閑話 灰色の雨
雨は、灰色の空から絶え間なく降り続いていた。
ラースローは軍帽の庇を深く下げ、濡れた石畳を一歩ずつ踏みしめて進む。靴の先から冷たい水が染み込み、足元の感覚が鈍くなっていく。通りの両側には、商家の立派な屋敷が並ぶ。だが、彼が向かうのは、そのどれよりも控えめな、旧王家の分家の屋敷だった。
門扉は錆び、庭の植え込みも手入れが行き届いていない。主を失った家の静けさが、雨音に溶けていた。ラースローは、ふと立ち止まる。
――この家で、アーロン卿の家族は、どんな思いで日々を過ごしているのだろう。
彼の胸に、重いものが沈む。軍服の肩章が、いつもより重く感じられた。
門を押し開けると、軋む音が雨にかき消された。玄関までの小道には、雨水が小さな川を作っている。ラースローは足元を確かめながら歩き、玄関の前で一度深く息を吸った。
右手でベルを鳴らす。澄んだ音が、静かな家の中に響いた。
しばらくして、扉がゆっくりと開く。
現れたのは、執事ではなく、アーロン卿の妻――ミリヤナだった。
彼女の髪は乱れ、目元には深い隈が浮かんでいる。
ラースローは帽子を脱ぎ、胸に当てて一礼した。
「……ご無沙汰しております。駐留軍総督府警備隊隊長、ヴァルガ・ラースローです」
ミリヤナは、かすかに首を傾げた。
「夫のことでしょうか……?」
声は震え、希望と不安が入り混じっていた。
ラースローは、玄関先で立ち尽くす彼女に、静かに頭を下げた。
「お話ししなければならないことがございます。お時間をいただけますか」
ミリヤナは無言でうなずき、ラースローを家の中へ招き入れる。
廊下には、子どもたちの小さな靴が並んでいた。壁には、家族で撮った写真が飾られている。
ラースローは、濡れた軍帽を手に、居間の椅子に腰かけた。
窓の外では、雨がガラスを叩き続けている。
ミリヤナは、ラースローの前に座ると、両手を膝の上で固く握りしめた。
「夫は……まだ見つからないのですか?」
ラースローは、ゆっくりと口を開いた。
「数日前、イニス人街で発見された遺体は、アーロン卿ではありませんでした」
ミリヤナの肩が、わずかに震える。
「本当のアーロン卿は……迷宮の最深部で、息絶えておられました」
部屋の空気が、急に重くなる。
ラースローは、手にした封筒をそっと差し出した。
「アーロン卿は、最後まで勅書を守り抜きました。ダルマティア管区の正義を、命を賭して繋いでくださったのです。そして、最期の瞬間まで、ご家族のことを忘れませんでした。これは、彼が残した遺書です」
ミリヤナは、震える手で封筒を受け取る。
その瞬間、奥の部屋から子どもたちが駆け寄ってきた。
「お父さんは? 帰ってくるの?」
「お父さんに会いたいよ!」
ラースローは、言葉を失う。
ミリヤナは、封筒を胸に抱きしめ、声を上げて泣き崩れた。
母親の様子に尋常ならざる雰囲気を察した子どもたちも、ラースローにしがみつきながら目に涙を浮かべる。
「ねぇ?お父さん、返ってくるんだよね?お父さんを返して!お願いだから!」
「……」ラースローの視界が、雨に滲んで灰色に染まる。
彼は、軍人としての義務を思い出し、静かに説明を続けた。
「……アーロン卿のご功績により、遺族年金が支給されます。手続きについては、私が責任を持ってご案内します。ご不明な点があれば、いつでもご連絡ください」
だが、ミリヤナの嗚咽は止まらない。
子どもたちの叫びが、家の中に響き渡る。
ラースローは、ただ黙って立ち上がり、深く頭を下げた。
――一体、モーリツは何人のミリヤナを世に送り出したのか。
雨は、なおも降り続いている。
ラースローは、重い足取りで屋敷を後にした。
彼の心には、報復の決意だけが、静かに燃えていた。




