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営みの地平、人々の岸辺 〜ひとつの井戸から広がる物語〜  作者: 一個二個三個
第一章 ラーデ村

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第5話 井戸の周り

 教会から戻り、領主館の執務室でアルヴァンは一人、机に向かっていた。

 机の上には、ラーデ村から持ち帰った記録が広げられている。


 村の人口。

 出生数。

 死亡数。

 病気の記録。

 昨年の収穫量。

 そして、村人達から聞き取った内容をまとめた簡単な書き付け。


 どれも、単独で見れば大したものではない。

 だが、並べてみると気になる部分がいくつかあった。


 アルヴァンは一年分の記録を指で追った。


 夏。腹下しが増える。

 秋。減少する。

 冬。今度は熱を出す子供が増える。

 翌年も似たような傾向。

 さらに前の年も。


「……毎年か」


 偶然ではない。少なくとも、そう考えた方が筋が通る。


 問題は、その原因だった。

 井戸の魔石は交換する。浄水術式も正常になるだろう。

 それだけで全てが解決するなら、それで終わる。だが、そうとは限らない。

 昨年の症状。季節ごとの偏り。雨の多い時期。そして、ラーデ村の生活環境。


 アルヴァンは椅子から立ち上がった。壁際の地図へ向かう。

 ラーデ村の位置を見る。


 村の近くを川が流れている。

 上流には魔物の生息域。

 そこから水が流れてくる。

 井戸から水を汲む。

 川の水を使うこともある。

 雨が降る。

 地面が濡れる。

 家畜のいる場所から水が流れる。

 村の中には、人間の排泄物を処理する設備らしい設備もない。


 それでも。

 井戸には浄水術式がある。


 アルヴァンはそこで思考を止めた。


「……違うな」


 浄水することと、水を汚さないことは別だ。

 どれだけ水を浄化しても、その後に汚染された容器へ移せば意味がない。

 安全な水を作ることと、安全な生活環境を作ることは同じではない。


 アルヴァンは机へ戻った。

 紙を一枚取り出す。

 その中央に、ラーデ村と書いた。

 その下に、思いつくまま書き出していく。


 水源。

 排水。

 家畜。

 便所。

 飲み水。

 調理。

 手洗い。


 そして最後に、

 病気。


 アルヴァンはそれぞれを線でつないだ。


 水源が汚れる。

 ↓

 汚れた水を使う。

 ↓

 病気になる。


 それだけではない。


 家畜の排泄物。

 生活排水。

 手についた汚れ。

 汚れた桶。

 調理。

 食事。

 いくつもの経路がある。


「……試してみるか」


 その声に、扉の外から返事があった。


「何をでしょう?」


 ガルドが入室する。

 机の上を見て、少しだけ眉を上げた。


「ラーデ村の記録ですか」

「ああ」

「何か問題が?」

「問題はある」


 アルヴァンは紙を見せた。


「この村では、毎年似たような病気が出ている」

「はい」

「特に夏の終わりに腹を壊す子供が増える」

「そう記録されています」

「浄水魔石を交換すれば、水の浄化能力は戻る。それでも、今のままでは来年また同じことが起きる」


 ガルドは黙って聞いている。


「だから、水そのものだけじゃなく、その周りを変えてみたい」

「どのように?」


 アルヴァンは紙を指差した。


「井戸の周囲を乾いた状態にする」

「……排水ですか」

「そうだ。家畜小屋は離せるか?」

「村長に相談は必要でしょう」

「便所も井戸から離す」


 ガルドは少し考えた。


「他には?」

「飲み水を汲む桶と、家畜用の桶を分ける」

「なるほど」

「食事前には手を洗う」


 そこでガルドが僅かに首を傾げた。


「手を、ですか?」

「ああ」

「それは……病気と関係が?」


 アルヴァンは一瞬だけ黙った。

 この世界では、手を洗うことに病気との関係を感じないのだろう。


「まだ分からない」


 そう答えた。


「でも、やってみる価値はある」


 ガルドはしばらく紙を眺めていた。


「かなり生活を変えることになりますね」

「だから、一度に全部やるつもりはない」

「では?」

「まず井戸の周りからだ」


 アルヴァンは指を折る。


「排水を作る」

「はい」

「家畜を離す」

「はい」

「便所の位置を変える」

「……分かりました」

「飲み水は、できるだけ煮沸する」


 ガルドが目を上げた。


「煮沸ですか?」

「ああ」

「川の水は煮なければ飲んではいけないという話とは別でしょうか」

「同じだ」


 アルヴァンは頷いた。


「できる範囲で、飲み水そのものを扱う方法を変える」

「それを村に?」

「そうする」


 ガルドはしばらく黙っていた。


「アルヴァン様」

「何だ?」

「治癒術師がいるのに、そこまで必要でしょうか」


 その問いに、アルヴァンは答えを急がなかった。


「治癒術師は、病気になった人を助けてくれる」

「はい」

「だったら、それとは別に、病気になる人を減らせるなら減らしたい」


 ガルドは完全には納得していない顔だった。

 だが、それ以上は言わなかった。


「ラーデ村へは、いつ?」

「明日」

「承知しました」


 ガルドが部屋を出ていく。


 紙の上には、いくつもの言葉が並んでいる。

 どれも、特別な技術ではない。

 大規模な魔法でもない。

 高価な魔導具でもない。


 ただ、水を汚さない。

 汚れたものを水源から遠ざける。

 そして、汚れを別の人間へ運ばない。

 それだけだ。


 これで本当に病気が減るのか、アルヴァンにもまだ分からない。

 だからこそ、確かめる。


     *


 翌朝。

 ラーデ村へ向かう馬車の中で、アルヴァンはセレネに昨夜まとめた内容を話した。


「井戸の周囲を変える、ですか?」

「ああ」

「浄水術式は正常に作動しています」

「分かってる」

「それなのに何故?」

「それでもだ。君もあの井戸の周りの家畜小屋を見て気づかなかったかい?どれだけ浄化しても、すぐに汚染されてしまう環境を」


 アルヴァンは窓の外を見る。


「水を浄化する術式があるなら、その術式が楽になるようにしてやればいい」


 セレネが少し黙る。


「……術式が楽になる?」

「汚れてから浄化するより、最初から汚れない方がいいだろう」


 セレネはしばらく考えていた。


「確かに」

「だろ?」

「ただ、村の人たちが納得するでしょうか」

「そこが問題だな」


 アルヴァンは苦笑した。

 井戸を移す、便所を移す、家畜を離す、毎日水を煮る、手を洗う。

 村人にとっては、今までやらなくても生きてこられたことばかりだ。突然、領主に言われても簡単には受け入れないだろう。

 そのときは。実際に変化を見せるしかない。


 アルヴァンは窓の外へ目を向けた。

 雪の向こうに、ラーデ村へ続く道が伸びている。


 初めて。


 村そのものを変えるために向かう。

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