第8話 東の井戸
翌朝。
アルヴァンは、村長の家で目を覚ました。
夜の間、何度か外から鐘の音が聞こえた。村の見張りが、定期的に周囲を確認しているのだという。
魔物がいる世界では、それも村の日常だった。
身支度を整えて外へ出ると、ガルドがすでに待っていた。
「おはようございます」
「ああ」
少し離れたところでは、セレネが馬の準備をしている。
声を掛けると、セレネが振り返った。
「昨日の魔石交換で予定がずれてしまいましたから。今日はベルク村へ向かいます」
セレネはもともと、ラーデ村だけを担当しているわけではない。
ベルク村、ノート村、山側の小さな集落。
それらを順番に巡回し、治療を行っている。
今回の魔石交換で、すでに予定はかなりずれている。
「魔石の交換まで付き合わせて悪かった」
「お気になさらず。これも仕事ですから」
「そうか」
アルヴァンは頷いた。
「またラーデ村に来ることがあれば、そのときは頼む」
セレネは軽く頭を下げる。
「では、私はこれで」
「ああ」
短いやり取りを終え、セレネは馬に乗ると、そのまま村の外へ向かっていった。
治癒術師には治癒術師の仕事がある。自分の都合で、いつまでもこの村に留めておくわけにはいかない。
アルヴァンはその背中を少しだけ見送った。
「では、私たちも」
ガルドが言った。
「ああ」
村長も加わり、三人で東へ向かう。
*
東の井戸までは、以前、セレネが浄水術式を確認した際に一度訪れていた。だから道はわかる。
ただ、前回とは違う目で周囲を見ながら歩いた。
中央部を離れるにつれて、家が少なくなっていく。
代わりに畑が増える。
ところどころに家があり、その周囲には薪や農具が置かれていた。
「この辺りは、昔からこの形なのか?」
アルヴァンが尋ねる。
「東側には昔から何軒か家がありまして。人が増えるにつれて、使い勝手の良い今の中心部へ家が増えていった形です」
「畑の水は井戸から?」
「井戸の水は飲み水や生活用です。畑には川から引いた方が楽ですから」
それなら都合がいい。
東の井戸は農業用水ではない。純粋に生活用水として使われている。
だからこそ、村へ引く意味がある。
東の井戸は中央井戸より規模は小さい。
だが、周囲は比較的乾いている。
人が集まる場所でもないため、地面も荒れていない。
桶を下ろす。
しばらくして引き上げられた水は、透明だった。
アルヴァンも確認する。
「問題なさそうだな」
「はい」
アルヴァンは井戸を見た。
水そのものに問題はない。魔石にもまだ余裕がある。
そして、この水はすでに人間が利用している。
新しい水源を探す必要はない。
「これなら村の水として使えるな」
*
帰り道は、行きよりも時間がかかった。
アルヴァンが何度も足を止めたからだ。
「ここは畑だな」
「はい」
「水路を通すなら、避ける必要がある」
「その場合、畑の端を回すことになります」
村長が答える。
少し先には、人が使う道が横切っている。
「ここはどうする?」
「水路を跨がせるか、下を通すかでしょうか」
ガルドが答える。
「どちらにしても工事が必要です」
「なるほど」
さらに進む。
今度は家がある。
「ここも避ける」
「そうなります」
アルヴァンは周囲を見渡した。
地図の上なら一本の線を引くだけで済む。実際の土地では、その線の上に人が暮らしている。
畑がある。道がある。家がある。
それぞれに意味がある。
「ここから少し下っています」
ガルドが言った。
アルヴァンも足元を見る。
確かに、東の井戸から来た道は緩やかに下っている。
しかし、少し先では地面がまた上がっていた。
「この高低差が問題になるな」
「水路なら、特に」
「そうだな」
アルヴァンはしゃがみ込み、土を手に取った。
乾いた場所と湿った場所で、土の感触が違う。
「地盤も調べる必要がある」
「測量も必要でしょう」
ガルドが言った。
「水路の位置を決めるなら、正確な高低差が分からなければなりません」
「ああ」
まだ水路を作れるとは決まっていない。
ただ、作るなら調べなければならないことが見えてきた。
「それに、人手も必要になります」
ガルドが続けた。
「掘るだけでも相当な作業でしょう」
「村人に頼むことは?」
「農作業があります」
村長が答えた。
「冬なら多少は余裕がありますが、それでも家畜の世話や薪集めがあります」
「そうか」
「長期間、大勢を工事に回すのは難しいでしょう」
アルヴァンは黙った。
水路を作る。
言葉にすれば簡単だ。だが、そのためには人が必要になる。
人を使えば、その分だけ別の仕事が止まる。
金を出せば人を雇える。だが、その金も必要だ。
ラーデ村が裕福でないことは知っている。
レイス領だって、何でも自由に使えるほど豊かなわけではない。
「費用も見ないとな」
「はい」
ガルドが頷く。
「どの程度の工事になるか分からなければ、こちらも判断できません」
「なら、まず調べよう」
アルヴァンは東の方を振り返った。
『水が本当に自然に流れるのか』
それが分からなければ、何も始まらない。
*
村の中心部へ戻ると、人々がいつものように生活していた。
中央井戸から水を汲む者。家畜の世話をする者。薪を運ぶ者。
それぞれが、自分の仕事をしている。
アルヴァンは中央井戸を見る。
新しい魔石が入った浄水設備は、今は正常に動いている。
だから、この井戸を捨てる必要はない。
周囲の排水を整える。家畜との距離を考える。便所の位置を見直す。飲み水と生活用水の扱いを分ける。
その上で、東の井戸から水を引けるなら、飲み水の一部をそちらへ移す。
どちらか一つにする必要はない。
「中央の井戸は残す」
アルヴァンが言った。
村長が振り返る。
「はい」
「できるなら、東の井戸の水も引く」
まだ計画ではない。ただの可能性だ。
けれど、昨日までとは違う。
安全な水は、すでにある。
問題は、それをどう村の暮らしへ組み込むかだった。
アルヴァンはもう一度、東の井戸の方を見る。
水路を作れるかどうか。その答えは、まだ出ていない。
まずは土地を知らなければならない。
そして、その次に。
金と人をどうするかを考える。
水を引く。
その一言の裏側に、思っていた以上に多くの問題があることを、アルヴァンは少しずつ理解し始めていた。




