第四章 逮捕と対峙
夜の応接室は、深い霧に包まれた森の奥のように、息をひそめていた。
壁一面の書棚には、古い法令集や議事録が眠り、蝋燭の淡い光が天井の漆喰に揺れている。窓の外には夜の霧が降り、街の灯りは遠く霞んでいた。カタリナは、重いカーテンの隙間から月光を引き入れ、卓上に一枚の布を広げる。その上には、血で汚れた勅書が置かれていた。
ゾルターナが、議長の徽章を胸に静かに立つ。
保守派議員の代表セーケイ・ヴィルモシュは、銀縁の眼鏡越しに勅書を睨みつける。
改革派の代表議員ナジ・エミリアは落ち着かない様子で長い金髪を耳にかけ直している。
マテイは、部屋の隅で控えめに佇み、時折、窓の外に目をやった。
カタリナがこの人選をしたのには訳がある――ダルマティア管区評議会の構成である。
ダルマティア管区評議会は現在、保守派の王党派が議席の約四割、改革派の新たな夜明け党は議席の約三割、モーリツ一派と目される中央派が一割五分ちょうど、マテイ率いる属領民連盟が約一割を占めている。
いわゆる与党とされるのは王党派と中央派の連立政権であり、この二つの党派で過半数を占めることになる。
件の勅命はモーリツの罷免であり、これを政権与党の一端を占める中央派が反対するのは自明――新たな夜明け党と属領民連盟が賛成しても過半数に満たないのである。
必然的に、王党派の支持は取り付けなければならない。
もっとも、これは一部正しく、一部誤っていた。
まず、中央政府と属領の権力が不均衡なパンノニア王国において、属領評議会の議決は勅命を上書きできない。
よってもって、勅命が中央政府にて承認された以上、本来カタリナは議会にお伺いを立てる必要はない。
だが、パンノニア王国では国王と議会は対立する場面がありつつも、最終的には同意見で同じ方向を向くことが望ましいとされていた。
国王は議会の意見を尊重し、必要なら採用する。議会も国王の決定を尊重し、必要ならこれを追認する。
そのような大変|非効率的な不文律の様式美を、カタリナはいつか変えたいとは思っているが、それは今日ではない。
「これが、アーロン卿の血で汚れた勅書です」
カタリナの声は、夜気に溶けるように低く響いた。彼女の銀髪が蝋燭の光を受けて淡く輝く。
「警察の調査で、勅書は本物と確認されました。内容は、モーリツ執政官の罷免命令。そして、勅命を運んでいたアーロン卿は、モーリツの手にかけられた」
ゾルターナの言葉に、保守派議員が眉をひそめる。
「にわかには信じがたい……。だが、証拠がここにある以上、無視はできん」
若い革命派議員エミリアが身を乗り出す。
「今こそ、緊急動議をかけるべきです。総督の名において、モーリツの罷免を議決し、即刻逮捕を――」
王党派のヴィルモシュが、机を軽く叩いて制する。
「このような乱暴な進め方は、議会で反発を生みます。罷免は必要でしょう、ですが、議会で十分に議論されてから決議に臨むべきです」
マテイが、静かに反論する。
「議会にはモーリツの一派もいます。非公開討議としても、彼には動きが察知される。対策や証拠隠滅に走る恐れも否定できません」
「それはそうだが、だからといって手続きを無視するわけにはいかん」
ヴィルモシュが譲らない。血気盛んなエミリアが、声を荒げる。
「それでは犯罪者が野放しになるではないか。モーリツ一派は保守派寄りだ。党勢の弱体化を気にしているのでは?」
ヴィルモシュは、冷ややかに笑う。
「逆に革命派は、政敵の勢力を削ぐ絶好の機会なのだろうな」
言葉の応酬が、夜の静けさを切り裂く。カタリナは、卓上の勅書にそっと手を添え、静かに口を開いた。
「勅命が下された以上、総督としてこれを速やかに実行する必要があります。しかし、私は議会を軽んじるつもりは毛頭ありません。同時に、マテイ議員の主張する証拠隠滅などについても懸念を共有しています」
カタリナの灰色の瞳が、ゾルターナを見据える。
「議長、このような場合において緊急動議を発令した前例はありますか?」
部屋の空気が、蝋燭の炎とともにわずかに揺れた。ゾルターナは、深く息を吸い、静かに答える。
「……前例が、ないわけではありません。かつて属領で疫病が発生した際、議会の通常手続きを省略し、総督権限による緊急事態が宣言された記録があります。その時に総督は議会を緊急招集し、事後的に非常事態を決議しました」
ゾルターナは言葉を終えると、手元の書類にそっと視線を落とした。蝋燭の炎が彼女の横顔に影を落とし、部屋の空気が一層重くなる。
「だが、その時は人命が直接危険に晒されていた。今回は違う。証拠があるとはいえ、モーリツ執政官の罪状はまだ確定していない」
ヴィルモシュは椅子の背に身を預け、眼鏡のブリッジを指で押し上げる。慎重な口調の裏に、動揺を隠しきれない。
「だが、勅命は王家の意思です。これを無視すれば、我々全員が逆賊と見なされかねないのでは?」
エミリアは、机の上に両手を置き、前のめりになる。声には焦りと熱が滲んでいた。
「議会の名誉も大事だが、民意を裏切ることはできない。今ここで決断しなければ、属領の未来はない」
マテイが静かに口を開く。彼は窓の外に一瞬だけ目をやり、夜霧に沈む街の灯を見つめてから、再び卓上の勅書に視線を戻した。
カタリナは静かに全員を見渡し、言葉を選ぶ。
「私は、王家の名において勅命を執行する責務があります。しかし、皆さんの懸念も理解しています。ですから、こう提案します。今夜中に非公開の緊急招集を発令し、モーリツの拘束について議会の承認を明朝までに取り付ける。モーリツ執政官を拘束後、改めて議論を行い、罷免を正式に決議します。前例のない短期間ですが、議論が長期化すれば証拠隠滅や逃亡の恐れがあるためです」
ゾルターナは深く頷き、賛意を表明する。
「……妥協案としては妥当かもしれません。議会の手続きを完全に無視するわけではない。また非公開討議を徹底するために、議長の名において政庁の完全閉鎖魔術を行使します」
「……承知した。ただし、拘束は議会で正式に議決されるまで、あくまで暫定措置とすることを条件としたい」
ヴィルモシュはあくまでモーリツの拘束は暫定措置であると強調する。
「それで十分です。属領の民も納得するでしょう」エミリアも同意する。
短い沈黙が落ちる。蝋燭の炎がわずかに揺れ、誰かの息遣いが静けさの中に溶けていく。王党派のヴィルモシュは眼鏡を外し、ハンカチでそっとレンズを拭った。エミリアは、緊張した面持ちで拳を膝の上に握りしめる。ゾルターナは議長徽章に指を添え、決意を確かめるように一度だけ頷いた。
カタリナは卓上の勅書に視線を落とし、ゆっくりと息を吐く。その横顔に、月光が淡く影を落とした。
「では、ゾルターナ議長。緊急招集の発令をお願いします。ヴィルモシュ議員とエミリア議員は各派閥との意見調整をお願いします。明朝、議会で全てを明らかにしましょう」
部屋の空気が張り詰める中、密会は静かに終わりを迎える――。
§
ダルマティア議事堂の扉が近衛兵たちによって重々しく閉じられると同時に、ゾルターナは静かに右手を掲げた。
「完全閉鎖魔術――発動」
空気が震え、窓の外の光が一瞬だけ歪む。議場全体に淡い結界が張り巡らされ、外部との連絡は一切断たれた。
議員たちの間にざわめきが走るが、ゾルターナは冷静に開会を宣言する。
「諸君、静粛に――総督による緊急招集議会を、今ここに開会する。議事堂は完全閉鎖された。いかなる通信も、外部との接触も不可能だ。議事の全ては、この場でのみ決する」
議員たちが互いに顔を見合わせる。
王党派のセーケイ・ヴィルモシュは椅子の背に深く身を預け、新たな夜明け党代表のナジ・エミリアは前のめりに卓上の書類を整えている。
マテイは控えめに議席の端に座り、中央派のレーヴァイは苛立ちを隠さずペンを指で転がしていた。
「議題は、王家勅書に基づくティサ・モーリツ執政官の罷免および逮捕の是非である。まず、緊急招集の理由を説明する」
「議長!このような騙し討ちのような開会は前代未聞です!そもそも、総督には議会を緊急招集する権限はないのではありませんか?」
レーヴァイが議題を聞き、即座に抗議する。
「王家勅書が根拠となる場合、総督の権限は認められるはずだ。過去にも王命による緊急招集の例がある」
それに対し、事前に説明を受けていたヴィルモシュは冷静に反論をする。
「民意と正義のために、手続きの枠を超える必要がある時もある。今がその時だ」
普段は王党派の反対ばかりするエミリアも、今回は王党派に賛同する。
「貴様らっ……!謀ったな!」
「諸君ら、静粛に。勅書の緊急性に鑑み、議長権限において本議会の開催を認める」
「議長!これは一体……」
「これ以上、不規則発言を繰り返すようであれば、大変心苦しいが、議長として対処をせねばならない。沈黙か鎮圧か――選びたまえ」
魔女ゾルターナの毅然とした態度に、レーヴァイは黙ったまま不満そうにソファに腰掛ける。
議事堂でゾルターナは勅書の写しを掲げ、警察の鑑定書を議員たちに配布する。蝋燭の光が紙面に反射し、議場の空気が一層重くなる。
「この勅書は、王家の正式な印章と血の封蝋を伴い、警察による鑑定の結果、真正と認められた。内容は、ティサ・モーリツの即時罷免命令である。証拠として、アーロン卿の遺書も添付されている」
セーケイが手を挙げる。「議長、証拠の出所と鑑定過程について、詳細な説明を求めます」
ゾルターナは頷き、警察署長からの報告書を読み上げる。
議員たちが資料に目を走らせ、一斉に紙をめくる音が、静寂の中に響く。
ナジがすかさず発言する。「証拠は十分です。王命は絶対であり、議会はこれに従うべきです。討論を打ち切り、即時採決を求めます」
セーケイは眉をひそめ、ゆっくりと眼鏡の縁をなぞる。「議会の威信を守るためにも、手続きの正当性を重んじるべきです。暫定措置は認めますが、正式な採決は明朝に行うことを提案します」
議場がざわめく。レーヴァイが立ち上がり、「証拠は捏造の可能性も否定できません。王命といえども、議会の審議を経ずに罷免を決定するのは前例に反します」と声を張る。
ナジは即座に反論する。「民意を裏切ることはできません。議会が遅滞すれば、犯罪者が野放しとなります。属領民の安全を守る責任を忘れてはなりません」
マテイが静かに口を開く。「属領民の治安は既に危機的状況です。証拠隠滅や逃亡の恐れがある以上、暫定的な拘束措置を早急に講じるべきです」
ゾルターナは議員たちの応酬を見守りながら、議事録係に目配せする。ペンが紙を走る音が、議場の緊張を際立たせる。
セーケイが再び発言する。「議長、討論を続けるべきです。王命といえども、議会の自律性を損なうことはできません」
ナジが机を軽く叩く。「議会の自律性は、民意に支えられてこそ意味がある。今ここで決断しなければ、属領の未来はない」
議論が一巡し、沈黙が訪れる。
その静寂の中、カタリナはゆっくりと右手を挙げた。
彼女の動きに、議場の視線が一斉に集まる。
ゾルターナが静かに頷き、発言の許可を示す。
カタリナが立ち上がり、銀髪が肩に流れ、淡い光を受けて揺れる。
彼女は一度、深く息を吸い、胸元に手を当てて心を落ち着かせる。
手にした手紙の重みを確かめるように、指先で血の跡をなぞった。
ゆっくりと歩き出し、半円形の議員席の間を、まっすぐに演壇へ向かう。議員たちの視線が、彼女の背中に突き刺さる。
演壇の階段を一段ずつ上がるたび、靴音が石床に静かに響く。壇上に立つと、議場全体が見渡せた。
高い天井から差し込む光が、彼女の肩に淡く降り注ぐ。背後には王家の紋章が掲げられ、歴史の重みがその身にのしかかる。
カタリナは演壇の縁に両手を添え、しばし目を閉じる。議場のざわめきが、次第に静まっていく。
カタリナは、しばし沈黙を保ったまま、議場の一人ひとりの顔を見つめた。
その瞳には、迷いも恐れもなく、ただ静かな決意が宿っている。
「諸賢――今、私たちは歴史の岐路に立っています。
議長が提示した勅書は、血と祈りの果てに、迷宮の奥で見つけたものです。
アーロン卿は命を賭して、王家の意思を私たちに託しました。
彼の遺志は、ただ一つ――正義を、ここに取り戻すこと。
王命は絶対です。私は総督として、この勅命を直ちに実行に移す必要があります。しかし同時に、私は議会の誇りと責務を軽んじるつもりはありません。
この議場は、知恵と正義の砦です。王命に従うだけでなく、私たち自身が何を選ぶのか――それが、今問われています。
議会が代々守り続けてきた伝統と誇り、王家への忠誠が、パンノニアの礎を築いてきました。
王家の意思を正しく受け止め、議会の知恵と結びつけることこそ、真の忠義であり、未来への責任だと私は信じています。
王家と議会が手を携え、民のために決断する――それが、私たちの国の強さです。
犠牲は、私たちのすぐ傍にあります。アーロン卿だけではありません。属領の民、家族を失った者、声を奪われた者――彼らの苦しみと願いが、この議場に届いています。
私たちは、誰のためにここにいるのでしょうか?権力のためでも、党派のためでもない。未来のため、子どもたちのため、パンノニアのためです。
恐れは、誰の心にもあります。決断することは、痛みを伴います。ですが、逃げればさらなる混乱と暴力が待っています。
どうか、恐れを超えて、未来を選ぶ勇気を持ってください。
今こそ、派閥や出自を超えて、手を取り合うべき時です。
この決断が、明日の平和を守る礎となります。
私は一人の人間として、そして王家の名において、皆さんに訴えます。
今一度お願いします。正義と誇りをもって、この議場で歴史を動かしてください」
カタリナの演説が終わると、議場にはしばし、深い沈黙が降りた。
半円形に並ぶ議員席の一人ひとりが、まるで時が止まったかのように動きを止めていた。
誰もが、今しがた投げかけられた言葉の重みを、胸の奥で反芻している。
蝋燭の炎が静かに揺れ、天井の高い議事堂には、歴史の重みと未来への予感が満ちていた。
王党派のセーケイ・ヴィルモシュは、腕を組んだまま、じっとカタリナを見つめている。
新たな夜明け党のナジ・エミリアは、拳を膝の上で握りしめ、目を伏せていたが、やがてゆっくりと顔を上げた。
中央派のレーヴァイは、苛立ちを隠せずにいたが、今はただ、机の上のペンを指で転がす手を止めている。
マテイは、静かに息を吐き、カタリナの背中に視線を送った。
議場の後方では、傍聴席の人々も息をひそめている。
近衛兵たちも、結界の内側で微動だにせず、ただ事の成り行きを見守っていた。
やがて、誰かが小さく椅子を引く音が響く。
それをきっかけに、議員たちの間にざわめきが広がり始める。
低い声で意見を交わす者、静かに頷き合う者、深く考え込む者――だが、誰もが、カタリナの言葉に心を動かされたことを隠せなかった。
ゾルターナは議長席から、議場全体を静かに見渡す。
その目には、これから下される決断の重みと、歴史の転換点に立ち会う覚悟が宿っていた。
ゾルターナは静かに手を挙げる。「討論は十分と認めます。動議が提出されました。暫定的にモーリツ執政官を拘束し、明朝の正式議決をもって罷免の是非を決定する――この案に賛成の議員は起立を」
椅子が軋み、議員たちが次々と立ち上がる。セーケイは慎重に立ち上がり、ナジは力強く背筋を伸ばす。マテイも静かに起立し、レーヴァイは青筋を立て喚き散らす。
ゾルターナは議場を見渡し、静かに宣言する。「賛成多数――動議は可決されました。本議会はこれにて閉会とします。議事堂の結界は、議員退場と同時に解除されます」
議員たちが静かに着席し、議事堂の空気がわずかに緩む。ゾルターナは深く息を吐き、結界の維持を解く準備を始めた。
§
政庁の執務室は、かつてないほど静まり返っていた。
ティサ・モーリツは、分厚い扉の向こうに響く足音に耳を澄ませていた。
机の上には、王家の紋章が刻まれた勅書が無造作に投げ出されている。
窓の外はすでに夜の帳が下り、街の灯りも遠く霞んでいる。
彼の手は、気づけば震えていた。
――なぜ、こんなことになったのか。
かつては自分の命令ひとつで、この政庁も、属領の軍も、すべてが動いた。
だが今、扉の外にいるのは自分の部下ではない。
カタリナ総督と、その忠実な軍人、ラースロー。
彼らが自分を討つために来る。
その事実が、じわじわと胸を締め付ける。
机の引き出しを開け、銀の短剣を取り出す。冷たい金属の感触が、かえって現実味を奪う――最後まで、抗うべきか。それとも、すべてを諦めるべきか。
扉の外で、近衛兵たちの号令が響いた。モーリツは、思わず椅子から立ち上がる。
額に汗が滲む。机の上の勅書を睨みつけ、歯を食いしばる。
「……王家の犬どもめ」
かつての自分なら、こんな状況でも冷静に策を巡らせただろう。
だが今は、思考が空回りするばかりだ。
誰も助けてはくれない。味方だったはずの議員たちも、すでに裏切った。あのお方は、助けてくれるだろうか?
そのとき、部屋の隅に影が揺れ、黒い羽根が一枚、床に落ちる。
「……随分と騒がしいですね、モーリツ殿。顔がだいぶ青いようですが、大丈夫ですか?」
漆黒の生地に紫色の刺繍を施したローブをまとった男が、ねっとりとした独特な話し方をする――ネゼルである。
「ネゼル!来てくれたか……!逃げ道を、頼む……君の転移魔術なら、まだ……!」
ネゼルは微笑みながら、机の上の勅書を指先でなぞる。
「おや、まだ〝君〟と呼んでくれるのですね。だが、残念ながら……私はもう、あなたの影ではない」
「待て、私はまだ終わっていない!あのお方に伝えてくれ、私は忠誠を誓っていると!」
ネゼルはしばらく黙っていたが、やがてため息をつく。
「……忠誠は、結果で測られるもの。あなたは……〝足手まとい〟になった。それだけのことです」
「仲間を見捨てるのか……!」
「……仲間?これは異なことを。私もあなたも、お互いに利用する関係だったじゃあありませんか。利用価値がなくなれば、去る。そうでしょう?」
黒い羽根が床に落ちた瞬間、部屋の隅の影は音もなく揺らぎ、ネゼルの姿はまるで夜の帳に溶けるように消え去った。
モーリツは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
静寂が、政庁の執務室を満たす。
――気配が消えた。
だが、安堵は訪れない。むしろ、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
「……仲間じゃない、のか……」
呟きは誰にも届かない。
モーリツは机の上の勅書を睨みつけ、震える手で銀の短剣を握りしめた。
扉の向こうからは、近衛兵たちの号令と、軍靴の重い足音が断続的に響いてくる。
その音が、現実をじわじわと押し寄せさせる。
机や椅子を扉に押しやり、障害物にしようとするが、その手は頼りなく震えている。
――本当に、これで時間が稼げるのか?
いや、そもそも、何のために抗うのか。
助けは来ない。味方だった議員たちも、すでに裏切った。
あのお方――ネゼルの背後にいる貴きお方――も、もう自分を顧みることはないのだろうか。
外から、駐留軍の号令がさらに近づく。
扉の前で、誰かが低く命令を下す声が聞こえる。
モーリツは、短剣を握りしめたまま、壁際に後ずさる。
心臓の鼓動が、耳の奥で激しく鳴る。
――逃げ道は、もうない。
だが、降伏することもできない。
このまま捕らえられ、すべてを失うのか。
それとも、最後まで抗い、何かを残せるのか。
思考は焦りに呑まれ、まとまらない。自分の存在が、急速に小さく、脆くなっていくのを感じる。
かつての自信も、誇りも、今はただ、薄氷の上に立つような危うさしか残っていない。
――誰か、助けてくれ。
心の奥底で、そんな声がかすかに漏れる。
だが、返事はない。
静寂と、扉の向こうの足音だけが、現実を突きつけてくる。
モーリツは、最後の望みをかけて、机の奥に隠していた小箱に手を伸ばす。
だが、その瞬間――
「突入!」
扉が激しく軋み、ついに金具が外れた。
政庁の執務室に、冷たい夜気とともに、ラースローが踏み込んでくる。
その姿は、かつて自分に忠誠を誓った軍人とは思えない。鬼神――いや、処刑人のような冷たい眼差し。
モーリツは、短剣を握りしめたまま、壁際に追い詰められる。
「裏切り者め!貴様、誰に育てられたと思っている!この政庁も、軍も、すべて俺が築いたんだ!貴様のような小物が、王家の犬になり下がるとはな!」
ラースローは、無言でモーリツに近づく。その動きは、訓練された兵士のそれだった。モーリツは、怒りと恐怖で声を震わせる。
「お前は、俺の命令で出世したんだろう!今さら総督の盾を気取るつもりか?恥を知れ!」
ラースローは、無言のまま一歩踏み込むと、モーリツの腕を乱暴に掴んだ。
その手は容赦なく、骨まで痛みが走るほど強く締めつけられる。
短剣を奪い取る動きは、冷静さを装いながらも、どこか抑えきれない激しさが滲んでいた。
刃が床に落ちる音が、やけに大きく響く。
「……命令に従うのが軍人の務めです。正義に背く命令でも、従う必要がありました」
低く、押し殺した声。
だが、その奥に、何かが軋むような気配があった。
「だが、貴様に恩義を感じたことなど、ただの一度もない!たった一片たりとも、尊敬に値しない!」
ラースローの言葉は、吐き捨てるように鋭く、空気を切り裂いた。
その瞳は氷のように冷たく、しかし、燃えるような怒りが底に渦巻いているのが、ただ視線を受けるだけで伝わってくる。
モーリツは、言葉を失い、ただその眼差しを見返すしかなかった。
ラースローの配下たちが静かに室内に入り、モーリツの両腕を拘束する。ラースローは一度も振り返らず、カタリナの方へ歩み寄った。
モーリツの叫びは、夜の政庁に虚しく響いた。
§
地下牢の空気は、石壁に染み込んだ冷たさと、揺れるランタンの光が静かに交錯していた。
カタリナはヴィクトーリアを伴い、重い扉を押し開ける。彼女は無言で背後に立ち、腰のホルスターに手を添えて警戒を怠らない。その気配が、私の背中を支えてくれる。
鉄格子の向こう、粗末な寝台に腰掛けるティサ・モーリツが、私たちの足音に顔をしかめる。
カタリナは格子の前に立ち、彼の視線を受け止める。かつて政庁を支配していた男の目は、冷たく、どこか諦めを含んでいた。
「総督自らご足労とは、随分とご熱心だな。王家の使い走りが、牢の中の政治犯に何の用だ?」
モーリツの皮肉は、カタリナの胸に小さな痛みを残す。それでも、一歩も引かず、静かに答えた。
「あなたは、パンノニアの秩序を守る立場にありながら、民を犠牲にし、王命を踏みにじった。その責任を問うために来ました」
モーリツは鼻で笑う。
「秩序?民?――お前が語る理想は、絵空事だ。現実の政治は、力と利権の奪い合いだ。王家も議会も、結局は自分たちの椅子を守るために動いているだけだ」
カタリナは格子越しに、モーリツの目をまっすぐ見据える。
「私は、民のための政治を信じています。王家の名において、議会と民が手を取り合う未来を築きたい」
モーリツは肩をすくめる。
「理想を語るのは勝手だが、現実は違う。お前がどれだけ綺麗事を並べても、結局は力を持つ者が勝つ。私が負けたのは、王家の権威と軍の力に屈したからだ」
カタリナは静かに言葉を重ねる。
「あなたが失ったのは、民の信頼です。権力だけでは、国は動かない。民の声を聞き、痛みを知る者こそが、未来を導くべきです」
モーリツは格子に手をかけ、低く呟く。
「お前のような理想主義者が国を導けば、いずれまた混乱が訪れる。民は弱く、すぐに流される。強い者が導くしかないのだ」
カタリナは一瞬だけ目を伏せ、静かに答える。
「それでも私は、民とともに歩む道を選びます。あなたのやり方は、もう終わったのです」
モーリツは格子越しにカタリナを見据え、皮肉な笑みを浮かべた。
「……だが、総督。お前がどれほど理想を語ろうと、この国の本当の力がどこにあるか、分かっているのか?」
カタリナは静かに問い返す。「何が言いたいのですか?」
モーリツは低く笑い、声を潜める。
「王家の血筋は一つじゃない。お前が民のために動くなら、別の〝王家〟が、もっと現実的なやり方で国を動かすだろう。……私の背後には、まだ〝あの方〟が残っている」
カタリナの表情がわずかに揺れる。ヴィクトーリアが警戒するように一歩前に出るが、モーリツは続ける。
「お前がどれだけ民の声を集めても、力を持つ者が最後に勝つ。私のような小物とは違う、〝あの方〟は――いずれ分かるさ。パンノニアの夜は、まだ終わらない」
「姫様……行きましょう」
ヴィクトーリアの一言でカタリナは我に返り、やがて静かに答えた。
「私は、どんな闇が来ようとも、民とともに歩みます。あなたの時代は終わりました。後は司法があなたを断罪するでしょう」
モーリツは、二人の姿を見据えながら、最後まで皮肉な笑みを浮かべていた。
地下牢の静けさの中、国家のあり方を巡る二人の対立は、決して交わることなく、冷たい石壁に吸い込まれていった。




