第2話 井戸の水
翌朝、アルヴァンは日の出より少し早く目を覚ました。窓の外はまだ薄暗い。
雪は昨夜より弱くなっていたが、屋根や街路には白い跡が残っていた。
身支度を整えて執務室へ向かうと、すでにガルドが待っていた。
「お早いですな」
「出るぞ」
「ラーデ村ですね」
「ああ」
ガルドは小さく息を吐いた。
「朝食は?」
「馬車の中でいい」
「かしこまりました」
昨日と同じ馬車に乗り込む。
今度はアルヴァン一人ではなかった。
「紹介しておきましょう。セレネ・アーデル。教会所属の治癒術師です」
ガルドが、隣に座っていた女を示した。
「よろしくお願いいたします、アルヴァン様」
女は軽く頭を下げた。
二十代半ばほど。淡い金髪を後ろでまとめ、白を基調とした簡素な法衣を着ている。首には教会の紋章を刻んだ銀の徽章。
「ラーデ村を担当しているのか?」
「はい。正確には、周辺の四つの村を巡回しています」
「四つ?」
「ラーデ村、ベルク村、ノート村、それから山側の小集落です」
アルヴァンは少し驚いた。
「一人で?大変じゃないのか?」
「慣れています」
セレネは淡々と答えた。
「それに、毎日病人が出るわけではありませんから」
「……そうか」
馬車が動き始める。
アルヴァンは窓の外を見ながら、昨日の帳簿を思い出していた。
死亡者数。熱病。腹下し。冬季の衰弱。
数字だけでは何も分からない。ならば、現場を見るしかない。
「セレネ」
「はい」
「ラーデ村で、去年一番多かった病気は何だった?」
「腹下しです」
即答だった。
「何人くらい?」
「正確には覚えていません。子供たちはよくお腹を壊していますから。ただ、夏の終わりから秋口にかけて、かなり増えました」
「子供が多い?」
「はい」
「大人は?」
「大人も罹ります。ただ、子供やお年寄りの方が重症化しやすいです」
アルヴァンは頷いた。
「そうか」
*
ラーデ村に着くと、昨日と同じ村長が出迎えた。
「これはアルヴァン様。本日もお越しとは」
「少し聞きたいことがある」
「何なりと」
アルヴァンは直截に質問する。
「村の水はどうしている?」
「水、ですか?」
村長は怪訝そうな顔をした。
「村の人間はどこから水を飲んでいる?」
「井戸ですが」
「全員?」
「ほとんどの者は」
「他には?」
「川の水を使う家もあります。家畜には井戸水も川の水を与えることもあります」
昨日の地図が頭に浮かんだ。
「井戸の数は?」
「二つです」
「どちらも浄化魔法をかけています」
そこでセレネが答えた。
「浄化魔法?」
聞き覚えのないものだった。
「はい。私が毎月、術式を確認しています」
「その魔法は、何をしているのだ?」
「水に含まれる不浄を取り除きます」
「不浄って?」
「……不浄は不浄です」
「具体的には?」
セレネが少し困った顔をする。
「水を濁らせるものや、身体に害を及ぼすものを」
「それなら、病気の原因になるものも取り除ける?」
「……すべてではありません」
その答えに、アルヴァンは少しだけ目を細めた。
「すべてではない?」
「治癒魔術もそうですが、魔法は万能ではありません」
セレネは淡々と続ける。
「術者の力量にもよりますし、魔石の質にも左右されます。それに、水そのものが汚れ続けていれば、一度浄化したところで意味がありません」
「……なるほど」
魔法がある。しかし、魔法も万能ではない。
アルヴァンはそれを頭の片隅に置いた。
「井戸を見せてくれ」
村長は怪訝そうな顔をした。
「井戸ですか?」
「ああ」
「もちろん構いませんが……」
村の中央に近い場所に、石積みの井戸があった。
周囲は踏み固められた土。屋根はない。井戸のすぐ横には、木桶がいくつか置かれている。
アルヴァンはしゃがみ込んだ。
水面を覗く。
濁ってはいない。臭いもない。
「綺麗に見えるな」
「はい。私もそう思います」
セレネが答える。
「術式も正常です」
「触ってもいいか?」
「どうぞ」
アルヴァンは手を水につけた。
冷たい。それだけだった。
前世なら、水質検査をするところだ。だが今は何もない。
試験紙もない。顕微鏡もない。
だから、別の方法を考える。
「この井戸を使っている家を教えてくれ」
「ほとんど全戸ですが、ここより東側にももう一つあります。使い勝手は悪いですが……」
「その中で、去年病気になった家は?」
村長が黙った。
「……何軒かございます」
「全部覚えているか?」
「正確には」
「なら、案内してくれ」
村長は少し戸惑ったが、頷いた。
「分かりました」
*
一軒目。
夫婦と三人の子供が暮らしていた。
長男は去年、腹を下して三日寝込んだ。
二軒目。
老人が一人。
去年は何ともなかった。
三軒目。
子供が二人。
下の子が熱を出し、数日間食事が取れなかった。
四軒目。
去年、生まれたばかりの子供を亡くしていた。
アルヴァンは一軒ずつ話を聞いた。
いつ病気になったか。何を食べていたか。どの水を使っていたか。家畜はいたか。他の家族はどうだったか。
最初は、村人たちも不思議そうにしていた。
だが、次第に慣れてくる。
「去年の秋なら、隣の家もだった」
「うちは夏だ」
「うちの子は冬だったな」
話が少しずつ繋がっていく。
アルヴァンは地面に枝で簡単な地図を描いた。
家を丸で囲む。
病気になった家には印をつける。
印が増えていく。
「……偏ってるな」
アルヴァンが呟いた。
「何がです?」
セレネが隣から覗き込む。
「病気になった家だ」
村の西側に印が集中している。だが、それだけではない。
東側にも数軒ある。ただし、こちらには共通点がある。
「この家と、この家」
アルヴァンが指を差した。
「どちらも東側の井戸を使っている?」
村長が頷く。
アルヴァンは考えた。
井戸が原因なのか。それとも、別の何かがあるのか。
「家畜は?」
村長が首を傾げる。
「家畜ですか?」
「病気になった家では、家畜を飼っていたか?」
「家ごとに飼っている所もあれば、共同で飼育している家もございます」
村長が周囲を見回した。
アルヴァンも立ち上がる。
「見せてくれ」
*
村の中央の井戸から少し離れた場所に、家畜小屋が並んでいた。
鶏、豚、山羊。村人にとっては普通の光景だった。
だが、アルヴァンは小屋の裏側を見て足を止めた。
排泄物が積み上げられている。そこから水が流れた跡がある。
そして、その先。
「……井戸はどっちだ?」
村長が指を差す。
「あちらです」
アルヴァンは黙って歩いた。
家畜小屋。排水の跡。井戸。
距離は、思っていたより近い。
雨が降ればどうなる。雪が溶ければ。地面に染み込んだものは。
「セレネ」
「はい」
「浄化魔法は、地下まで届くのか?」
「一定の範囲なら」
「この辺り全部?」
「いいえ。井戸の水そのものに術式をかけています」
アルヴァンは井戸を見る。
そして家畜小屋を見る。
「なら、これを直さない限り、水が汚れる可能性があるか……」
「でも、今まで問題が起きているとは」
「起きてる」
アルヴァンは村長を見る。
「去年、腹を下した子供が何人いた?」
「……」
「思い出してくれ」
村長はしばらく考えた。
「十人……いや、もっとです」
「死んだ子供は?」
「五人、だったかと」
「その五人は、どの辺りに住んでいた?」
村長が答えようとして、言葉を失った。
視線が、村の西側へ向く。そこには、先程話を聞いた家がある。
アルヴァンがゆっくり息を吐いた。
まだ確定ではない。だが、少なくとも偶然では済ませられなくなってきた。
「この井戸を使わないでくれ」
「え?」
「今日からだ」
村長が目を丸くする。
「お、お待ちください!水が使えなければ村が立ち行きません」
「今はもう一つの井戸を使ってくれ」
「しかし……距離も遠く、かなりの重労働となります」
村長はまだ納得していない顔をしている。
当然だ。昨日まで普通に使っていた井戸を、突然止めろと言われたのだから。
アルヴァンは少し考えた。
村人全員が安全に飲める量の水を毎日運ぶのが難しいなら。
「わかった。まず、子供と病人の飲み水だけでいい」
セレネが口を挟む。
「それだけで効果があるのでしょうか」
「分からない」
アルヴァンは正直に答えた。
「だから試す」
セレネは少し黙ってから、頷いた。
「セレネ」
「はい」
「今日、村の子供を診てくれ」
「もちろんです」
「特に去年病気になった家を優先して」
「分かりました」
アルヴァンはもう一度、井戸を見た。
澄んだ水だった。何も問題がないように見える。
だからこそ、怖い。
目に見えないものほど、人間は気づけない。
前世で、何度も見てきた。
「水が悪いと決めつけるのはまだ早い」
アルヴァンは自分に言い聞かせるように呟いた。
「でも、調べる価値はある」




