第1話 前世の記憶
第1話 前世の記憶
ガタガタ、ガタガタ――。
薄暗い荷台が大きく揺れるたび、積まれた木箱が小さく跳ねる。
幌の隙間から差し込む光。車輪が石を踏むたびに、三人の小さな身体も左右へ揺さぶられていた。
シロネ:「…………」
荷台の隅で、シロネは膝を抱えていた。
両手は後ろで縄に縛られている。隣には七歳の兄――レオと、三歳の妹――ミア。
ミア:「……おねえちゃん……」
震える声。
シロネが横を見ると、ミアは今にも泣き出しそうな顔でシロネを見つめていた。
シロネ:「……大丈夫」
本当は、全然大丈夫じゃない。
何が起きたのかは覚えている。
知らない男たちに突然襲われた。逃げようとしたけれど捕まり、三人まとめてこの荷馬車に放り込まれた。
怖い。
家に帰りたい。
お父さんと、お母さんに会いたい。
でも、自分まで泣いたらミアがもっと怖がる。
だからシロネは、できるだけ平気な顔をした。
シロネ:「お父さんたちが、きっと助けに来てくれるから」
ミア:「……ほんと?」
シロネ:「うん」
ミア:「……うん」
ミアが身体を寄せてくる。シロネも縛られた身体を動かし、その小さな肩へ寄り添った。
向かい側では、レオが黙って座っている。
いつもなら誰よりもうるさい兄が、今は何も言わない。
シロネ:「……お兄ちゃん?」
レオ:「……大丈夫だ」
シロネ:「え?」
レオ:「俺がいるから」
レオはそう言って、無理やり笑った。
レオ:「シロネもミアも、俺が守る」
シロネ:「…………うん」
明らかに怖がっている。
それでも、兄だから強がっている。
荷台の出口には、一人の男が座っていた。
汚れた服。腰には鞘に収められた短剣。
三人をここへ連れてきた盗賊の一人だ。
盗賊:「…………」
退屈そうにあくびをしながら、ときどき三人の様子を確認している。
逃げたい。
でも、どうやって?
手は縛られている。出口には大人が一人。
外にも仲間がいる。
五歳の自分に何ができるのか、分からない。
ミア:「……おなか、すいた……」
シロネ:「…………もう少し我慢しよう?」
ミア:「……うん」
ミアは素直に頷いた。
しかし――。
ぐぅぅぅ……。
小さなお腹から音が鳴った。
盗賊:「チッ」
男が露骨に顔をしかめる。
盗賊:「さっきからうるせぇんだよ」
ミア:「……っ」
ミアの身体がびくりと震えた。
シロネ:「ミア、大丈夫だから」
盗賊:「おい。静かにしろっつってんだろ」
レオ:「ミアは何もしてないだろ!」
盗賊:「あ?」
ユラ:「お兄ちゃん……!」
レオ:「腹が鳴っただけじゃないか! 飯もくれないくせに!」
盗賊の眉が吊り上がる。
男が立ち上がった。
ユラ:「お兄ちゃん、ダメ!」
レオ:「シロネは黙ってろ!」
レオも怖いはずだった。
それでも、ミアの前へ出ようとする。
レオ:「ミアを怖がらせるな!」
盗賊:「……ガキが」
男の足が振り上がった。
ドッ――!
レオ:「ぐっ……!」
蹴りが腹に直撃し、レオの身体が荷台の床へ転がる。
シロネ:「お兄ちゃん!」
ミア:「おにいちゃん!」
レオ:「……っ、う……」
腹を押さえて丸くなる。
盗賊:「商品だからって調子に乗るなよ。殺さなきゃ多少痛めつけたって――」
男が再び足を上げる。
その先には、倒れたレオ。
シロネ:「――やめて!」
考えるより先に身体が動いた。
シロネはレオの前へ飛び出す。
盗賊:「あ?」
シロネ:「お兄ちゃんを……蹴らないで!」
盗賊:「邪魔だ!」
振り抜かれた腕。
バキッ――!
シロネ:「――っ!」
拳が、シロネの頬を直撃した。
五歳の小さな身体が簡単に浮く。
ドンッ!
荷台の壁に叩きつけられ、そのまま床へ落ちた。
レオ:「シロネ!」
ミア:「おねえちゃん!」
二人の声が遠く聞こえる。
痛い。
頭がぐらぐらする。
目の前が暗くなる。
シロネ:「…………」
意識が――沈んでいく。
◆
暗闇。
何も見えない。何も聞こえない。
なのに――知らないはずの光景が、頭の中へ次々と流れ込んでくる。
巨大な城。
広大な草原。
鬱蒼とした森。
地下深くまで続くダンジョン。
剣。
魔法。
魔物。
そして、その世界を駆ける一人のアサシン。
シロネ:「……なに……これ……」
知らない。
――いや。
知っている。
罠を仕掛ける。
敵の背後へ潜り込む。
毒を使う。
短剣を振るう。
一人でダンジョンを進む。
巨大な魔物と戦う。
『パーティー募集……?』
『…………』
『時間合わせるの面倒だし、ソロでいいか』
知らない女性の声。
でも――自分の声。
メインストーリー。
隠しクエスト。
重要NPC。
裏ボス。
隠しマップ。
レアアイテム。
職業。
スキル。
膨大な情報が次々と頭の中へ流れ込んでくる。
そして最後に見えたのは――。
暗くなっていく視界。
遠ざかっていく意識。
自分自身の声。
『……あぁ。もっと……遊びたかったなぁ……』
シロネ:「――――っ!」
目を開く。
◆
ガタガタガタ――。
荷馬車。
薄暗い荷台。
倒れているレオ。
泣いているミア。
そして――こちらを見下ろしている盗賊。
盗賊:「……なんだ。もう起きたのか」
シロネ:「…………」
頭が痛い。
殴られた頬も痛い。
だけど、それどころじゃない。
シロネ:「…………九重……白音……」
盗賊:「あ?」
その名前を口にした瞬間、すべてがつながった。
私は――シロネ。
猫族のみんなに拾われ、お父さんとお母さんに育ててもらった。
五歳。
レオの妹で、ミアの姉。
それは間違いない。
でも――。
私は、九重 白音でもある。
日本で生まれた。
ゲームが好きだった。
一つのダイブ型VRMMOを、十年近く遊び続けた。
そして――死んだ。
シロネ:「…………」
理解が追いつかない。
どうして?
なんで?
私が九重 白音?
じゃあ、今までの五年間は?
ここはどこ?
なんで私は――。
盗賊:「おい」
シロネ:「…………」
盗賊:「聞いてんのか、クソガキ」
男の声で、思考が止まった。
シロネ:「……!」
目の前に大きな手が伸びてくる。
その瞬間、身体が反応した。
シロネは頭を下げる。
ブンッ!
男の手が頭上を通り過ぎる。
盗賊:「あ?」
シロネ:「…………え?」
自分でも驚いた。
でも、今の動きは知っている。
相手の肩。
肘。
視線。
重心。
そこを見れば、次に何をするのか予測できる。
何千回、何万回と繰り返した。
敵の動きを見て、覚えて、避ける。
アサシンとして、十年近く。
盗賊:「この……!」
シロネ:「……っ」
次の動きも分かる。
なのに――身体が遅い。
シロネ:(身体が……ついてこない)
当然だ。
今の自分は、ゲームの中で鍛え上げたアサシンじゃない。
五歳の子供だ。
盗賊:「チッ……」
男が苛立った顔をする。
シロネは床に座ったまま、男を見る。
怖い。身体も震えている。
なのに、頭の中だけは不思議なくらい冷静だった。
――まず、状況確認。
見張り一人。
腰に短剣。
体格差――まともに戦えば勝てない。
自分、レオ、ミア――全員拘束。
荷馬車は走行中。
御者がいる。
外の人数――不明。
現在地――不明。
目的地――不明。
シロネ:(情報が足りない)
だったら、集める。
シロネの視線が荷台を走る。
木箱。
布袋。
縄。
幌。
出口。
男との距離。
そして、男の腰にある短剣。
シロネ:(あれがあれば、縄を切れる)
でも、両手は後ろで縛られている。
正面から奪うのは無理。
シロネ:「…………」
そのとき。
自分の中に、奇妙な感覚があることに気づいた。
ずっとそこにあったはずなのに、今まで一度も意識したことがなかったもの。
でも、この感覚には覚えがある。
シロネ:「……《隠密》」
小さく呟く。
盗賊:「…………?」
男の視線がシロネから外れた。
シロネ:「……!」
目の前にいる。
姿も消えていない。
それなのに男の意識から、自分の存在だけが滑り落ちたような感覚。
シロネ:(《隠密》……?)
知っている。
ゲームで何度も使った。
でも――。
シロネ:(なんで、今の私が使えるの?)
分からない。
ここはゲームなのか?
この身体は何なのか?
疑問はいくらでもある。
レオ:「……シロネ……」
シロネ:「……!」
苦しそうな兄の声。
その横ではミアが泣いている。
シロネ:(後)
考えるのは、後でいい。
まず三人で逃げる。
シロネは《隠密》を維持しながら、縛られた両手を少しずつ動かす。
縄を確認する。
きつい。
力任せには抜けられない。
なら――必要なのは短剣。
シロネは男を見る。
短剣までの距離。
自分の身体。
男の視線。
一度で取る。
失敗すれば、また殴られる。
何度も試せる状況じゃない。
シロネ:(使える手札は……)
もう一つ。
頭の中に浮かんだ感覚。
《幻惑》。
何が起こるのか、完全には分からない。
でもゲーム時代なら――相手の認識を狂わせるために使っていた。
シロネ:(試すなら、ここ)
シロネ:「……《幻惑》」
その瞬間。
盗賊:「――あ?」
男が勢いよく荷台の外を見る。
盗賊:「なんだ!?」
何かに反応している。
何を見たのか。
何を聞いたのか。
シロネ自身にも分からない。
同時に――。
シロネ:「……っ」
身体の奥から、何かが抜けたような感覚。
ほんの少しだけ身体が重くなる。
シロネ:(今の……何?)
考えるのは後。
男の注意が逸れている。
今しかない。
シロネ:「――《俊足》」
ダッ――!
五歳の身体が一気に加速した。
シロネ:「っ!?」
速い。
予想以上。
身体がついてこない。
それでも男の横をすり抜け、腰の短剣へ手を伸ばす。
――取った。
シロネは勢いのまま男から離れる。
盗賊:「なっ――!?」
シロネ:「……っ!」
着地。
危うく転びそうになりながら踏ん張る。
盗賊:「てめぇ、何しやがった!」
シロネは答えない。
短剣を逆手に持ち、自分の背中側へ刃を回す。
見えない。
それでも慎重に刃を縄へ当てる。
ギッ。
ギッ。
縄がほつれる。
ブツッ。
両手が自由になる。
シロネ:「……よし」
盗賊:「このクソガキ!」
男が迫る。
シロネは反射的に《俊足》を使おうとする。
シロネ:「《俊――》」
――何も起こらない。
シロネ:「……え?」
一瞬の遅れ。
盗賊の手が迫る。
シロネ:(使えない!?)
シロネは咄嗟に身体を床へ投げ出した。
男の腕が頭上を通過する。
そのまま荷台を転がる。
シロネ:「いった……!」
前世なら簡単に避けられる攻撃。
でも今は、五歳の身体。
シロネ:(連続では使えない……?)
分からない。
でも、一つだけ確定。
シロネ:(乱発はできない)
なら――もう使わない。
使えない能力を計算に入れるな。
シロネは短剣を握ったまま、床に落ちていた縄を見る。
シロネ:(これでいい)
男が再び迫る。
シロネは逃げるように木箱の横へ回り込む。
盗賊:「待ちやがれ!」
男が追う。
シロネ:「…………」
シロネは床の縄を足で引いた。
ガッ!
盗賊:「うおっ!?」
男の足に縄が絡む。
バランスを崩した巨体が、木箱へ突っ込んだ。
ドガッ!
盗賊:「ぐっ……!」
シロネは戦わない。
すぐレオのもとへ走る。
シロネ:「お兄ちゃん」
レオ:「……シロネ?」
シロネ:「動かないで」
短剣で縄を切る。
レオ:「お、お前……今の……」
シロネ:「話は後」
続いてミア。
ミア:「お、おねえちゃん……」
シロネ:「大丈夫。すぐ切るから」
ブツッ。
ミアの縄も落ちる。
シロネ:「立てる?」
ミア:「……うん」
シロネ:「お兄ちゃんは?」
レオ:「あ、ああ……」
腹を押さえながらレオが立つ。
レオ:「シロネ、お前どうやって……」
シロネ:「逃げるよ」
レオ:「え?」
シロネ:「三人で帰る」
レオ:「でも、外にもあいつらの仲間がいるぞ!」
シロネ:「うん。たぶんいる」
レオ:「だったら――」
シロネ:「だから、見つからないように逃げる」
レオ:「…………は?」
レオが呆然とシロネを見る。
さっきまで一緒に怯えていた五歳の妹。
なのに、今はまるで別人のように状況を見ている。
シロネ:「…………」
シロネは自分の身体を確認する。
《俊足》は今すぐ使えなかった。
《幻惑》を使った直後には、身体の内側から何かが減った感覚があった。
《隠密》だって、どこまで通用するのか分からない。
何も分からない。
だから――。
シロネ:(分からないものを、適当に使うのはやめよう)
残っているものだけで考える。
短剣。
縄。
荷台。
相手は一人。
レオは負傷。
ミアは三歳。
真正面から戦う必要はない。
勝つ必要すらない。
三人で逃げれば、それでいい。
背後。
盗賊が木箱を押し退ける。
盗賊:「クソガキども……!」
レオ:「シロネ!」
シロネ:「二人とも、私から離れないで」
ミア:「おねえちゃん……?」
シロネ:「大丈夫」
シロネは盗賊から奪った短剣を握り直す。
前世の記憶が戻ってから、まだほんのわずかな時間しか経っていない。
ここがどこなのかも分からない。
なぜ自分が生きているのかも。
なぜスキルが使えるのかも。
何一つ分からない。
でも。
分からないなら、調べればいい。
敵がいるなら、弱点を探せばいい。
使えるものが限られているなら――その中で一番いい方法を考える。
それは十年近く、何度も繰り返してきたことだった。
盗賊:「逃げられると思ってんのか!」
シロネ:「…………」
シロネは荷馬車の出口を見る。
その先に何人いるかは分からない。
道も知らない。
自分の能力すら分からない。
攻略情報は――何もない。
それでも。
シロネ:「お兄ちゃん、ミア」
レオ:「……う、うん」
ミア:「うん……!」
シロネ:「帰ろう」
二人を背に、シロネが荷馬車の出口へ向き直る。
ゲームなら、何度でもやり直せた。
失敗したら原因を調べて、もう一度挑戦すればよかった。
でも今は違う。
失敗すれば――家族が傷つく。
だから。
シロネ:(一回で成功させる)
五歳の少女シロネと、
ゲームを十年近く遊び尽くした九重 白音。
二つの記憶が重なった、その日。
攻略情報の存在しない――
**シロネの第二の人生が始まった。**
第1話 終
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