閑話 人馬一体
ロディナの街に、春の風が吹いていた。
包囲解除から数日。街の空気はまだ重く、けれど、角を曲がるたびに、子どもたちの笑い声や、パンの香ばしい匂いが戻ってきていた。
そんな街角で、ヴィクトーリアは奇妙な光景に出くわした。自転車屋の前で、やたらと背丈の高い赤毛の魔術師が立ち尽くしている。
看板と値札を交互に見つめ、まるで星図でも読むような顔つきで悩んでいた。
「ラウノ?」
声をかけると、彼はゆっくりと振り返った。相変わらず、礼儀正しく、そしてどこか無礼な笑みを浮かべて。
「これはこれは、ヴィクトーリア殿。お忙しい中、庶民の購買活動にまでご関心をお寄せいただけるとは、感激の極みです」
「……何してるの?」
「ご覧の通り、文明の利器に心を奪われております。自転車というやつですね。歩くより速く、馬より安く、魔術より現実的。まさに庶民の夢です」
「でも、買ってないんだ?」
「ええ。財布の中身が、夢に追いついていないようでして」
ヴィクトーリアは眉をひそめた。ラウノ・マキは、豪商マキ家の出身。少なくとも、事前調査ではそうだった。
それが、なぜ自転車一台に悩んでいるのか。
「君、マキ家の御曹司じゃなかったっけ?」
「ご明察。ですが、家の名と財布の厚みは、必ずしも比例しないのです。特に、趣味に全力を注ぐ者にとっては」
「趣味?」
「魔術具の素材収集です。星辰銀、天球樹脂、月光鉱……どれも高価で、しかも希少。つい先日も、ガルガロ諸島から届いた星の欠片に、仕送りの半分を費やしました」
「……それ、必要なの?」素材とやらは、ヴィクトーリアにとって半分も理解できなかった。
「必要かどうかは、魂が決めることです。私の魂は、星の声を聞きたがっている。自転車のベルでは、満足できないのです」
ヴィクトーリアは思わず吹き出す。彼の言葉はいつも丁寧で、そしてどこか刺さる。
まるで、銀の鷹が空を舞いながら、爪先で皮肉を落としていくようだった。
「でも、アルニロヴァシュには感動してたよね?」
「ええ。あれは芸術です。走る彫刻。パンノニアの魂。私が自転車に惹かれるのは、あの車の幻影を追っているからかもしれません」
「じゃあ、買えばいいじゃない。自転車くらいなら、魔術具より安いでしょ?」
「それはそうですが……どうにも、実用性という言葉が、私の購買意欲を削ぐのです。魔術具は夢を語る。自転車は現実を運ぶ。どちらが魅力的かは、言うまでもありません」
ヴィクトーリアは肩をすくめた。
この男は、いつも夢を見ている。星を見上げ、風を読み、そして財布を空にする。
「じゃあ、乗る? 僕のアルニロヴァシュ。助手席、空いてるよ」
「それはありがたい申し出ですが、助手席に座るには、私の魂が少々重すぎるかもしれません。車体が傾いてしまう。あと、それはカタリナ殿下の私物では?」
「……遠慮しないで」
「では、遠慮なく。ヴィクトーリア殿の寛容さに甘えさせていただきます。自転車はまた、星の巡りが良い日に」
ラウノはそう言って、ヴィクトーリアの車に乗り込んだ。
助手席に座るその姿は、どこか誇らしげで、そして少しだけ、悔しそうだった。
アルニロヴァシュのエンジンが静かに止まり、銀の鷹がその翼を休めた。車は、ロディナ旧市街の外れ、小さな広場の石畳に滑り込むように停まった。
周囲には、古い煉瓦造りの建物が並び、窓辺には春の花が咲いていた。軍靴の音も、抗議の声も、ここには届かない。
まるで、街の喧騒から切り離された、時間の澱のような場所だった。
ラウノは車を降りると、名残惜しそうに車体を見つめた。
その銀のボディは、朝の光を受けて柔らかく輝いていた。
「ねえ、昼食でもどう?」
ヴィクトーリアが軽く肩を叩いた。
「お気遣いはありがたいのですが、あいにく財布の中身が、昼食という概念に対応しておりませんで」
「じゃあ、私のおごりってことで。ほら、同じ君主に使える者同士、仲良くしようよ」
ラウノは一瞬だけ逡巡したが、すぐに慇懃な笑みを浮かべた。
「それでは、ヴィクトーリア殿の寛大なる慈悲に甘えさせていただきましょう。もっとも、その慈悲が私の胃袋を前にいつまで続くのかは、未知数ですが」
「……ちょっと待って、それってどういう意味?」
ヴィクトーリア行きつけのカフェは、王都の裏通りにひっそりと佇んでいた。
木製の看板には、鷹の羽根を模した意匠が彫られている。
中に入ると、香ばしいパンとスパイスの香りが迎えてくれた。
「ここ、落ち着くでしょ? 騎士団の連中には内緒なんだけど」
「なるほど。隠れ家というやつですね。では、遠慮なく」
ラウノはメニューを開くと、目を細めて吟味し始めた。
そして、店主が注文を取りに来ると、まるで詠唱でもするかのように、次々と料理名を口にした。
「では、まずは仔牛の煮込みを。続いて、茸のパイ、根菜のスープ、黒パンを二つ、あと……この〝王家の朝食〟というのも気になりますね。あ、それとデザートに林檎のタルトを」
ヴィクトーリアは目を見開いた。
「……君、朝から何も食べてなかったの?」
「いえ、朝食はしっかり摂りました。ただ、魔術師というのは、常にエネルギーを消費する生き物でして。特に、星辰銀を扱った後は、胃が空洞のようになるのです」
「……なるほど。そりゃ財布も軽くなるわけだ」
ヴィクトーリアは呆れたように笑った。
けれど、その目はどこか楽しげだった。
この男は、何を考えているのか分からない。
けれど、分からないからこそ、面白い。
「君ってさ、本当に変なやつだよね」
「それは光栄です。変わり者は、時に世界を変えるものですから」
カフェの窓の外では、春の風が通りを撫でていた。
パンノニアの空は、まだ穏やかだった。嵐の前の静けさのように。




