日常崩壊〜序章〜
鬱蒼とした森に囲まれた小さな一軒家。そこに住む高校生のダルクは、目前に迫る大学受験の重圧から逃れるように、カメラを手に森の中を歩いていた。息抜きのための、趣味の自然撮影だ。
いつものように静かな湖のほとりを歩いていると、不意に奇妙な音が耳に届いた。
『――ギィー……』
それは鳥の鳴き声でも、木々が擦れる音でもない。錆びた金属が軋むような、ひどく人工的で不快な声だった。
「たしかにここらへんで聞こえたんだけどな……」
音のした方へ向かっても何も見当たらず、ダルクが立ち去ろうとしたその時、重大なことに気がついた。首から下げていたはずの愛用のカメラがない。
落としたのかと周囲を探し回った彼の足元に、それはあった。しかし、見つかったカメラは、まるで巨大なプレス機で押し潰されたかのように、原型を留めないほど無残に粉砕されていた。
一体誰が、こんなことを。
そう思った瞬間、背後から再びあの音が響いた。
『ギァー……ギァー……!』
首筋に冷たい汗が伝う。ダルクは震える体を必死に動かし、ゆっくりと後ろを振り返った。
そこには、あり得ないものが立っていた。
見上げるほどの巨躯。おそらく二十五メートルは下らない。骨と皮ばかりのガリガリの身体、そして何よりも異常なのは――目まで裂けるような大きな口と、真っ赤に染まった歯が不気味に突き出していたことだ。
「あ……あ……」
あまりの恐怖に言葉を失い、へたり込みそうになるダルクを見下ろし、化け物は耳障りな叫び声を上げる。
生き物としての本能が警鐘を鳴らした。ダルクは弾かれたように背を向け、死に物狂いで駆け出した。
ズシン、ズシンという地響きと共に、化け物が木々をなぎ倒しながら追ってくる。ダルクは枝に服を引っかけ、泥に塗れながらも、安心できる唯一の場所――自分の家を目指してただひたすらに走り続けた。
どれだけ走っただろうか。家の扉を乱暴に閉め、鍵をかけ、その場にへたり込む。
追ってくる気配はない。どうやら途中で見失ってくれたらしい。
「なんだ……あの化け物は……」
荒い息を吐きながら、うわ言のように繰り返す。数時間が経ち、鼓動が落ち着いてきた頃、ダルクはようやく家の中の「異常」に気がついた。
両親が、いない。
出張の予定はなかったはずだし、置き手紙すらない。嫌な予感が胸をよぎったその時、開け放たれた窓の向こう、深い森の奥から声が響いた。
『たすけて……!』
母の声だった。
ダルクは激しく葛藤した。助けに行かなければ。しかし、あの化け物が徘徊する森に再び足を踏み入れるなど自殺行為だ。だが、徐々に弱々しくなっていく母の叫び声を無視することなどできず、彼は再び森へと飛び出した。
声のした方へ、森の奥深くへと進んでいく。
そして、彼はそれを見つけてしまった。
「母さん……?」
そこにあったのは、凄惨な肉片だった。辛うじて母の面影を残す首のような部位と、血だまりの中に落ちていた見覚えのあるペンダント。それらでしか母だと判断できないほど、彼女だったものはグチャグチャに噛み砕かれ、まるで何かに「食べられた後」のようだった。
「――ギィー」
背後からの音に、ダルクの心臓が跳ね上がった。
振り返る間もなく、あの化け物の細長い腕が伸びてきて、ダルクの身体を鷲掴みにした。とんでもない膂力に全身の骨が軋む。必死に抵抗するが、微動だにしない。
ああ、終わった。
そう覚悟した瞬間、化け物が人間の言葉を発した。
『やめろ』
いや、違う。化け物の声ではない。ダルクが痛みに顔を歪めながら視線を向けると、そこには猟銃を構えた父、ホーマの姿があった。
「父さん! 化け物が、たすけて……!」
「ああ」
短く答えた父は、迷いなく猟銃の引き金を引いた。轟音と共に放たれた弾丸が化け物の腕を削り、拘束が緩む。その隙にダルクは地面へと転がり落ちた。
これなら勝てるかもしれない。そう思い、父の方へ視線を向けたダルクの目に映ったのは、この世の地獄だった。
化け物は全く怯むことなく父に襲いかかり、猟銃ごとその身体を掴み上げていた。そして次の瞬間、虫でも千切るかのように、父の上半身と下半身を真っ二つに引き裂いたのだ。
「あ……あ……ウワァァァァッ!」
降り注ぐ血飛沫の中、ダルクの喉から絶叫が漏れる。
「に、逃げ……ろ……」
それが、父の最期の言葉だった。ダルクはひたすらに走った。大粒の涙で視界が歪む。両親の命と引き換えに生き延びてしまった絶望を胸に抱えながら。
もう、この森から、この島から逃げるしかない。
川に囲まれたこの土地から外界へ出られる唯一のルートである、大きな橋へと向かった。
しかし、橋のたもとにはすでに、森から逃げてきた住民たちがパニック状態で群がっていた。
「なぜ、逃げないんですか!?」
ダルクが叫ぶが、「ああ、どうしよう」「どうすればいいんだ」と怯えるばかりで、まともな答えは返ってこない。
「僕、先に行きますから。早く来たほうがいいですよ!」
そう言い残し、ダルクは橋に足を踏み入れた。
ああ、やっと出られる。あんな化け物がいる狂った島には、もう一秒だっていられない。
――パンッ。
乾いた破裂音と共に、ダルクの右足から鮮血が吹き出した。
「がっ……!?」
激痛に耐えきれず地面に倒れ込む。顔を上げると、橋の向こう側に武装した軍人たちが並び、一斉にこちらへ銃口を向けていた。
「現状、この島の人間が外部へ出ることは禁止されている。今すぐ引き返せ」
冷酷な声が響く。
「いやだ……」
ダルクは注意を聞き入れず、血を流しながら這って橋を渡ろうとした。
「最後の忠告だ。今すぐ、引き返せ」
「ああ、もう少しで……もう少しで助かるのに……」
ダルクの呟きを遮るように、無数の銃声が夜空に鳴り響いた。
硝煙が風に流された後、そこにはハチの巣にされ、顔の判別すらつかなくなったダルクの骸だけが転がっていた。
「気が狂っていたんだろう。少年だろうと油断するな。出ようとするものは全員殺せ……」
軍人の一人が、作業をこなすように淡々と呟く。
暗闇。
(あれ、僕は死んだんじゃ……?)
ダルクの意識の底に、どこからともなく女の声が響き渡った。
『ふふ、もう一度チャンスをあげるわ』




