六十一話「恐怖! 久根野高校廊下の怪」
咲がいなくなって数日後、僕らはいつもの通りの生活だった。夜遅くまでエリアーデと魔法の杖の使い方について教えてもらったため若干寝ぼけていたが、それでも他の奴らにはごく普通の変わらない僕を演じ切った。
「咲はまだ、見つからないのかの?」
吉田はあまり乗気じゃない表情で僕に問うた。
「ああ。魔王がメールでつながってる人間全体に訊いてみたが結局行方は知れずじまいだ」
いつも通り、冷淡な朱音。
「いいでしょ、あんな奴」
「はあ?」
こいつの声は、まるで人を気色ばませるためだけに設計されたかのよう。
「あいつはこの教室の掟に従えなかった。最初こそ気が向いてたみたいだけど、結局飽きたみたいね」
「……飽きたとかじゃないと思うけどな」
「飽きたでなくて何よ?」
魔王がそこに割って入る。自信満々に、
「咲はもしかしたら今特訓しておるかもしれんぞ。お主をあっと言わせるためにな!」
何という能天気ぶりだろう、と嘆かずにはいない。
いや、むしろあの時朱音と大喧嘩したのが今でもこたえているのだろう。正面から批判するような真似はしない。きっとそれが朱音という『異物』に対処する精一杯の工夫だったのかも。
「あっと? 具体的には?」
朱音の追求に、
「それはのう……、カラオケの腕前じゃ!」
……このままじゃ、だめだ。謎の寂寥感に、どうしても襲われてしまう。
彼らにいずれ教えなくてはいけないのだ。この世界に大きな危機が迫っていること。僕だけがそれを知っていること。
『世界の危機』とやらがあまりに誇張過ぎたから、実際にどんな手法を使って僕らに迫ってくるかなんて予想もつかなかった。
彼らとはせめていつも通りの日常を送りたかった。
ずしり、ずしりと人、というより動物の足音が響いてくる。
僕はただ、驚くことしかできなかった。
廊下からがなり立てる鳴声に驚き、みんなが様子見に教室から出る。
そしてそこで観た異常に、おびえ、反対側へと逃げだして。
魔王も、朱音も、すっかり小さくなった瞳で、悲鳴もあげず震えるばかり。
最悪だ。僕が、四筵と一緒にこの時を迎えるしかないなんて。
こんな日を迎えたばっかりに、また僕は……!
毛むくじゃらのずんぐりした化物。どこに目がついてるかもわからない。
ゆっくりと前に歩き、しかし確実に僕らと距離を詰めていく。
「しょ、翔吾!」
怖気づいた顔で、魔王は僕の手をにぎる。何とも威厳のない女の子だ。
「魔王様に少しでも触れたら、容赦しない!」
三茅は強気で叫んだかと思うと、いきなり教室の方に飛入ってがさごそ音を立てる。
以前マギアに贈ってもらった、鮫の衣装だ。
「この不届者おー!」
自己暗示のなせる技か、両腕を挙げ、化物に突っかかっていく。
何度も手、というかひれで化物の腹を打ちすえるが、びくともしない。
「み、三茅」 魔王が手を伸ばすが、肝心の足が前に出ない。
三茅の攻撃(?)の前に化物は何ら反応を見せず、そこに鎮座している。
だが、不毛な光景も永遠に続くはずがなくて。
敵はその太い片腕で三茅を横に払った。小さな体が、乱暴に自分を打ちすえながら床に転がった。
「あの野郎――」
吉田が怒りに満ちた叫びを発するが、一歩もそこから踏み出せずにいる。
化物は再び歩きだした。それも魔王の方へ。直感で、こいつは魔王を狙っていると察した。
最悪な気分だ。もう限られた人間だけじゃない。ほぼ、この学校全体の奴らに非日常が知れ渡ることになる。
僕の立場は? こいつらを守ってやらなくちゃいけなくなるのか? ただでさえ魔王相手にこれだけ困ってるってのに……!
しかし、僕は自我が弱かった。自分だけの利益のために他を見捨てられるほど、自我が強くなかった。もうこれ以上、誰かに捨てられたくなんかないから。
「ここはみんな下がってくれ!」
気づくと、大声で周囲に。
「僕が何とかする……だから、逃げて……おねがい。頼む」
「おねが……からっ!!」
不意に、噛んでしまう。
「翔吾! 今度は何なんだよ!?」
吉田の声は、叱るような、悔しがるような、感情がよく分からない。
「お前……何様なんだ? またお前は俺たちをかき乱すのか?」
きっと、自分が平凡であることに耐えきれないのだ。
「また、お前なんかに先を越されるのかよ!?」
「翔吾、逃げよ!!」
魔王が僕に僕の脚は化物に向かって揚がる。
「貴様がやられたら、我輩はどうすれば――」
僕はとてつもない恐怖でしりごみしつつ、歩きだす。よく視ると、まさに天井に達するくらい背が高い。
まして図体そのもの広さと来たら、アレクサンデルを越えるかも。
僕はこの物語の主人公なんかじゃない。目立ってはいけない。
僕はこの世界の危機を傍観し、魔王から勝手な注目を受けるただの無名人なのだから。
ポケットから例の杖を取りだした。
目をつぶり、内面に意識を集中させる。血液でもないような液体めいたものが、足から湧き上がって指先にまでほとばしり、熱を生みだす。
「電撃」
そして閃光が高い轟音を鳴らして向こう側に飛び出した。
化物は左右に震え、うめきを挙げて床に倒れた。その重々しさに反比例して、しならない木製の床。
僕はさらにもう一度魔術を発動した。
より電撃を強め、化物に致命傷を加えようとする。不思議と、自分が非日常にいるという自覚はない。
化物を幾重にも取り巻いて苦しめるのは、金色にも緑にも燃える光の網。
◇
確か、ここでエリアーデさんが言ってたな。
「魔術の強さはね、気の強さで決まるの」
「精神論ですか?」
あまりに抽象的な説明で、困惑する僕。なんだかこちら側の世界とそんなに変わらないじゃないか。
「いや、もっと具体的な力よ。私たちの世界ではより誰がどれほど精神的に強いかということに敏感なのよね。魔術の強さと生深緑な強さはある程度比例する。もちろん、精神的に研澄まされてればそのまま魔力が強いってわけじゃないけれどね」
「じゃあ、魔力を高めるには具体的にどうすれば――」
エリアーデだらしなくソファに背をあずけ、股を広げて、
「そりゃあ、魔法を窮めるしかないわね。魔術を繰り返し練習して実力をつけていけば、魔力は自然と揚がる」
劣情をかきたてる姿勢を平気で取ってしまうのが、いかにも異世界の人間らしい。
「まあ、肉体面とも関係があるからね。単に鍛えれば成長できるってもんじゃない」
◇
痙攣した手足をぶるぶるとふり払って、かなりの間暴れていたが、みんなの息遣が再び聞こえてきた頃にはとうとう停止していた。
終わった。無論、何一終わってない。
しかし、この時ばかりは体中のあらゆる気力が失われていて。
「死んだ……の?」
僕の前にまで踏みだした朱音が、敵の顔をじろじろと見やって訊く。
「……いや」
表面上、鼓動も鳴らさず、完全に機能を停止したように見える。死んだ、と言ってもおかしくはない。
けどどこか違和感がある。ガスにも似た異臭が、しだいにあたりに立ちこめたのだ。
「……あ」
目の前から、
化物の体毛や皮膚が次々と蒸発していった。あれほど大きかったのが急に風船みたいにしぼみ、燃残の灰ばかりがふわふわと足元に散っていく。
そして四肢を伸ばし、やつれ切った葛城咲の姿だけが床に倒れこんで。




