鬼哭啾啾〜抵抗する者と捻じ曲げる者〜
――「チーン」
無機質な電子音が、静寂に包まれたB3フロアの到来を告げた。
開いた扉の先に広がるのは、B2と同じ冷徹な鉄の回廊。しかし、そこには先ほどまでカンラを追い詰めていた、あの湿った足音の主たちの姿はどこにもなかった。
「はぁ……はぁ……。ついたか、ここがB3か」
エレベーターの壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちる。
アドレナリンで麻痺していた痛みが、安堵とともに一気に噴き出してきた。銃で抗っていたとはいえ、全身は噛み傷と切り傷でボロボロだ。衣服は裂け、どす黒い血が鉄の床に滴り落ちる。
「……少し、休ませろ」
震える手で止血帯をきつく締め直し、荒い呼吸を整える。
だが、その束の間の休息は、この世のものとは思えない「音」によって無残に引き裂かれた。
「ギィーががlkfんぁじゃjぽあjkfsだdふぁdf!!!」
「な、なんだ……!? この爆音は……叫び声か?」
鼓膜が震え、脳が揺れるような轟音。
言葉にならないノイズと憎悪を煮詰めたようなその咆哮に、カンラは弾かれたように立ち上がった。
「なんなんだ……。今までに会ったどの化物とも違う……」
逃げるか? それとも戻るか?
葛藤が脳裏をよぎるが、背後のエレベーターはすでに沈黙している。
「いや、進む以外に手はない」
カンラは再び銃を構え、壁を背に這うようにして移動を始めた。いつ、どこからあの声の主が飛び出してきても対処できるように。
だが、どれだけ進んでも廊下は空っぽだった。
「……いないな。どこにも、あの叫び声の主らしき影は」
ただの録音が大音量で流れただけではないか。そんな希望的観測で自分を欺き、震える足を鼓舞する。
しかし、その淡い期待は、廊下の先に現れた「異常」によって粉々に打ち砕かれた。
「まじかよ……」
そこには、巨大な穴が開いていた。
手榴弾の爆風ですら傷一つ付かなかった、あの不気味なほど頑強な研究所の壁。それが、まるで紙細工のように無残にひしゃげ、内部から「何か」が力ずくで突き破ったような無骨な空洞と化している。
「……さっきの叫び声を上げた化物が、これをやったのか?」
物理法則を無視した破壊の跡を前に、カンラの背筋に凍り付くような戦慄が走った。
「さらに、気を引き締めて進む必要がありそうだな……」
目の前に開いた巨大な穴を見上げ、カンラは独りごちた。
壁をぶち抜いた主は、あの湖の化物ほどの巨体ではないだろう。だが、間違いなくあの「鬼」よりは一回り大きく、何よりこの強固な施設を物理的に破壊するだけの、凄まじい「純粋な膂力」を持っている。
カンラは吸い込まれるように、その破壊の跡から部屋の内部へと足を踏み入れた。
「……やはり、ここも研究所か」
室内には鼻を突く薬品の臭いが立ち込め、足元には粉々に砕け散ったフラスコの破片が散乱している。かつてここでは、人知を超えた何かが培養されていたのだ。
ふと、まだ割れずに残っていたフラスコの一つに目が留まる。
「これは……蜘蛛か?」
透明な液体に満たされた容器の中には、無数の蜘蛛が蠢いていた。
「虫を研究していたというのか……?」
まさか、あの森に溢れる異形たちが、こんな小さな虫から生み出されたとでもいうのか。
否、あり得ない。常識がそれを否定する。あんな絶望の化身たちが、これほど矮小な生物から――。
――バンッ!!
背後で突如として響いた、激しい打撃音。
「……っ!」
極限の緊張状態にあったカンラの指が、反射的にトリガーを引き抜いた。
――ダァァンッ!!
爆音と共に砕け散った強化ガラスの向こう側で、のたうち回る影があった。
「……蛾か? 巨大な……」
そこにいたのは、全長1メートルはあろうかという異様な姿の蛾だった。撃ち抜かれた羽を震わせ、鱗粉を撒き散らしながら息絶えていく。
「……しまっ、た……!」
静寂が支配すべき地下施設に、乾いた銃声が響き渡ってしまった。
B2のあの時と同じだ。この音を聞きつけた奴らが、また群れをなして押し寄せてくるかもしれない。
「すぐに出る。ここに長居は無用だ!」
カンラは逃げるようにその部屋を後にした。
焦燥感に突き動かされ、背後の闇を警戒しながら廊下へと駆け出す。
――彼はまだ知らない。
たった今飛び出したその部屋の片隅に、この狂った世界の真実へと繋がる「決定的な証拠」が残されていたことを。




