第三章 魔術と真実の迷宮
夜の書庫は、まるで時の底に沈んだ湖のようだった。
棚に並ぶ書物は静かに眠り、浅葱色の軍服に金の飾緒を揺らすヴィクトーリアは、月光の差す窓辺からゆっくりと歩み寄った。足音は厚い絨毯に吸われ、空気は紙とインクの香りに満ちていた。
「モーリツが動きました。戒厳令の再発令を準備しているようです。ラースロー隊長は、命令の解釈を慎重に行って、部隊の展開を遅らせていますが……時間の猶予は、そう長くありません」
「警官隊の調査結果は?」月光に照らされたカタリナの銀髪が輝く。
「成果はありません。こちらもモーリツの命令でイニス人街に犯人が逃げ込んだと調書を書かされ、イニス人街の調査に人員を駆り出されているそうです」
「ここまであからさまだと、犯人だと自供しているようなものですね……」円卓の向こうで、ラウノが星図を広げていた。彼の指が星の軌道をなぞるたび、紙の上に影が踊った。
「尋ね人は、隠されている、と星が言っています。場所は特定できませんが、魔術的な隠蔽がある――つまり、普通の目では見えない場所に、何かがあるはずです」
ヴィクトーリアは、ラウノの言葉に眉を寄せた。魔術的な隠蔽――それは、何かを隠すために意図的に施されたもの。
普通に考えるなら、死体が見つかってほしくない犯人が何らかの魔術的な隠蔽をしたということになる。
だが、今回はモーリツが犯人でほぼ間違いない。彼は死体を隠すどころか、死体を偽装してまで殺人事件を演出してみせた。
おおよそ死体の隠したい人間のやることではない。となると……。
「死体を隠したのは、モーリツじゃない……?」
何気ない一言だったが、その場にいた全員がヴィクトーリアに視線を浴びせ、次の発言を促す。
「いや、魔術で隠すってことは、誰かが〝見つけられたくない〟って思ってるってことだよね。モーリツは死体を偽装してまで殺人をあったことにしたかった。隠したかったのは、モーリツじゃなくて、他の誰かだったんじゃないかな?」
ヴィクトーリアの説明に、部屋の隅で椅子に腰掛けていたマテイが顔を上げた。
「じゃあ一体、誰が?」
「それが分かれば苦労しないさ。案外、アーロン卿本人かもしれない。ほら、襲われて逃げているうちに魔術的に隠蔽された場所に逃げ込んだ、とか……」
そんな都合の良い魔術的に隠蔽された場所があるものか、と思いながらヴィクトーリアは言う。
「いや、そうですね。その可能性は否定できませんね」意外なことにラウノが反応した。
「仰る通り、モーリツが隠したにしては魔術を使うなんて、やたらと手が込みすぎています。魔術師を用意して、わざわざ隠蔽を?これから殺人事件があると騒ぎ立てるのに、なぜ本物の死体を使わないのでしょうか?」
「本物の死体が手に入らない……から?」
「そうです、そうです。おそらく、モーリツはアーロン卿の殺害に失敗しているか、成功していても、その死体は手の届かないところに隠されてしまった。魔術的に隠蔽された場所で簡単に入れない場所……」
「……迷宮」
カタリナが相手の耳に届かないくらいの声量で正解を口にする。
「そう、迷宮です。迷宮は誰でも入れるものもありますが、大概は特別な目的を持って作成されており、関係者以外の立ち入りを禁ずるものが多いです。当然、その所在は魔術的に隠蔽するのが一般的です」
時計の秒針が書庫の沈黙を一定の間隔で刻む。十を数えない内に、マテイが突然立ち上がる。
「そうだ!迷宮と聞いて、思い出しました。ダルマティア旧王国時代の童話に、地下に広がる〝星の迷宮〟の話がありました。王子が神々の試練を受けるために、夜の階段を降りていくという話です。民の間では、実在した王城の地下に迷宮があったと信じられていました」
カタリナが静かに立ち上がり、書架の一角へ向かう。彼女の銀髪が揺れ、灰の瞳が棚の奥を見据える。
「現在の政庁は、ダルマティア旧王家の王城を改修したものです。地図には、地下構造の記述はありませんでしたが……」彼女は一冊の地図帳を取り出し、卓上に広げた。ラウノが驚いたように眉を上げる。
「早いですね。まるで場所を覚えていたみたいに」
ヴィクトーリアは微笑みながら答えた。
「人形姫は、この書庫の全てを制覇済みなのさ。内容も、すべて頭の中」
ラウノが小さく息を漏らす。
「……それは、星図よりも正確かもしれないですね」
カタリナが指差した地図の一角に、微かに歪んだ線があった。魔術的な隠蔽が施されている痕跡。
ラウノが魔術具を取り出し、光を当てたその瞬間、書庫の空気がわずかに震えたように感じられた。
魔術具の光が地図の表面を滑り、隠された階段の記述が、まるで長い眠りから目覚めるように浮かび上がった。
「ここが、迷宮の入り口……と仮定していいでしょう」
マテイが地図を覗き込みながら、低く呟いた。
「だが、童話にはこうも書かれていた。〝王家に連なる者のみが、星の扉を開けることができる。扉は四人を拒む〟」
「王家に連なる者って……ダルマティアっていつからパンノニアに組み込まれんだっけ?」
ヴィクトーリアの質問にラウノが答える。
「二五〇年ほど前ですね。確か旧王家も直系は断絶していたと思いますが……」
「その血が、扉を開く鍵になるなら、私が行きます」
カタリナの声は静かだったが、その瞳には、王家の責務を背負う者の覚悟が宿っていた。
「おばあ様がダルマティア旧王家の傍系だったはずです。王家に連なる者、という表現であれば、私でも資格はあるのではないでしょうか?」
ラウノが肩をすくめた。
「そんな気はしますけど、それより私はアーロン卿がこの迷宮に入り込めないのではないか、と思っています。ダルマティア旧王家なんですか?」
「僕はアーロン卿がヴァルマージュ家であることしか分からないな。確かダルマティアの貴族家だけど」
ヴィクトーリアは歩く書庫の顔を見やる。
「ヴァルマージュ家は確か三二一年前に旧王家の分家として成立したはずです。アーロン卿も王家に連なる者、と判定されていたのでは?」
「これは……下手な嘘はつけませんね」
ラウノが舌を巻くと、ヴィクトーリアは肩をすくめて笑った。
「そうだろう?人形姫の前で嘘をつくなんて、時計の前で時間をごまかすようなものさ。秒針まで見てる人に、そんなの通じるわけない」
ラウノは苦笑し、マテイが小さく吹き出した。
カタリナは何も言わなかったが、灰の瞳が一瞬だけ、静かに笑ったように見えた。
「で、結局誰が迷宮に行くんですか?小さくてひ弱なイニス人には荷が重いと思います」
マテイが回りくどく辞退の意思を表明する。
「いや、君は行くべきじゃないかな。迷宮は民間伝承なのだろう?書物は調べるにせよ、今みたいに何か思いつくかもしれない」
「いやいや、誰か護衛を連れ立ったほうが良いのでは?私では姫様の盾にもなりません……背丈が足りませんし」
イニス風の冗談だろうか?
「面白いことを言うね、君。だけどね、盾は僕一人で十分さ――この子がいれば、百人力だよ」
ヴィクトーリアはそう言うと、腰のホルスターから愛用のリボルバー式拳銃を目にも止まらぬ速さで構える。
「どうだい、この輝き――」
ヴィクトーリアは拳銃を軽く傾け、月光の角度を調整するようにして銃身を見せつけた。
「M07-K式護衛拳銃。銀符文刻印、魔術式照準器対応。命中精度は通常の五パーセント増し、耐久性は八パーセント増し。しかもこの個体は、僕が自分で調整した特別仕様さ。照準器の魔術干渉防止加工は、ノクリム製の銀糸を使ってる。あれはね、ドワーフの鉱王が認めた工房でしか作れないんだよ」
彼女は銃をホルスターに戻しながら、満足げに微笑んだ。
「武器っていうのは、ただの道具じゃない。魂が宿るんだ。使い手の信念と、職人の誇りと、戦場の記憶がね。だから僕は、銃を選ぶときは、恋人を選ぶくらい慎重になるのさ」
ヴィクトーリアが頬を赤らめ、恥じらいを持ちながら語るのを見たカタリナが頭を抱え、ひときわ大きなため息をつく。
「ヴィクトーリアは……色々と問題というか、苦手なところもありますが……護衛としての能力は天下一です。護衛は彼女一人で十分でしょう」
「ええと、結局私も行ったほうがいいんですか?」
不安そうなマテイを落ち着かせるように、カタリナが静かに言う。
「マテイ、あなたには別の役目をお願いしたいの。迷宮の中では、あなたの知識が必要になるかもしれない。ここで、関連する文献を調べていてくれませんか?」
マテイはほっとしたように微笑んだ。
「ありがたいお言葉です。正直、私が行っても足手まといになるだけでしょうから……。でも、童話の中にはまだ語られていない部分もあります。何か見つけたら、すぐに魔術通信で知らせます」
ラウノが懐から通信用の魔術具を取り出す。
「通信は迷宮の外縁までなら届くはずです。試練の間に入る前に、必ず確認します」
ヴィクトーリアが冗談めかして言う。
「じゃあ、君は〝書庫の番人〟ってわけだ。僕らが迷ったら、道案内を頼むよ」
マテイは肩をすくめて笑った。
「それなら、少しは役に立てそうです」
ラウノが魔術具の蓋を静かに閉じる音が、書庫の沈黙を切り裂いた。
「さて、当然、姫様は行くとして……ラウノ、君が行かないと魔術に対抗できないだろう」ヴィクトーリアの発言にカタリナが頷く。
「ええ、そうですね。ラウノ殿、魔術師として私を補佐していただけますか?」
「魔術師としては、こういう場所に入るのは嫌いじゃないです。危険も、まあ……慣れています」ラウノは手で頭をかき、ぼさぼさの髪をさらに無秩序な場所に変えながら、控えめに同意する。
ヴィクトーリアは、軍帽の縁を指で整えながら、静かに言った。
「そうしたら、僕はその扉の前に立つとしよう。君たちを守るために」
月光が、四人の影を卓上に落とした。
それは、星図の上に重なり、まるで運命の交差点を示すかのようだった。
§
石の階段を降りるたび、空気が変わっていくのが分かった。冷たさではない。沈黙の質が違うのだ。
地上の沈黙が風の中にあるなら、ここは、星の沈黙だった。
カタリナは、手にした魔術具の光を頼りに、前を行くラウノの背を見つめていた。彼の歩き方は、慎重で、そしてどこか、孤独だった。
「ラウノ君。ここ、なんだか妙な感じがしないかい?足元が宙に浮いているような……」
ヴィクトーリアが後方で周囲を警戒しながら、時折、足元に目を走らせる。彼女の歩調はおぼつかないが、銃を抜く準備は常に整っているようだった。
「おや、意外にも魔術適正があるのですね……その不快感は、空気中に大量の魔素があるときに感じられる魔素の流入です。いわゆる、魔力酔いなどと呼ばれているものですよ」ラウノは壁に刻まれた古代文字を読みながら言う。
「今度、魔術流入を遮断する術をお教えしましょう」
「おぉ、いいね!これで僕も魔術師の仲間入りだね」ヴィクトーリアが楽しそうにラウノの肩を組む。
「魔術師協会は常に人材不足です。きっとあなたを必要とする実験が見つかりますよ。そうそう、ちょうど知り合いの教授が〝耐久性試験〟に適した被験者を探していましたよ」
「それはもしかしなくても、人体実験だよね?ねぇ、人体実験だよね?」
カタリナは、二人のやり取りに微笑みながらも、足を止めた。
――空気が変わった。風が、地下にあるはずのない方向から吹き抜けた。カタリナは前方に目を向ける。そこに、扉があった。
ラウノは肩に置かれたヴィクトーリアの手をそっと外し、前を向いた。
階段の終点には、重厚な扉があった。黒曜石のような材質に、ダルマティア旧王家の紋章が浮かび上がっている。
ラウノが振り向き言う。
「ここは迷宮で間違いないと思います――念の為確認しますが、扉を開いたあと、何があるのか分かりません」
「分かってるって。君がお得意の魔術で罠がないか、敵がいないか索敵してくれるんだろう?それまで動かないさ」
「ええ、よろしくお願いします。私は短命種としては魔術に長けますが、このような迷宮はエルフやノーム、時に神族が作るものです」
ラウノはやや間をおいてから、独白するが如く続ける。
「……認め難いですが事実として、彼らの魔術の力量は私のそれを遥かに上回るわけでして……私の魔術がどこまで通用するのか、それは分かりません」
急に言い淀むラウノを見て、カタリナは自分もかつて感じた劣等感を見て取れた。
カタリナは今でこそ総督としてお飾りなりにも務めているが、カタリナの兄弟は傑物揃いであった。
あの暗く濁ったなんとも言いしれぬ不快感が、心の奥底で渦巻く感覚は、自らを追い詰める精神的な枷となっていた。
ラウノも同じかもしれない――そう思うと、カタリナは口を閉ざしたままではいられなかった。
「ええ、そうかもしれません。でもあなたがいなければ、私たちはここにたどり着くこともなかったでしょう。その成果は誇ってください――あなたの智謀と献身に感謝しています」
励まされることに慣れていないのだろうか、ラウノはぽかんと口を開けたまま、カタリナの瞳をじっと見ていた。
カタリナも自分の口走ったことを思い出し、何を言っていいのか分からず、顔を赤らめて後ろを向いてしまう。
「さて、ここはおそらく、私の出番ですね」
誤魔化すように扉の前に立ったカタリナが手をかざすと、空気が震え風が通った。扉が、ゆっくりと開いていく。
その先に広がっていたのは神殿のような空間だった。天井は高く、星図を模した装飾が施されている。
壁には神々の名が刻まれ、中央には五つの石像が天を仰いでいて、石像はどれも同じローブを深く被っていた。
それぞれの石像の手前には同じく五つ、石でできた台が並ぶ。台には窪みが開いており、その手前に置かれた石碑がちょうどはまりそうだった。
「試練の間、でしょうか?」カタリナが呟く。
ラウノは頷きながら、使い古した茶革の手帳を手に取った。
「マテイ殿の語った童話によると、最初の試練は知識を問うものだとか」
「確か……童話では、青の男神ゼリュンが王子に問題を出していたよね?五つも石像は並んでいなかったはずだよ」
ヴィクトーリアの疑問にラウノが少し呆れて答える。
「きっと問題は毎回変わるのでしょう。試験対策されては、試験として意味がないですからね」
毎回問題が変わる魔術の仕掛け……どれほど偉大な魔術師がこの迷宮を作ったのであろうか。
星図を模した天井の下、石碑が並ぶ空間に、沈黙が満ちていた。
カタリナは、ラウノの背を見つめながら、胸の奥に微かな緊張を感じていた。彼の手が、石碑の表面をなぞるたびに、淡い光が走る。そこに刻まれているのは、古代文字――神々が用いたとされる、数万の表意文字からなる魔術言語だった。
「読めるのかしら?」
思わず漏れた問いに、ラウノは肩越しに答える。
「読める、というより……推測する、ですね。これは言語というより、意志の迷路です」
彼の声は、いつになく静かだった。
カタリナは、神話の授業でこの古代文字に苦しんでいたことを思い出す。文法は流動的で、語順は意味を裏切る。しかも、同じ文字列でも、文脈や魔素の流れによって発音も意味も変わるという。
「これは……問題文を探すところから始まる試練です。まるで、神々が〝問い〟そのものを隠しているようだ」
ラウノは、天球儀を展開し、星図と石碑の配置を照合し始めた。
「この文字は……この順で読んで、こっちは無視するから……こうだな」
ラウノが羽ペンを宙に走らせると、光り輝く現代文字が浮かぶ。
『闇より生まれし夜、
まだ星なき天蓋の下、
五つの贈り物を携えし者たちが、
互いの名を呼ぶことなく、
静かに誓いを交わした。
ひとつは始まりの光、
ひとつは知恵の羽根、
ひとつは命の息吹、
ひとつは情熱の炎、
ひとつは沈黙の帳。
星々の間に隠されたその名を、
沈黙の石碑に刻め』
カタリナは、ラウノの横顔を見つめた。その表情には、迷いも焦りもなかった。ただ、静かな確信があった。
「これは簡単ですね……『星降る夜の誓約』のことでしょう」
星降る夜の誓約は神話の一節で、世界創造の場面をしるしたものだ。カタリナもその内容を口ずさむ。
『かつて世界がまだ若く、夜空に星が一つもなかった時代。
神々は地上の民に〝希望の灯〟を与えるため、天空に星を灯すことを決意した。
白の主神ズラエルは〝始まりの光〟を掲げ、
青の女神ヴァールタは〝知恵の羽根〟を広げて星座の形を描いた。
緑の女神エリュネは〝命の息吹〟を星々に吹き込み、
赤の男神カルムーンは〝情熱の炎〟を星に宿した。
黒の女神イシュラは〝夜の静寂〟をもたらし、星々の間に沈黙を敷いた。
こうして、五柱の神々が協力し、夜空に初めて星が生まれた。
その星々は、地上の者たちに〝希望〟〝知恵〟〝命〟〝情熱〟〝静寂〟という五つの贈り物をもたらしたという』
「そうです。よく覚えていますね、さすがです」
ラウノは石碑を一つずつ運ぶと、解答欄と思われる窪みに差し込んでいく。
「石碑にはそれぞれ神々の名が刻まれています。ですから、ズラエル、ヴァールタ、エリュネ、カルムーン、イシュラの順に石碑をはめれば……」
ラウノが最後の石碑を窪みに差し込むと、神殿の空気が震えた。星図の天井が淡く輝き、五柱の石像の目元に、微かな光が灯る。
だが、次の瞬間――空間が軋むような音を立て、魔術陣が崩れた。
ラウノが驚愕の声を漏らす。
「これは……魔術遮断結界。神々の加護すら届かない領域です」
彼の手元の天球儀が、まるで命を失ったかのように沈黙する。魔素の流れが断ち切られ、空間は重く、冷たく、無慈悲な沈黙に包まれた。
そのとき、神殿の奥から現れたのは、黒い鎧に身を包んだ異形の騎士だった。顔は仮面に覆われ、手には銀符文を逆刻した大剣を携えている。
ラウノが一歩後退する。
「魔術が……通じません。これは、力の試練です」
ヴィクトーリアが前に出る。彼女の目は、戦場の獣のように鋭く光っていた。
「ようやく、僕の出番ってわけだね」
彼女はM07-K式護衛拳銃を抜き、銀符文の照準器が起動して魔術干渉防止加工が施された銃身が、敵の胸元を正確に捉える。
「魔術が効かないなら、物理で黙らせるまでさ」
カタリナが息を呑む。ラウノは、彼女の肩に手を置き、静かに言った。
「今は、彼女に託しましょう。これは、信頼の試練でもあります」
神殿に響く銃声。ヴィクトーリアの一撃が、沈黙の帳を切り裂いた。
ヴィクトーリアはM07-K式護衛拳銃を構え、敵の胸元に向けて連射した。銀符文の照準器が正確に捉えたはずの弾丸は、しかし、分厚い鎧に吸い込まれるように弾かれ、火花を散らすだけだった。
「ちっ……やっぱり通らないか!」
彼女は即座に背中のアポニー式M95長銃に手を伸ばす。ボルトアクション式の重厚な銃身が、彼女の手に馴染むように収まる。
だが――その一瞬の隙を、敵は見逃さなかった。
黒い鎧の騎士が、音もなく距離を詰める。ヴィクトーリアはとっさに腰の短剣を抜き、迫る大剣を受け止めた。
金属が軋む音。衝撃が腕を貫き、短剣は弾き飛ばされる。
「くっ……!」
体勢を崩しながらも、ヴィクトーリアは転倒を免れ、長銃を杖のように地面に突いて立ち上がる。敵は間合いを詰め、次の一撃を放っていた。
「このっ……!」
黒い鎧の騎士の剣が闇を裂く瞬間、ヴィクトーリアは長銃を巧みに操り、その軌跡を逸らした。
返す手で銃身を構え、呼吸と鼓動を一つに重ねる。
引き金が沈むと同時に、火花が夜の帳を裂き、弾丸は銀の流星のように走った。
その軌跡は、黒騎士の肩を貫き、沈黙の神殿に一瞬の衝撃を刻みつけた。
「よしっ……ってうわっ‼」
肩を撃ち抜かれたにも関わらず、黒騎士の動きは全く衰えることなく、さらなる斬撃を放つ。
「ヴィクトーリアさん!相手はゴーレム兵なので痛覚はないと思います!」
「早く教えてよっ‼」
ヴィクトーリアは、長銃の銃床で大剣を受け流しつつ、敵の動きに合わせて一歩、また一歩と後退する。呼吸を整え、敵の鎧の隙間を探る視線は、獣のように鋭い。
一瞬、神殿の高窓から差し込んだ光が、黒騎士の鎧の隙間を照らした。その瞬間、敵の動きがわずかに鈍る――ヴィクトーリアはその変化を見逃さなかった。
「……光、か。あんた、光が嫌いなんだな?」
ヴィクトーリアは懐からM15型柄付炸裂弾を取り出す。魔術式ではない、純粋な閃光と衝撃をもたらす兵器。
「じゃあ、これでどうだ!」
黒騎士は、まるで影が形を持ったかのように、音もなく滑るように間合いを詰めてきた。その動きには、人間らしい逡巡も、痛みの色もなかった。
繰り出した刺突はヴィクトーリアの左腕をかすめ、同時に炸裂弾が床に転がり、閃光が神殿を満たす。
黒騎士は咆哮を上げ、動きを止めた。
満身創痍の身体を引きずりながらも、ヴィクトーリアは長銃を杖にして立ち上がる。敵の咆哮が神殿に響く中、彼女は静かに、しかし確かな足取りで間合いを詰めていく。
「終わりだよ、仮面の騎士さん」
その声には、恐怖も、痛みも、ただ戦い抜く者の静かな覚悟だけが宿っていた。
沈黙が、神殿に戻った。
ヴィクトーリアは壁際に腰を下ろした。左腕には深い傷が残り、血が滲んでいる。
カタリナはすぐに駆け寄り、懐から包帯と薬瓶を取り出した。
「動かないで。……痛むでしょう?」
「へへ、大したことないですよ。これくらい、戦場じゃ日常茶飯事です。でも、殿下の手当ては特別だ……なんだか、痛みが和らぐ気がします」
カタリナは無言で微笑み、手際よく傷口を洗い、包帯を巻いていく。ラウノが周囲を警戒しながら、静かに言った。
「次の間が見えました。……扉には、天秤の紋章が刻まれています」
「天秤……?」
「神話では、天秤は〝犠牲〟と〝選択〟の象徴です。次の試練は、おそらく――」
ヴィクトーリアが顔を上げ、冗談めかして言う。
「また頭を使うやつ? それとも、今度は腕力勝負?」
「……どちらでもないかもしれません」カタリナは包帯を結びながら、静かに続けた。「〝誰が試練を受けるか〟を、私たち自身が選ばなければならないのかも」
沈黙が落ちる。
ヴィクトーリアは傷ついた腕を見下ろし、苦笑した。
「さすがに、今の僕じゃ足手まといかな。でも、仲間を危険な目に遭わせるのは、もっと嫌だよ」
ラウノが言葉を継ぐ。
「神話の〝犠牲の天秤〟は、己を差し出す覚悟を問うものです。だが、真の答えは〝互いを思う心〟にあると伝えられています」
カタリナはヴィクトーリアの手をそっと握った。
「私たちは、誰か一人を犠牲にするためにここに来たんじゃない。……一緒に進みましょう。どんな試練でも、私たちの絆で乗り越えられるはず」
扉の向こう、天秤の間には、まだ見ぬ試練が待っている。三人は互いの顔を見つめ、ゆっくりと歩みを進めた。
§
光が、沈黙の中で揺れていた。
ラウノは気づくと、星図のない夜空の下に立っていた。空は黒く、風もなく、ただ遠くで波の音が聞こえる。足元には、見覚えのある石畳。潮の香りが、記憶の底から引き上げられる。
――ガルガロ諸島。
少年の姿をしたラウノが、路地を歩いていた。赤毛が風に揺れ、耳の形が周囲の子供たちと違うことを、彼自身が一番よく知っていた。
「気味が悪いんだよ、お前の顔」
「父親は逃げたんだろ?母親もいないくせに」
声が、影のようにまとわりつく。石が飛んできて、足元に転がる。誰も助けてくれない。ラウノは走った。涙をこらえながら、叔父の家の扉を叩いた。
扉は開かない。夢の中の扉は、過去の痛みを閉じ込めたまま、沈黙していた。
そのとき、煙の匂いが漂った。葉巻の香り。振り返ると、ゾルターナが立っていた。
「泣くな。お前には魔術の才がある」
その言葉が、ラウノの世界を変えた。誰にも見せられなかった星図を、彼女だけが見てくれた。だが、力を得た途端、周囲は黙った。誰も向き合ってくれなかった。
「強くなって、見返してやると思っていた。でも……」
ラウノは呟いた。夢の中の自分に、問いかけるように。
「力を持っても、孤独は消えなかった」
空が揺れた。天秤が現れる。片側には、星図の書。もう片側には、カタリナの姿。
「知識か、命か。革命か、犠牲か」
ラウノは迷った。星図は彼のすべてだった。だが、カタリナの声が届いた。
「あなたがいなければ、私たちはここにたどり着けなかった」
その言葉が、闇を裂いた。
ラウノは星図を見つめた。そこには、彼が描いた無数の軌道が、淡く輝いていた。だが、手を離した瞬間――星図は、静かに崩れ始めた。
光の線がほどけ、軌道が解体されていく。まるで、夜空に散る星々のように、彼の記憶と誇りが風に溶けていく。
それでも、ラウノは迷わなかった。
彼は星図を手放し、カタリナの側に立った。
天秤が静かに傾き、光が満ちていく。
光が収束し、沈黙が再び訪れた。
ラウノは、星図のない空間で目を覚ました。
星図の光は消え、魔術の流れも途絶えている。空気は重く、時間さえも止まったかのようだった。
ラウノがゆっくりと目を開ける。隣には、同じく目を覚ましたカタリナがいた。その瞳は、語られぬ物語を秘めた湖のようだった。
だが、その沈黙が、彼女の内面で何かが崩れたことを物語っていた。
二人は言葉を交わさず、ただ祭壇の奥へと歩を進める。
崩れた石柱の陰に、腐敗した遺体が横たわっていた。衣服はかつての貴族のもの。胸元には、ヴァルマージュ家の紋章がかすかに残っている。
カタリナは足を止めた。その場に膝をつき、指先を震わせながら、遺体の胸元に手を伸ばす。
そこには、血に濡れた封蝋の手紙が握られていた。
ラウノは息を呑み、そっと一歩下がる。カタリナは封を解き、震える手で紙を広げる。文字は滲み、ところどころ判読が難しい。それでも、彼女は声にならない声で、ゆっくりと読み始めた。
『私を見つけてくれた者へ
私はアーロン・ヴァルマージュ。
パンノニア王国の忠臣であり、カタリナ総督に会うため、列車に乗ってこの地へ向かった。
だが、列車の到着は遅れ、総督府には辿り着けなかった。
モーリツ執政官は私に〝総督は不在だ。ここで待て〟と言った。
その言葉を信じた私は、総督府の一室で待機していた。
だが、間もなく刺客が現れた。
私の護衛が応戦している間に、私は幼い頃にかくれんぼで使った迷宮へ逃げ込んだ。
迷宮は、私を覚えていたのだろうか。
傷を負った私を、最深部まで導いてくれた。
私の命は、もう長くはない。
だが、どうかお願いしたい。
モーリツの悪事を、世に知らしめてほしい。
正義の鉄槌を、彼に下してほしい。
私が持っていた箱は、カタリナ総督に渡してほしい。
パンノニアの王族にしか開けられないはずだ。
最後に――
愛しい妻、ミリヤナへ。
幼い双子の子ら、ルカとマヤへ。
私は、君たちを守れなかった。
だが、君たちの愛が、私をここまで導いてくれた。
許してほしい。
そして、どうか幸せに。
アーロン・ヴァルマージュ』
読み終えた瞬間、カタリナの肩がわずかに震えた。
彼女は手紙を胸に抱き、声もなく、静かに涙を流した。
ラウノはどうするのが正解か分からなかった。慰めの言葉は、どれも軽すぎる気がした。
沈黙の中、彼はそっと彼女の肩に手を置き、やがて抱きしめた。
カタリナは抵抗せず、ただその温もりに身を委ねた。
二人の影が重なり、星図のない空間に微かな灯がともる。
しばらくして、ラウノが祭壇の脇に転がる箱に気づいた。
それは血にまみれ、泥に汚れていたが、銀の留め具がかすかに輝いていた。
カタリナが手をかざすと、箱が微かに光を放ち、鍵が外れる。蓋がゆっくりと開き、内部から王家の印章が押された勅書が現れた。
ラウノが息を呑む。カタリナは震える手でそれを取り出し、目を通す。
『十の月に祝福されしパンノニア王国、国王アウレリウスの名において、 モーリツ・エステルをダルマティア管区執政官の任より即時解任する。
その権限は、王家の血統と神々の誓約に基づくものである。
アウレリウス・フラフィウス=バートリ』
カタリナは勅書を握りしめ、ゆっくりと立ち上がる。
その瞳には、涙の跡と共に、確かな決意が宿っていた。
「……これが、アーロン卿の遺志。私たちの革命の証」
「ええ、彼の遺志を紡ぎましょう。ズラエルの鉄槌は我らとともにあります」
迷宮の出口へ向かう二人の背に、星の光が静かに降り注いでいた。




