第7話 「正しいこと」ではなく「できること」 二
「水桶も分けたい」
村人のひとりが怪訝な顔をする。
「水桶を?」
「飲み水を汲むものと、家畜に使うものを同じにしない」
「それなら、今ある桶を分ければいいでしょうか」
「ああ。ただし、飲み水用の桶は清潔にしておく」
「分かりました」
「それから、手洗いも」
村人たちが顔を見合わせた。
「手洗い、ですか?」
「食事の前。それから、便所を使った後。できる範囲でいい」
アルヴァンは言葉を選んだ。
「いきなり全部を変えようとは思っていない。続けられなければ意味がないからな」
村長が頷いた。
「飲み水については、もう一つある」
「何でしょう?」
「煮沸してほしい」
村人の一人が目を丸くした。
「水を、ですか?」
「ああ」
「東の井戸の水も?」
「安全な水なら、必ずしも必要とは限らない。主に中央の井戸から汲む水だ」
アルヴァンは少し考えてから続ける。
「特に子供や病人には優先してほしい。それ以外も、できる範囲で」
「今は冬ですから、火を使うこと自体は問題ありません」
別の村人が言った。
「暖を取りますし、煮炊きもします。そのついでに水を沸かすことはできます」
「そうか」
アルヴァンは頷いた。
「ただ……」
「何だ?」
「ずっと続けるとなると、薪が問題になります」
アルヴァンが黙る。
「冬は火を使います。でも、夏も毎日となれば話は違います」
「薪の量が足りない?」
「はい」
「どれくらい必要になる?」
「村全体の水を毎日となると、今すぐには分かりません。ただ、かなり増えるでしょう」
ガルドが横から口を挟んだ。
「薪は暖房と調理にも使います。余分に使えば、別のところにしわ寄せが出ます」
「なるほど」
アルヴァンは考えた。
煮沸は有効だ。だが、何でもかんでも火にかければいいわけではない。
冬だからこそできる。
しかし、一年中それに頼ることはできない。
「では、まず今のうちにできるところから始めよう」
「はい」
「それと、沸かした水を入れる容器も綺麗にしておくように」
「容器も?」
「ああ」
アルヴァンは頷いた。
「せっかく水を沸かしても、汚れた桶に戻したら意味がない」
「……なるほど」
村長が水桶を見る。
「水そのものだけではなく、扱い方も変える必要があるのですね」
「そういうことだ」
アルヴァンは答えた。
だが、頭の中では別のことを考えていた。
排水。家畜。便所。水桶。手洗い。煮沸。薪。
どれか一つだけなら対処できる。だが、実際には全部がつながっている。そして、それぞれに別の制約がある。
家畜を移せば魔物から守れなくなる。
便所を遠くへ置けば夜の利用が不便になる。
水を煮れば薪が必要になる。
煮沸した水も、汚れた容器に入れれば意味がない。
正しいことを並べるだけでは、村では続かない。
「……簡単じゃないな」
アルヴァンが呟いた。
「何か?」
「いや」
首を振る。
「少し整理したい」
アルヴァンは中央井戸から離れた。
村の東側を見る。その先には、もう一つ井戸がある。
東の井戸。
以前、中央の水に不安があったとき、子供や病人にはそちらの水を使わせるよう指示した。
あの井戸の水は問題ない。だが、村人全員が使うには遠すぎる。
「東の井戸は、今も使っているか?」
村長に尋ねた。
「はい。以前おっしゃった通り、子供や病人にはできるだけあちらの水を運んでいます」
「村全体では?」
「それは……難しいです」
「やはり遠いか」
「水は重いですから」
村長が苦笑する。
「毎日、村中の水をあちらから運ぶとなると、それだけでかなりの仕事になります」
安全な水は、すでにある。
問題は、それを村人が使いやすい場所まで持ってこられないことだ。
東の井戸から桶を持って歩く。子供や病人のためなら、それでも何とかなる。
だが、村全体となれば話は違う。
毎日、大量の水を人間が運ぶ。それは現実的ではない。
ならば。
「……人が運ばなくてもいいようにすればいい」
「え?」
村長が聞き返す。
アルヴァンは地面を見た。
「水を運ぶのではなく、水の方を動かす」
「水を?」
「ああ」
少し考える。
「東の井戸から、ここまで水を引けないか?」
村長が目を瞬いた。
「水を、引く……」
ガルドが眉を上げる。
「水路を作るおつもりですか?」
「まだ決めていない」
アルヴァンは首を振った。
「作れるかどうかも分からない。だから、まず見に行く」
東の井戸までの距離。土地の高さ。水量。途中にある畑や道。柵。家。
調べなければならないことはいくらでもある。
「村長。明日、東の井戸まで案内してくれ」
「承知しました」
アルヴァンはもう一度、中央井戸を見る。
この井戸を捨てる必要はない。
浄水の魔石は新しくなった。なら、今のうちに周囲を改善する。
汚染を減らし、使い方を分ける。その上で、もっと安全な水を使いやすくできるなら、そうする。
「中央の井戸も使う。井戸の周りもできるところから変える」
アルヴァンは村長に言った。
「ただし、飲み水だけに頼らなくていいようにする」
「家畜用などに、ということでしょうか?」
「ああ。洗浄や清掃も含めて、用途を分ける」
「分かりました」
アルヴァンは指を折った。
「排水を整える。家畜の場所を見直す。便所も考える。水桶を分ける。手洗いを習慣にする。そして、冬の間は、煮沸もできる範囲で続ける」
村長が口を開いた。
「アルヴァン様、本当に、そこまで必要でしょうか?」
アルヴァンは中央井戸を見る。
新しい魔石が入った浄水設備は、今は正常に動いている。
水は浄化されている。
それでも、この村では毎年同じような病気が繰り返されている。
「必要かどうかは、まだ分からない」
アルヴァンは答えた。
「だから試す」
「試す……」
「今までと違う方法で暮らして、それで病気が減るのかを見る」
村長は黙っている。
「もし変わらなければ、別の原因を考える」
「もし、減れば?」
「続ければいい」
単純な話だった。
だが、実際にやるとなれば簡単ではない。
アルヴァンもそれは分かっている。
「まず、できるところから始めよう」
そう言って、アルヴァンは中央井戸の周囲を見渡した。
全部を一度に解決するわけではない。できることから、一つずつ。それでいい。
*
アルヴァンは村を振り返る。
中央に井戸がある。
その周りに人の暮らしがある。
家畜もいる。
柵の外には、魔物のいる世界が広がっている。
衛生だけを見れば、変えるべき場所はいくつもある。だが、この村の暮らしには、それぞれ理由がある。
家畜を村の中へ入れるのも。
便所を家の近くに置くのも。
中央の井戸を使い続けるのも。
どれも、ただ無知だから続いているわけではない。
アルヴァンはそれを、今日初めて実感した。
「……全く、簡単じゃないな」
誰に言うでもなく呟く。
けれど、それでいい。
簡単に答えが出る問題なら、何年も村人を苦しめてはいない。
明日は、東の井戸を見る。
そこから先は、その結果次第だ。最初から答えを決める必要はない。
変えて、見て、確かめる。
それで問題が残るなら、次の手を考える。
村を守る。水も守る。
どちらか一つを選ぶのではなく、その両方を成り立たせる。
それができる方法を探す。
ラーデ村での最初の改革は、そこから始まる。




