第二章 偽りの星図
翌日――ラウノは宿屋の女主人が戸をたたく音で目を覚ました。
寝ぼけた目をこすりながら部屋の扉を開けると、「美人さんが迎えに来ているのに、何のん気に寝てるんだい⁉」と叱られ、着替えもそこそこに宿をたたき出された。
「おや、髪が乱れているようだ。どれ、見せてごらん」
ヴィクトーリアは宿の前で腕を組みながら待っていた。
ラウノが現れるなり、彼の頭に手を伸ばし、まるで兄が弟をからかうような仕草で髪を整えようとする。
「やめてください。僕は寝癖を誇りにしているんです」
ラウノは軽く身を引きながら、肩をすくめた。
「誇りにするのは魔術の腕だけにしてほしいね」
ヴィクトーリアは笑いながら、ラウノの肩をぽんと叩いた。「さあ、殿下がお待ちだ。今日は現場調査だよ。気合い入れてくれ」
「つまり、僕の寝癖が王女殿下に見られる可能性があると」ラウノは寝癖を直しながら、わざとらしくため息をついた。
「気にするな。殿下は君の髪型より、君の頭の中身に興味があるはずさ」
ラウノは石段を降りながら、空を見上げた。朝の光はまだ柔らかく、ロディナの街並みを静かに照らしていた。
「駅庁舎までは自動車で向かうよ。カタリナ殿下も同行される。君の出番はそこからだ」
ヴィクトーリアは精巧な彫刻品のような繊細さと工業品の機能美を備えた自動車のボンネットを叩きながら言った。
後部座席にはカタリナ殿下が人形姫らしく、ちょこんと座している。昨日の軍服とは異なり、今日は灰色の外套に淡い青のスカーフを巻いていた。
襟元には控えめな銀の刺繍が施されており、素材の上質さは隠しきれないが、形は簡素で、街の空気に溶け込むような控えめな装いだった。
それでも、彼女が座っているだけで、車内の空気がどこか張り詰めて見えるのは、気のせいではなかった。
「カタリナ殿下、ご機嫌麗しゅう……」
「今の私はただのカタリナです。仰々しい挨拶はしないでください、ラウノ殿」
カタリナはそれ以上言葉を続けず、静かに視線を窓の外へ向けた。ラウノはその沈黙を尊重するように、話題を変えることにした。
「それでこれは……セーチェーニ工廠のアルニロヴァシュですね」正解だったのだろう、ヴィクトーリアはひゅう、と喉を鳴らす。
「ああそうさ」ヴィクトーリアが自慢げに話す。「どうだい、カタリナ殿下に付くのも悪くないだろう?」
アルニロヴァシュ――それは、王国の威厳とパンノニア人の魂が融合した走る彫刻だった。
セーチェーニ工廠から生まれたその車は、磨き上げられた銀のボディに、ドナウの風と職人の誇りを纏っていた。
ボンネットの先端には、翼を広げた鷹の像が立ち、その眼差しは未来を見据え、爪は王権の記憶を掴んで離さない。
風が吹けば、その羽根が微かに震え、まるで空を翔ける神話の使者のように、車の進む道を静かに、力強く導いていく。
車体は流麗でありながら重厚。
真鍮のランプが夜を黄金に染め、木製のダッシュボードにはセーチェーニ家の紋章が刻まれている。
後部座席は絹と革で仕立てられ、乗る者の沈黙に応えるように柔らかく沈み込む。それは、ただの乗り物ではなかった。
それは、祖先の記憶と魂の自由を乗せて走る、パンノニアの夢そのものだった。
「一体、いくらの税金をつぎ込んだのでしょうか?」
「これは私の私物です。個人的な資産から購入しました」カタリナは血税は使っていません、と添える。
「人形姫様は大変な資産家でもあるのさ」
ヴィクトーリアはそう言って、軽快に運転席に乗り込む。
「さ、座って。お客さんなら後部座席だけど、君は前に座るといい」
遠回しに客扱いされていないことを伝えるヴィクトーリアの言葉を無視して、助手席に座り込む。
ラウノは助手席に身を沈めながら、窓の外に目を向けた。
ロディナの街は、朝の光に包まれてゆっくりと目を覚ましつつあった。石造りの建物の影が長く伸び、通りを行き交う人々の足音が、まだ眠気を引きずる空気の中に溶けていく。
自動車のエンジン音は、街のざわめきとは異なるリズムを刻んでいた。
それは、日常の外側にある何か――非日常への入り口を告げるような、低く、確かな響きだった。
ラウノは胸元から小さな革の手帳を取り出し、昨日の会話を思い返しながら、特使の行動記録を整理する。
霧のように消えた特使。異常を示した機器。
そして、勅書――王命の象徴。
ページの端には、星の記号が細かく書き込まれている。彼にとって、記録とは単なる事実の羅列ではなく、星の軌道と人の運命を結びつけるための地図だった。
「昨日の話、君はどう思った?」
ヴィクトーリアがハンドルを握りながら、ふと問いかける。
「まだ断定はできませんが……特使の失踪は、偶然の事故ではないでしょうね」
ラウノは手帳を閉じ、指先でその表紙を軽く叩いた。「勅書を持つ者が消える。それは、誰かが王命を止めようとしたということです」
「つまり、犯人は王命に逆らう者……」
ヴィクトーリアは言葉を濁しながら、視線を前方に戻す。
「そうとも限りません」ラウノは静かに言った。「王命を止める理由は、忠誠にも、恐怖にも、あるいは混乱にも根ざすことがあります。動機は一つではない」
ヴィクトーリアは小さく笑った。「君はいつもそんなふうに、物事を複雑に考えるんだね」
「魔術師は、単純な答えを信じませんから」
ラウノは窓の外に目を戻す。街の景色が少しずつ変わり、駅庁舎の尖塔が遠くに見え始めていた。
その瞬間、彼の胸の奥で、何かが静かに震えた。
それは、星の導きが始まる予兆だった。
自動車が駅庁舎前の広場に滑り込むと、ラウノはゆっくりと車を降りた。
朝の光はすでに街を照らし始めていたが、駅の建物はどこか陰鬱な空気を纏っていた。
石造りの外壁は古びており、窓の一部にはまだ夜の湿気が残っている。人通りは少なく、広場の端に立つ警官が二人、無言でこちらを見ていた。
「ここが、特使が最後に目撃された場所だ」
ヴィクトーリアは地図を広げながら、駅庁舎の正面玄関を指差した。
ラウノは周囲を見渡し、ゆっくりと歩き出す。
足元の石畳に、馬車の車輪跡が薄く残っていた。だが、それはすでに何度も踏みならされ、痕跡としては曖昧だった。
「現場は清掃されてしまったようですね」
ラウノはしゃがみ込み、指先で石畳をなぞる。
その動きは慎重で、まるで空気の流れを読むかのようだった。
「警察は一応調査したけど、魔術的な痕跡までは見ていない。君の出番だよ」
ヴィクトーリアは腕を組み、少し離れた場所から見守っていた。カタリナの側から離れないつもりらしい。
ラウノは静かにその手を空へと差し出した。その瞬間、空気が微かに震え、見えない波紋が広がるような感覚が辺りを包む。彼の指先が動くと、まるで透明な幕が剥がれ落ちるように、何もなかった空間から光が紡ぎ出されていく。
「少々お待ちを……占星術といえばこれですね」ラウノの言葉が落ちる頃には、手元にはすでに一つの物体が姿を現していた。それは、彼がどこからともなく取り出した天球儀だった。
天球儀は、淡い光を纏いながら空中に浮かび、静かに回転していた。その半透明の球体には、無数の星座が輝く点となって描かれており、星々を結ぶ線が淡い銀色に光っている。球体の表面には魔術的な文様が刻まれており、それが星の位置や運行を完璧に再現していることを示していた。
光の層が天球儀全体を包み込み、それは見る者を虜にするような神秘的な輝きを放っている。その中には、惑星や月の位置も微細な動きで示され、天体が生きているかのように時間と共に変化していた。
「美しい……」カタリナは呟いた。その灰色の瞳が天球儀を捉え、そこに描かれる星々の奇跡的な精密さに感嘆を隠せない。
「星よ、語れ。ここに刻まれた記憶を、我が眼に映せ」
天球儀が微かに震え、中心の星が淡く光を帯びたかと思うと、しばらくして消えてしまう。
「これは……」
「何かわかりましたか?」
ラウノは少しの間、どのように説明したものかと腕組みをしてから、ゆっくりと語り始めた。
「まず、尋ね人を探すには、星の配置からその人物の〝存在の痕跡〟を読み取る必要があります。これは、古代魔術における〝星の記憶〟という概念に基づいています。人は生まれた瞬間に星々と結びつき、その運行に影響を受けながら生きていく。つまり、星の動きがその人の行動や運命を映し出すわけです」
カタリナは興味深そうに耳を傾ける。
「で、今の星図を見たところ……無論、今の時間では目視できませんので、天球儀を使って見たところ、尋ね人に対応する星――これは生年月日と出生地から割り出したものですが、完全に〝沈黙〟していました。星が沈黙するというのは、魔術的には〝存在の断絶〟を意味します。つまり、星がその人物の現在位置を示していない。これは、物理的に遠く離れているか、あるいは……魔術的な遮蔽が施されている可能性があります」
「遮蔽……つまり、隠されている?」
「ええ。星の光は真実を照らしますが、強力な魔術によってその光を遮ることも可能です。特に、王国の勅使ともなれば、何らかの保護魔術が施されている可能性もあります。ですが、昨夜の星図では、保護というより〝断絶〟に近い印象でした。まるで、その人物が世界から切り離されたような……」
ラウノは少し言葉を濁しながら、天球儀を見つめる。
「だから、端的に言えば――尋ね人、見つからず。ですが、これは単なる不在ではなく、何かが意図的に隠している可能性が高いです」
ラウノは壁の前で静かに立ち尽くしていた。星々は語らなかった。いや、語ることを拒まれているようだった。空間の歪みは確かに存在する。だが、それはまだ、彼の手の届かない深さに沈んでいた。
ラウノは「まあ、占いなんて当たりませんよ」と適当にごまかしながら、天球儀をまた空間の狭間にしまう。
「あ!そうだ、そうでした」
ラウノはローブの懐からブレスレットを取り出して、カタリナに手渡す。
「これは、我が師ゾルターナと私が共同で作成した護符です。先程の占いのような、気休め程度のお土産です。本当は、昨日、謁見の時にお渡ししようと思ったのですが……」
あなたが突然呼び出すものだから、段取りが狂いました、とまでは言わない。
カタリナはブレスレットをまじまじと見つめる――ブレスレットは、彼女の繊細な手首にぴったりと馴染むよう、計算され尽くした作りをしていた。
中央に鎮座する宝石には、ガルガロ諸島の海底深くで採取された稀少な魔石が使用され、深い群青色に瞬く光が、まるで星空を封じ込めたかのような神秘的な輝きを放っている。魔石は、ラウノの青魔術によって細かく加工され、強力な魔術的効能が宿るよう丁寧に仕上げられていた。
ブレスレットの本体は、細やかな彫刻が施された銀で形成されている。その銀細工はゾルターナの技術が込められたもので、花と蔦が絡み合うデザインは、白エルフの伝承を彷彿とさせる優雅さを持っている。一つ一つの模様が、風にそよぐ木々や流れる水を思わせ、その精巧さは見る者を驚嘆させるほどである。
「これは……随分と高価な魔術具ではありませんか?」
カタリナが少し心配そうに問うと、ラウノは「いえいえ」と否定する。
「希少ではあるかもしれませんが、いずれもガルガロ諸島で転がっていたものを加工しただけです。趣味に合わないようでしたら、大変申し訳ございません」
「いえ、そんなことありません!……では、ありがたく頂戴します」
カタリナはラウノからもらったブレスレットを左手首に着けると、左手を空にかざして見せる。
「よくお似合いです。美人には貴金属がよく映える」
「ありがとうございます。それにしても、色々な魔術具をお持ちなんですね。次は何が出てくるのかと、楽しみになっちゃいますね」
「おや、魔術具に興味がお有りで?実は掘り出し物があってですね……ちょーっとお値段が張るのですが、カタリナ殿下になら、きっとお似合いなんじゃないかなー、と!」
「えっ!いくらなんでも、この金額は……」
その時だった。駅庁舎の奥から、足音が駆けてくる。警官の一人が息を切らしながら広場に飛び出し、ヴィクトーリアの前で立ち止まった。
「報告です!イニス人街の裏路地で、王家の紋章を持つ男性の遺体が発見されました!」
その言葉に、空気が一瞬で凍りついた。
「紋章の詳細は?」ヴィクトーリアが鋭く問い返す。
「金の双翼に、王冠と星の意匠……間違いなく、王命を帯びた者のものです。身元は……アーロン卿と推定されています」
カタリナはわずかに目を見開いた。ラウノは眉をひそめ、天球儀の沈黙と報告の内容を照らし合わせる。
「死体の状態は?」
「……かなり損傷しています。顔の判別は困難ですが、衣服と所持品が一致しています」
ヴィクトーリアは一瞬だけカタリナを見た。その視線には、次の行動を問う無言の問いが込められていた。
「モーリツは?」カタリナの声は低く、しかし確かだった。
「モーリツ執政官はアーロン卿の殺害はイニス人の独立派によるものと断定、戒厳令を発令しました。すでにイニス人街を封鎖し、軍の一部が展開を開始しています」
警官の声には、明らかな動揺が混じっていた。
「これは……罠です」ラウノが静かに言った。「死体は偽装されている可能性が高い。星は、彼の死を語っていませんでした」
「つまり、アーロン卿はまだ……」カタリナが言いかける。
「生きているか、あるいは、真実の死は別の場所にある。少なくとも、イニス人街の死体は、星の記憶に一致しません」
ヴィクトーリアは剣の柄に手をかけた。「ならば、急ぎ現地へ向かうべきだ。モーリツの動きが早すぎる」
カタリナは頷き、ラウノに視線を向けた。「ラウノ殿も現場に。あなたの星が、真実を照らしてくれることを願います」
「星は沈黙していました。だからこそ、分かることもあります」
自動車のエンジンが再び唸りを上げる。風は止み、街は息を潜める。誰もが知らぬうちに、真実は静かに動き始めていた。
§
イニス人街は、静かだった。だが、その静けさは、平穏ではなかった。
それは、言葉を失った街の沈黙。
風が通り過ぎるたび、瓦屋根がわずかに軋み、誰もいない通りが、何かを待っているように息を潜めていた。
マテイ・サボは、集会所の窓から外を見た。
通りの先には、軍の銃剣が光っていた。兵士たちは街を囲み、すべての出入口を封鎖している。
包囲は完全だった。
それは、戦の構えではなく、見せつけるための力だった。
アーロン卿の遺体が発見されたという報せが届いたのは、ほんの一時間前のことだった。
悪逆のモーリツは即座に「イニス人民党の凶行」と断定し、討伐命令を発した。
彼は拳を握った。
この街の誰もが、ロディナの惨劇を忘れていない。
あの日、歌と祈りは、馬の蹄に踏み潰された。
そして今、また同じ空気が街を覆っている。
木造の梁が軋み、壁に刻まれた模様が、かつての時代の記憶を語っていた。
その空気は重く、焦燥と怒り、そしてわずかな希望が混じっていた。
「もう黙っている時ではない!」
タカ派の一人が拳を叩きつけるように言った。
「我々は何度裏切られた? パンノニアの約束など、風のように消える!」
「ロディナの広場を忘れたのか? あの日、我々は歌っていた。祈っていた。だが、彼らは馬で踏み潰した!」
別の者が頷く。「我々の言葉は、王都では通じない。イニス語を話すだけで、官庁では門前払いだ」
「我々の祠は、何度焼かれた? 神々の名を呼ぶことすら、監視されるようになった」
マテイ・サボは静かに立ち上がった。その声は低く、だがよく通った。
「我々の歴史は、確かに痛みの連続です」
「この街は、かつて海の商人たちが築いた。石畳は、イニスの職人が敷いたもの。屋根の瓦は、イニスの赤土から焼かれた」
「家々は中庭を囲み、井戸と祭壇を中心に、家族と隣人が共に暮らしてきた」
「春の灯火祭では、星の仮面をつけた子どもたちが通りを練り歩き、秋の収穫祭では、パンの山を積み上げて神々に感謝を捧げた」
「それは信仰であると同時に、我々の生活そのものだった」
彼は一息つき、皆を見渡した。
「だが、今は過去ではない。我々が望むのは、復讐ではなく、未来です。血を流せば、また同じ歴史が繰り返される」
「包囲をしているのは、ラースロー隊長です。ロディナの惨劇を最後まで止めようとした、彼の正義の人です」
どよめきが走る。ラースローは惨劇を止めようと尽力して失敗した英雄とも、惨劇を止められなかった無能とも評される。
「確かに、彼の評価は我々イニス人の間でも別れている……彼を信用できない者も、またロディナの惨劇が繰り返されることを危惧している同胞も多いことだろう」
マテイは聴衆が耳を傾けていることをしっかりと確認し、一人一人の瞳を見て話す。
「だが、ラースロー隊長がこの数年、イニス人街と共にあったことは、紛れもない事実だ。彼は私財を投げ出し、イニス人街の復興に努めた。時に自ら建材を運び、慣れない建築作業で指をハンマーで叩いていた事もあったな」
聴衆が笑う。良い傾向だ、とマテイは唇を湿らせる。
「それは贖罪であったかもしれない。あるいは、人気取りだったかもしれない。だが、彼が我々のために尽力した事実は、評すべきではないか?イニスは恩を仇で返すほど、恩知らずではない!」
沈黙が広がった。誰もが、マテイの言葉に反論できなかった。
「我々の声を届けるべき時です。剣ではなく、言葉で」
それは、誇りを守りながらも、未来を見据える者の声だった。
マテイは集会所を後にし、軍の陣地へと向かった。彼の足取りは重く、だが迷いはなかった。瓦屋根の下を抜け、石畳を踏みしめながら、彼はラースローの前に立った。
通りは静かだった。だが、その静けさは、彼の足音に反応するように、わずかに震えていた。
軍の境界線を越えた瞬間、兵士たちが動いた。
「止まれ!」銃剣を装着したライフルが一斉に構えられ、鋭い金属音が空気を裂いた。
銃口がこちらを向く。数人の兵が包囲を形成し、彼の動きを封じる。
マテイは立ち止まり、両手をゆっくりと上げた。
挑発ではない。交渉の意思を示すための、慎重な動作だった。
「私は武器を持っていない。街の代表として、隊長殿に話がある」
兵士たちは互いに視線を交わし、判断を迷っていた。
その場の空気は、銃剣の刃先のように張り詰めていた。
そして、彼が現れた。
紺青の軍服に金の装飾が施され、朝の光を受けて静かに輝いていた。その姿は、まるで王国の意志が人の形を取ったかのようだった。
筋肉の厚みが軍服の輪郭を押し広げ、動かずとも威圧感を放っている。
黒髪はきっちりと後ろに撫でつけられ、頬骨と顎が張った顔立ちは、彫像のように硬質だった。
その瞳は鋼のように冷たく、だが奥底に、わずかな揺らぎが見えた。
ヴァルガ・ラースロー――中央政府から派遣されたダルマティア総督府警備隊の隊長。
マテイは彼の名を知っていた。だが、今目の前に立つその男は、記録の中の人物ではなかった。
それは、命令と責任を背負い、沈黙の中で決断を迫られる者の顔だった。
「話を聞こう」
ラースローは短く言った。
マテイは一歩前に出た。
「隊長殿」マテイは礼を欠かさぬように、しかし毅然とした口調で言った。
「この包囲は、何のためですか?我々は戦を望んでいない。街には武器も、兵もいない」
ラースローは無言で彼を見つめた。その視線は冷たくも、どこか迷いを含んでいた。
「命令だ」短く、乾いた声だった。
「反乱分子が潜伏している可能性がある。モーリツ管区執行官の命令で、包囲を敷いた」
「反乱分子? それは、誰の目に見えるのですか? それとも、都合のいい幻影ですか?」
マテイの声には怒りが滲んでいた。
「あなたもロディナの惨劇を覚えているでしょう。あの日も、可能性の名のもとに、民が踏み潰された。あなたは命令に従った――結果はどうでしたか?」
ラースローは答えなかった。
その沈黙が、何よりの答えだった。
「あなたが剣を抜けば、我々はまた血を流す……だが、今度は黙ってはいません」
「この街には、もう恐怖しか残っていない。あなたがそれを振りかざすなら、我々は……」
マテイの言葉が終わる前に、遠くから騒々しいエンジンの音が響いた。
聞きなれない轟音に兵士たちがざわめき、道を開ける。
その車は、銀の鎧を纏った騎士のように静かに佇んでいた。ボンネットの先には、翼を広げたトゥルルの像が立ち、風を受けて微かに震えている。
車体は流麗で重厚、真鍮のランプが光を投げ、木製のダッシュボードにはセーチェーニ家の紋章が刻まれていた。
それは、ただの乗り物ではなく、パンノニアの魂を乗せて走る影の騎士だった。
「ラースロー隊長!」
銀の髪が風に揺れ、灰色の瞳が軍の列を静かに見渡していた。その人物は、まるで霧の中から現れた幻のようだった。
肌は陶器のように滑らかで、輪郭は細く、どこか人ならざる気配を纏っていた。軽やかな足取りで車から降り立つその姿は、威圧ではなく静謐をまとっていた。
だが、その瞳には、確かに怒りが宿っていた。
それは、激情ではなく、冷たい炎のような怒り――沈黙の中で燃え続ける信念の光だった。
マテイは目を見開いた。見間違いようもない、カタリナ・エレオノーラ・フラフィウス=バートリその人であった。
彼女の到着は、誰の予想にもなかった。
だが、その姿は、まるで風の中に差し込む光のように、街の沈黙を切り裂いた。
彼女は、軍の前に立ち、ラースローに歩み寄った。
その瞳は、静かに、しかし確かに怒りを湛えていた。
「隊長、包囲を解いてください」
彼女は言った。
「この街に必要なのは、恐怖ではなく対話です」
ラースローは無言で彼女を見つめていた。その顔は、石のように硬く、表情は読み取れなかった。
だが、彼の手がわずかに動いたのを、マテイは見逃さなかった。
それは、迷いか、あるいは葛藤か――軍人の沈黙の中に、何かが揺れていた。
「執政官の命令は、突撃です」
ラースローは言った。
「私は軍人です。命令には従わねばなりません」
「ならば、私が命じます」カタリナは一歩前に出た。
「私はこの地の総督であり、王家の名において命じます。包囲を解きなさい」
沈黙が落ちた。兵士たちが息を潜め、街の空気がさらに重くなる。
ラースローは動かなかった。だが、彼の視線がわずかに揺れたのを、マテイは確かに見た。
「……包囲を解きます」
ラースローは静かに言った。
「ただし、市民の安全を確保するため、部隊は一定の距離を保って警戒を続けます」
カタリナは頷いた。「それでいいわ。ありがとう、ラースロー隊長」
その姿は、人形姫のようなお飾りの王女ではなく、強い信念を持った偉大な指導者だった。マテイは、その瞬間、彼女に敬意を抱いた。
マテイは、その瞬間、彼女に敬意を抱いた。
命令ではなく、信念で動く者――それは、軍人にも、政治家にも、なかなか持ち得ない力だった。
§
包囲が解かれたイニス人街は、まるで長い息を吐き出したかのように、静かに動き始めた。
軍の隊列が後退し、通りの緊張がわずかに緩む。だが、空気はまだ重かった。恐怖は、命令一つで消えるものではない。
窓の隙間から覗く瞳、扉の影に潜む気配――それらは、まだこの街が信じていない証だった。
ラウノは石畳を踏みしめながら歩いていた。
足元には、逃げるように残された足跡。壁には、色褪せた布告が貼られたまま。
風に揺れる洗濯物が、誰かの生活の名残を語っていた。
「人々は、まだ信じていない」
ラウノは呟いた。
「包囲が解かれても、恐怖は残る。信頼は、言葉ではなく行動で築かれるものです」
カタリナは彼の言葉に頷き、街の奥へと視線を向けた。その先に、死体が発見されたという裏路地がある。
「ラウノ殿、死体の検分をお願いできますか?」
「もちろんです。星が語るなら、真実を見つけられるでしょう」
ラウノは天球儀を胸元に触れながら、静かに歩き出した。
その時、マテイが現れた。
小柄な体格に、仕立ての良い赤茶色のスーツを纏い、顎には整えられたダックテイルの髭があった。
くせのある茶髪が風に揺れ、琥珀色の瞳が、疲労と怒り、そしてわずかな希望を宿していた。
商家の息子らしい洗練された身なりと、イニス人としての誇りが、彼の立ち姿に滲んでいた。
「総督閣下。包囲を解いてくださったことには感謝します」
彼は街の代表として、カタリナに歩み寄る。その顔には疲労と怒り、そしてわずかな希望が混じっていた。
「ですが、我々はまた疑われています。死体がここにあるというだけで、我々が殺したと?」
カタリナは静かに答えた。「だからこそ、真実を確かめに来ました。あなた方を守るために」
マテイはしばらく黙っていたが、やがて頷いた。「では、案内しましょう。死体は、裏路地の廃屋にあります」
その言葉に、ラウノは天球儀を手に取り、星の記憶を探る準備を始めた。
魔術は、証拠を語るが、裁くことはできない――それは、政治家の役目だ。
廃屋の裏路地は、湿った空気に包まれていた。瓦が崩れかけた屋根の下、積み上げられた木箱の上に、死体は横たわっていた。
王家の紋章を刻んだ外套を身にまとい、顔は血と泥に覆われ、判別は困難だった。
カタリナは一歩踏み出し、死体を見下ろした。その瞳には、怒りでも悲しみでもない、ただ真実を求める静かな光が宿っていた。
マテイは少し離れた場所で腕を組み、街の代表としてその場に立っていた。
「この男を見たことはない」と彼は言った。「少なくとも、我々の街の者ではない」
ラウノは死体の傍にしゃがみ込み、手袋を外した。指先が空気をなぞると、周囲の温度がわずかに変化する。彼は指先から天球儀を取り出すと、静かに空中に浮かべた。
星々が淡く輝き、死体の上に光の網を広げていく。それは、星の記憶を呼び起こす魔術――存在の痕跡を探る術だった。
「星よ、語れ。この者の名を、運命の軌道に刻まれているか否かを」
天球儀が微かに震え、中心の星が一瞬だけ光を帯びた。だが、その光はすぐに消え、星図は沈黙を保った。
ラウノは眉をひそめ、死体の胸元に手をかざす。魔力の残留を探るが、そこには何の痕跡もなかった。
「これは……偽装です」ラウノは静かに言った。「星はこの者を『レナート村出身の一兵卒』と語っています」
「それはおかしい。アーロン卿は生まれながらの貴族だ」ヴィクトールがアーロン卿の生い立ちを説明する。
ラウノは遺品に手をかざしながら続ける。「魔力の痕跡もない。王命を帯びた者であれば、何らかの保護魔術が施されているはずです」
カタリナは死体を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「つまり、これは……誰かが意図的に他人を置いたもの」
「ええ。王家の紋章も、複製です。魔術的な刻印がない。見せかけだけのものです」
ラウノは天球儀を消し、立ち上がった。
魔術は語った。だが、語られた真実をどう扱うかは、政治の問題だ。
マテイは静かに言った。「ならば、我々は濡れ衣を着せられたということか」
その言葉に、カタリナは頷いた。「この死体は、真実を隠すための道具です。誰かが、王命を妨げるために仕組んだ」
検分が終わり、死体が偽装であることが明らかになると、沈黙が場を包んだ。
その沈黙を破ったのは、マテイだった。
「……では、これからどうするおつもりですか、総督閣下?」
その問いに、カタリナは迷いなく答えた。
「犯人を捕らえます。真実を暴き、責任を問う。それが、この地に正義をもたらす唯一の道です」
ラウノは肩をすくめた。
「正義とは便利な言葉ですね。誰もが口にするが、誰もそれを持っていない」
その言葉に、ヴィクトーリアが割って入った。
「ちょっと待ってくれ、犯人は分かっているも同然じゃないか。みんな、モーリツが仕組んだに決まってるじゃないか」
「決まっている、ね」 ラウノは呆れたように息を吐いた。
「証拠がなければ、それはただの憶測です。魔術でも、推測を真実にはできません」
「それはそうだが……」ヴィクトーリアが苦虫を嚙み潰したような顔をする。
ラウノは、カタリナとマテイの間に流れる空気を感じ取っていた。これは、政治の場だ。魔術師は、証拠を差し出すだけ。
その証拠をどう使うかは、彼らの役目だった。
カタリナはマテイに向き直り、静かに言った。
「マテイ殿、私たちは皆、今回の一連の事件がモーリツの悪行によるものと信じています。でも、証拠がない。証拠がなくては、私はあの巨悪を払う術を持ち合わせていないのです」
カタリナは悔しそうに下唇をかみしめてから、もう一度顔を上げる。
「私はあなたと協力したい。イニスの人々のために、共に真実を追い、未来を築きたい」
ラウノはマテイの表情を観察した。彼の瞳には、誠意と疑念が交錯していた。
「協力を惜しむつもりはありません。イニスのためなら、私は何でもする」 だが、と続ける。
「包囲を解いただけでは、まだ信用できません。これは、マイナスをゼロに戻しただけです。我々は、長い間、ゼロ以下の場所にいたのです」
その言葉に、カタリナは深く頷いた。
「あなたの言葉は、よく理解できます。だからこそ、私は提案します」
「ダルマティア管区に、段階的に普通選挙を導入しましょう。王都と同様に、庶民院――下院を設け、民の声を政治に反映させる制度を築きます」
「それは、王家の名において、私が約束します」
その言葉が、ただの理想ではなく、現実の提案であることを、ラウノはカタリナの瞳に見た。
その瞳には、王族の威厳ではなく、民を見つめる誠意が宿っていた。
「庶民院の設立――それは確かに希望です」
マテイは静かに言った。
「ですが、希望だけでは民は動きません。私が必要なのは、保証です。言葉ではなく、形ある約束を」
カタリナは頷いた。「文書にしましょう。王家の名において、署名します」
「それだけでは足りません」マテイは続けた。
「イニス人街の自治を暫定的に認めていただきたい。治安維持、行政運営――我々自身の手で行う権利を」
「さらに、モーリツの影響力を排除する具体的な措置も必要です。彼の代理人を即時解任し、監視体制を整えていただきたい」
「そして、民の生活を立て直すための予算。包囲による損害は、言葉では癒せません」
カタリナはしばし沈黙した後、静かに言った。
「それらすべて、検討に値します。私は、あなた方の声を聞くためにここに来たのです」
マテイは目を細めた。「ならば、我々はようやく、ゼロの地点に立ったということですね」
カタリナは一歩、マテイに近づいた。その瞳には、王族としての威厳ではなく、一人の政治家としての覚悟が宿っていた。
マテイはその視線を受け止め、わずかに口元を引き締めた。
「では、条件を文書にまとめましょう。あなたの署名をいただければ、我々も動きます」
「ええ。王家の名において、約束します」
カタリナはそう言って、手を差し出した。
マテイは一瞬だけその手を見つめた。
その手が、どれほどの血と責任を背負ってきたのかを測るように。
そして、静かに、自らの手を重ねた。
握手は短く、だが確かなものだった。それは、信頼ではなく、利害の一致によって結ばれた契約。
だが、そこには確かに、未来を変えようとする意志があった。
「では、始めましょう。ゼロから」
マテイが言った。その言葉に、カタリナは微かに笑みを浮かべた。
風が再び街を撫で、瓦屋根がかすかに軋んだ。
だが、先ほどまでの沈黙とは違う。
それは、何かが動き出す前の、静かな予兆だった。




