂けるような笑みを浮かべた異形の怪物が佇んでいた。その足元には、真っ赤に染まった肉塊が転がっている。怪物は、人間を食っていたのだ。
「あ、あ……母、さん……?」
その肉塊が握りしめていたのは、母が肌身離さず身につけていた愛用のネックレスだった。
『ベチャッ』
ダルクの足元に、血まみれのネックレスを握ったままの「手首」が転がってきた。
「あ……は、はは……はははははははっ!」
静寂に包まれた森の中に響き渡ったのは、正気を失った少年の狂ったような笑い声と、怪物が肉を引き裂く咀嚼音だけだった――。
「ハッ!!」
ダルクは再び、勢いよく身を起こした。全身が脂汗でぐっしょりと濡れている。
(い、今のは……夢?)
荒い息を整えようとしたその時だった。
『――ゔぅーん……』
(この音……さっきの夢の中と同じだ……!)
「母さん!」
ダルクは考えるより先に、音が聞こえた方向へ向かって駆け出していた。今ならまだ間に合うかもしれない。
森を抜け、視界が開けた先に彼女はいた。
「母さん! 良かった、よかっ――」
「ダルク!」
母が振り返り、安堵の表情を浮かべた、次の瞬間。
『ドンッ!!!』
ダルクは、無事に母と会えたことに気を取られて忘れていたのだ。
母親は、あの怪物に「襲われていた」という事実を。それは、絶対に忘れてはいけないことだった。
怪物の巨大な腕が、母親を虫けらのように叩き潰した。
「あ……は、は……なんで、なんでだよ。助かったと思ったのに……!」
地面には大きなくぼみができ、怪物がゆっくりと手をどかすと、そこには手や足があり得ない方向にひしゃげた、人だったモノがこびりついていた。
怪物は頭部をギギッと傾け、まるで『次の餌』を見定めたかのようにダルクを睨みつけた。
「く、くそったれえええええっ!!」
恐怖よりも怒りと絶望が上回った。ダルクは我を忘れ、無謀にも怪物に向かって拳を振り下ろした。
『ウゥー……?』
怪物は「こいつは何をしているんだ?」と言わんばかりに首をかしげると、鬱陶しそうにダルクの身体を薙ぎ払った。
「ぐふっ……!」
ダルクの身体は宙を舞い、大木に激突してようやく止まった。全身の骨が砕けるような激痛。かろうじて即死は免れたものの、立ち上がることすらできない致命傷だった。
血を吐きながら、霞む意識の中でダルクは思う。
(父さん……。父さんに、会いに行かなくちゃ……)
――その時、ダルクはまだ気づいていなかった。
自分がもう、何千回もこの怪物に殺され、この絶望のループを繰り返しているという事実に。




