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第三十六話「公部孤軍遡行」

 無論ながら塩谷キャンプ場は途方もなく広い。職員の人たちも動員して、行方をくらました二人を捜索することに。

 僕らは麻口丘あさぐちおかの上に登って、公部川と山脈が一望できる場所に向かう。深緑の壁が荒野の上に横たわり、川との距離は相当なものだ。残念ながら、僕らにはここで絶景を満喫する暇などない。

 しかし、そのような処をいくら眺めわたしても、二人の小さな姿など見つけられるはずは。

「あの二人、いつから消えたんだ?」

 僕は漠然と、二人は遠くへ逃げ去っているのではないか……との予測を立てていた。

 吉田の不安定な憶測。

「さあ。けど、俺たちがコテージに集まった時かもしれない」

「じゃあ、結構早い頃から……?」

 僕が訊くと、心底絶望した顔をかきむしって、

「はあ、最近の憂鬱をちょっとでも晴らせるかもしれねえって思ったのに……!」

 三茅がとげとげしい声。鮫の頭もまっすぐに立っている。


「この責任は朱音にあるかもしれない」

「何?」

 魔王のとがる唇。

「きっと朱音が二人をそそのかしたんだ。朱音はずっと魔王に反発してたし、あの二人も魔王様にまつろっていない様子だったから」

 僕の心臓はきりきりしてしまう。吉田と彼女の論争いさかいを目撃してしまっただけに。

 吉田は唇をかんで箝口おしだまる。朱音の名なんて、耳にしたくもないみたいに。

 だが魔王は、誰を責めるつもりでもないらしかった。

「たとえそうだとしても、今は誰にも責を着せるべきではない」

 咲は気がとがめているように、うつむき、ひそかに震えている。

「私は、事態がそんなに深くなっているなんて想ってもなかった」

 元が陽気な性格なのだろうな。誰かの不満はかえって関心の中に入りにくいのだ。

 言いたいことがたまってくるが、それは当分問題にならない。


「私、あの二人に……」

 勝手に咲に、僕は下の方を指さし、注意をうながす。

「おい、あれを見てくれ」

 数隻、はしけに結わえつけられたカヌーが並び川の流れで静かに揺れている。

 マギアはそれがどうしたか、とでも言いたげの顔、

「船着場じゃ」

 自分でもまさかとは思う意見だが、あえて告げる。

「もしかしたら、勝手にカヌーでどっかにっちゃったとか……」

 吉田が不信感に声を荒げる。

「まさか! そこまでして逃げるとは思えねえぞ」

「だがお主、ひょっとしたらあのカヌーの数が減っているという可能性もあるじゃろう?」

 魔王は決して、そんな危惧おそれを否定しない。こんな状況では、どんなことも否定しきれないのだから。

 吉田は二人にあきれるばかり、口を拳で隠し、

「……叱られるどころの話じゃねえぞ……」

「だが、もちろん、そうではないかもしれぬしな」

 魔王は静かに語る。

「お主ら三人は川沿いに進んで奴らの名を呼べ。あの距離だと山にかえって反響こだまするかもしれぬからな」

 咲の顔はどうにも晴れない。吉田はどこかで、もやもやした気分を抱えたまま。

 三茅はそんな二人の肩をたたき、

「さあ行くよ、吉田、咲! 一刻も早く二人を捜しに!」

 無理に気分を当面の問題に向けさせ、坂を伸びる道にともども走っていったのだった。


 そしてこの時間である。


「二人きりになったの」

 心なしか、魔王の表情はにたにたしていた。

「ああ……」

 僕はこの時、彼女の意図に気づくわけもなく、感傷を曳航ひきずったまま。

「あのカヌーに乗らぬか?」 手でその場所をさし、提案。

「は?」

 僕はすっかり、あの会話を忘れていた。

 だが、魔王にとってはまさしく公約。

「貴様と一緒に公部川を上る、と言っておったではないか?」

「いやいや、さすがに不容まずいって!」

 僕は魔王に両手を差出す。

「まだカヌーのこぎかたなんて微細みじんも知らないし、転覆したらやばいだろうが!」

「我輩を誰と心得る! 魔王マギア・ユスティシアじゃ、もしカヌーが沈みでもしたら貴様と共に泳ぐまで!」

「あ~、もう……」

 ただの蛮勇。僕は頭をかきながら、返答に迷う。どう断れば可い。

「恐らく、二人はそう遠く離れておらんはずじゃ。まして声がとどかぬほどの距離でもあるまい!」

 魔王は事実、本気なのだ。道楽ではなく、それが二人を救う道かもと真剣に考えている。だからこそますます悩ましい。

 こうして僕ら二人は坂を下り、船着場へ走りだした。


 意外とカヌーは大きく、櫂も細長い。僕はなんとか左右に振り回すのが精一杯。

「どうやって漕ぐんだよ!?」

「知るか! 習うより熟知なれじゃ!」

 目の前に荒々しく迫る水面。

 魔王は弱弱しい腕ながら、前に進もうとするからたまらない。もはや魔王と運命共同体となった僕は今更櫂を停めるわけにもいかず、しゃかりきに漕ぎまくる。

 はっきり言って、水に逆らって進んでいるという自覚はほとんどなかった。

「おい、水がかかったじゃねえか!」

「我輩だってたくさん浴びておるんじゃ!!」

 魔王も劣らぬ声で返言いいかえしてくる。


 段々、左側に砂地が張りだしているのが視界に。

 魔王の切金声。

「あそこに陸地じゃ! 上陸すりゅ!!」

 僕は助かったような思いで大きく息を吐きたかったが――許されない。

 というのは、僕はそろそろ

 こんな所で出したら高校生活終わる。

 ……そうだ。大声出してかきけしてやる!

「あああああ!!」

「ど、どうしたんじゃ勇者、急に叫んで!?」

 悠長に答えてやる余裕はない!

「何でもな――」

 その時、盛大に漏らした。

 前から尿の決壊、後ろから大便の解放。

 猛烈なにおい。しかし、必死な魔王は物ともしない。

「くっそ、なぜこんな所でぇー!」

 今度はどう着替えればよいか、途方に暮れる。

「勇者!!」

 魔王が前方を指さす。すでに、陸地まで数メートルだ。

「しゃあああ――」

 考えている暇もなく、カヌーの底が砂と泥の混合に乗揚げ、じゃりじゃり音を鳴らす。


 どこで服を脱ごうか考えていた矢先、マギアが苦々しくはなつ。

「……勇者、一ついいか?」

「な、何だよ」

 おびただしい水を受け、マギアの服はいつも以上にしぼんでいた。おかげで乳房や太ももの形がありありとわかる。しかし漏らすという屈辱を味わう今の僕には大して眼福ではない。ましてあいつの嫌そうな目!

「く、くさい」

 鼻をつまみ、そっぽを向く。

「ほあああ」 かれた声しか挙げられない僕。

 そこまで脱糞がにおっているというのか。


「実は我輩の方も、たまちゃってのう……」

 地味に色づくマギアのほお。

 僕はうっかり奥ゆかしい眼つきのとりこになりそうになったが、力を尽くして目をつむり、

「じゃ、あっちいけ」

 マギアの脱始める音。

 この時点で僕のどこかは異様に興奮していたが、何とかして体が動きださないように制御。

 恥ずかしそうに低い声、

「我輩で……するなよ?」

 やめろ、したくなっちゃうじゃないか!

 僕は脱いだ。やはりコップ一杯ほどの尿でパンツはびしょ濡になっている。便の方は案外言うほど出ていない。それでも葉っぱをつかってむりやりぬぐうことにした。

「……どうじゃ」

 前を向くと、マギアの姿は見えない。樹の背後うしろにかくれたのだろう。

「やれやれ……これじゃエリアーデの時の二舞だよ」

 ズボンを川の水で洗い、もう一度着るとやけに重々しい。

 服の方はまだ軽いだけに、違和感が半端ないのだが。

 いずれにしろ、僕は気を取直し、さしあたっての行動を議論することに全神経を集中。

「マギア」

 僕は声がした方向に歩きだし、姿を見ようと。

「く、来るな!」

 だが、今はこれからどうするか決めなきゃいけないじゃないか。まず顔を合わせなきゃ。

 後側に周りこみ、様子を、うかがう。

「お前にひとつ訊かなきゃ――」

 魔王は裸一貫、腕で胸を覆い、黒い上着を腹から下に垂らす他は何もかも無防備。

 日を受けて輝く乳白の肌。水晶の光を放つ双眸は羞恥はじらいの眉に今にも閉ざされて。

 首飾のように張り、たわむ唇。

「貴様、今、笑ったな……!?」


 僕は、その後のことをよく憶えていない。きっとこの直後すさまじい勢でぶん殴られたのだろう。


 ◇


 平らな岩の上に座り、川の流を静かに眺める。

「……だいぶ時間経っちまったな……」

 僕は焦りつつ、魔王の顔を見やる。青空はさびて、赤く朽果てていく。

 このままじゃ、日が暮れてしまう。

「二人が見つかる気配もないし、無駄筋だったか……」

 悄然しょんぼりと、つぶやく。


「よし! ではこの陸地を探検するとしよう!」

 魔王は急ににやと笑い、ちっとも疲労の色は見せない。

「大丈夫か? もう帰った方がいいだろ?」

「二度とできぬ経験じゃ、今しておかずどうする?」

 はあ……とため息をつきつつ、惰性はどうしても魔王の跡をつけさせてしまう。

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