第10話「記録の先に」
書記官室に戻って、最初にしたことは──ダニエルの机を掃除することだった。
誰にも使われず、そのままになっていた彼の机。インクで汚れた指の跡が、まだ引き出しの縁に残っていた。
マリエットが花を一輪、机の上に置いた。
「ダニエル様、きっと喜んでいますよ」
「……そうね」
窓から入る風が、花びらを揺らした。
◇
御前会議から一週間が経った。
メルヴィル侯爵家は正式に爵位を剥奪され、領地は王室管理下に置かれた。侯爵領の孤児院は再開が決定し、横領された資金の返還手続きが始まっている。
ピエールは毒殺の実行犯として有罪判決を受けた。リュシアンは自発的な証言が考慮され、爵位の返上と五年間の謹慎処分に留まった。ヴォー男爵家の借金は王室の救済措置で整理されることになった。
ソフィアは一年間の社交界追放と社会奉仕。アルベールは執務権限停止と宰相の下での再教育。
全てが動き始めた。だが物語にはもう一つ──予想外の結末が残されていた。
ある日、ジルベール公爵が書記官室を訪ねてきた。
「イレーネ。一つ、伝えていなかったことがある」
公爵の表情がいつになく柔らかかった。
「二十年前、メルヴィル家の不正に気づいて殺された書記官──あの人の名は、エドモン・グランヴィルという」
心臓が止まりそうになった。
「グランヴィル──」
「ノエル・グランヴィルの父親だ」
全身の血が凍った。
ノエルが監察局で不正を追い続けてきた理由。メルヴィル家への容赦のない姿勢。証拠が揃うまで一言も発しないという信念。──それは全て、父親を殺された少年の、二十年越しの戦いだったのだ。
「ノエルが監察局に入った時から、私は協力している。感情に走らないよう、常に証拠を優先させてきた」
涙が頬を伝った。止められなかった。
「なぜ彼は教えてくれなかったのでしょうか」
「あの男はそういう人間だ。私情が判断を曇らせることを、誰よりも恐れていた」
公爵が静かに部屋を出ていった。
一人になった書記官室で、私は座り込んだ。
彼の歩幅がいつも少し小さかったこと。外套の袖がわずかに触れたこと。「よくここまで来たな」と言った時の声の柔らかさ。全ての記録が新しい意味を帯びて蘇った。
彼もまた、記録を消された者の子だったのだ。
──翌日、私はノエルの執務室を訪ねた。
「あなたのお父上のこと──聞きました」
ノエルの手が止まった。長い沈黙があった。
「……いつかは話すつもりだった」
「怒ってはいません。あなたが私情を隠した理由も分かります」
「父は──記録を残せなかった。全て消された。だから俺は、消えない記録を持つ人間と組みたかった」
「それだけですか」
ノエルが初めて視線を逸らした。
「……それだけじゃない。多分」
らしくない曖昧な言い方に、私は少し笑った。
「証拠が揃うまで結論を口にしない──でしたよね」
「……うるさい」
ノエルの耳が赤くなっていた。
私は一歩近づいた。彼の手に、自分の手を重ねた。
「私のログに、あなたの記録が一番多いこと、知っていましたか」
彼の手が、私の手を握り返した。強く。確かに。
何も言わなかった。記録を信じる二人に、言葉以上の証拠は要らなかった。
書記官室に戻ると、机の上にログの記録帳が開いてあった。最初のページ。私が書記官になった日に書いた一行。
「記録することは、未来の誰かを守ること」
ペンを取り、その下に書き加えた。
「そして、記録は──出会うべき人を、結びつけてくれる」
窓の外では、宮廷の庭園に植えられた花々が風に揺れていた。ログの中に、この景色も記録される。消えない記録として、永遠に。
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