第26話 山際の異変
ローディンが領主館を出たのは、その日の午後だった。
正式に依頼を受けてから支度を整えると、もう昼を過ぎていた。
目的地までは、それなりに距離がある。
明日の朝から現地を見て回るつもりなら、今日のうちにできるだけ近くまで進んでおかなければならなかった。
「今夜は適当なところで野営するか」
街道を進みながら、ローディンはそう決めた。
野宿そのものは珍しくない。魔物が出る地域で夜を明かすことも、冒険者なら仕事のうちだ。
それに、ローディンには自信があった。
自分から魔物に近づかなければ、そう簡単に見つかるものではない。気配を隠すことにも、危険を察することにも慣れている。
まして今回は討伐が目的ではない。
明日の朝から動ける場所まで進み、夜を明かす。それだけで十分だった。
*
日が傾き始めた頃、ローディンは街道から少し外れた林の中に入った。
見通しが利かず、かといって深く入りすぎない場所。魔物から身を隠すには悪くない。火も小さくした。
夕食を済ませ、装備を手元に置いてから、周囲を一度見回す。
いつもの野営と変わらない。
……そう思った。
最初に気づいたのは、音だった。
夜の山際なら、何かしらの気配がある。
獣の動く音。虫の鳴く声。遠くで魔物が鳴くこともある。
だが、今夜は妙に落ち着かない。
静かなわけではない。むしろ逆だった。
遠くで枝が折れる。一度だけではない。
少し離れた場所でも、何かが草を踏む音がする。
ローディンは食事の手を止めた。
「……多いな」
耳を澄ます。
気配が一つではない。それも、同じ方向からだけではなかった。山側。林の奥。さらに反対側。いくつもの場所から、何かが動いている。
ローディンは火を消し、ゆっくり立ち上がった。
まだあちらには気づかれていない。それは分かる。
だが――
「明日、ちゃんと見たほうがよさそうだな」
ローディンは暗い山の向こうへ目を向けた。
ここは、何かがおかしい。
目的地は、ベルク村の東に位置する集落の北側。街道から山へ入る手前の一帯。
病気について調べるのは自分の仕事ではない。それよりも、今見るべきものがある。
魔物だ。
魔物が、どれほど増えているのか。どの程度まで人の暮らしに近づいているのか。
そして――冒険者だけで抑えられる規模なのか。
領軍投入前の最後の確認だった。
*
集落へ近づく前から、いくつかの痕跡が見つかった。
畑の外れ。道の脇。家畜を繋いでいた柵。
足跡が残っている。一つではない。大きさの違うものが、いくつもあった。
ローディンはしゃがみ込み、土を指先で確かめる。
「……新しいな」
昨日、今日についたものもある。
さらに少し進む。
今度は柵が壊されていた。
木が数本、根元から折れている。
周囲には家畜の毛が散っていた。
魔物が一度現れたという程度ではない。何度も来ている。
しかも――近い。
ローディンは顔を上げ、集落を見た。
住居のすぐそばまで、魔物の痕跡が続いている。
見れば分かる。
危険になっている。
ローディンは集落へ入らなかった。
道を外れ、少し高い場所へ回る。建物の陰から集落の周囲を見渡した。
人影は少ない。病気が広がっているせいか、外へ出る者もほとんどいない。咳の音が、風に混じってかすかに聞こえてきそうだ。
ローディンは眉を寄せる。
これ以上近づく意味はない。
病気について確認したところで、自分に判断できることではない。
今必要なのは、戻って報告することだ。
だが、その前にもう一つ確認しておきたい。
魔物が、どこから来ているのか。
*
集落の北側。
山へ向かう斜面を少し上る。
ローディンは木々の間を進みながら、何度も足を止めた。
痕跡が増えている。足跡。爪痕。荒らされた草地。どれも一種類ではなかった。
さらに進むと、低木が広い範囲で押し倒されている場所があった。
「……ここまでか」
ローディンは周囲を見回す。
気配がある。遠くではない。
魔物だ。一匹や二匹ではない。数は正確には分からない。だが、複数がこの近辺を動いている。
ローディンは身を低くした。
少し待つ。
木々の向こうから、一体が姿を現した。続いて、別の影。さらに、その奥にも気配がある。
ローディンは息を殺して様子を見る。
無理に戦う必要はない。
相手の数が分からない以上、ここで騒ぐ意味はなかった。
魔物たちは人間の気配に気づいた様子もなく、山を下る方向へ進んでいく。
その先にあるのは――集落だ。
ローディンの目が細くなった。
「……まずいな」
魔物は山の中に留まっていない。
人のいる場所へ向かっている。
*
ローディンは深追いしなかった。少し距離を取って、別の斜面へ回る。
そこでも痕跡が見つかった。こちらからも下へ向かっている。
別の場所でも同じだった。
魔物が一つの群れになっているわけではない。複数の魔物が広い範囲に存在し、それぞれが山から人の生活圏へ下りている。
しかも、その数が多い。
以前なら山側でしか見なかったはずのものまで、低いところに出ている。
ローディンは地形を頭の中で組み立てた。
この範囲だけではない。
集落の南側でも痕跡があった。
街道へ向かう道にもある。
つまり――
「ここだけって話じゃないな」
ローディンは呟いた。
この一帯そのものが、魔物の活動範囲になっている。それも、以前より明らかに広い。
*
その日の夜。
ローディンは領主館へ戻った。
疲れは見える。だが足取りに乱れはなかった。
執務室にはアルヴァンとエリオット、それにガルドがいた。
「戻ったか」
アルヴァンが顔を上げる。
「ええ」
ローディンは持ってきた簡単な記録を机へ置いた。
「まず、あの辺りの魔物は間違いなく増えています」
アルヴァンの目が記録へ落ちる。
「数が?」
「数もです。それと、出てくる場所がかなり低い」
「生活圏の近くまで?」
「はい」
ローディンは地図を指した。
「ここだけじゃない。集落の周囲、畑の近く、街道へ向かう道。それぞれに痕跡がありました」
「種類は」
「複数です」
少し間を置いて続ける。
「一つの群れが大きくなったって話じゃない。別々の魔物が、広い範囲で増えてる」
アルヴァンは黙って聞いている。
「山の手前まで確認しました。そこから先では、かなりの数が動いているようです」
「数えられなかったか」
「一人で踏み込んで、囲まれて帰れなくなるような場所だってことくらいは分かりますから」
ローディンは淡々と答えた。
ガルドが地図を見る。
「それほどか」
「ええ」
ローディンは頷いた。
「俺一人なら、見つからずに戻ることはできます。でも、あの数を片っ端から相手にしていたら話は別です」
アルヴァンはその言葉を聞いて、しばらく地図を見つめた。
「つまり、冒険者を増やせば済むという状況ではない」
「俺はそう思います」
ローディンは即答した。
「今まで通りの依頼を増やすだけなら、一時的には減らせるでしょう。でも、次から次へと出てくる」
「根拠は?」
「討伐した跡があるのに、別の場所からまた出ているからです」
ローディンは地図の数か所を順に指した。
「ここで討伐されている。なのに、その近くでまた別の痕跡がある。場所そのものに魔物が増えてる」
エリオットが息をつく。
「……これまでの報告と一致しています」
アルヴァンは地図を引き寄せた。
魔物の被害。街道。集落。
そして、枯熱病の報告。
昨日までは、病気の広がりと魔物の増加をどう結びつけるかを考えていた。
だが今は違う。
病気との関係を抜きにしても、この地域だけで対応を考える必要がある。魔物そのものが、すでに人の暮らしを脅かしている。
「ローディン」
「はい」
「他に気づいたことは?」
「あります」
ローディンは少し考えてから言った。
「魔物が山へ戻っている感じが薄いです」
「どういう意味だ」
「普通なら、人の気配があれば離れるでしょう。でも今回は、山へ逃げるより、そのまま別の場所へ移動するものが多かった」
アルヴァンの表情が変わる。
「人間の生活圏を避けていない?」
「そう見えました」
ローディンは頷く。
「少なくとも、以前よりずっと近い」
部屋が静かになる。
アルヴァンは地図を見下ろした。
ここまで情報が出れば、もう十分だった。
特定地域で魔物が増えている。しかも、単純な群れの増加ではない。
複数の種類が広い範囲で増え、人間の生活圏へまで下りてきている。
冒険者を増やすだけでは抑えきれない可能性が高い。
ならば――
「ガルド」
「はい」
「領軍を動かす準備を」
ガルドがすぐに顔を上げた。
「異常地域への重点投入、ということでしょうか」
「ああ」
アルヴァンは頷いた。
「ただし、領内全体の討伐を止めるわけではない。これまで通り冒険者にも動いてもらう」
「承知しました」
アルヴァンは再び地図を見る。
病気の広がりを止めるためにも。
街道を守るためにも。
何より、この地域で増え続けている魔物を抑えるためにも。
もう、手をこまねいている段階ではない。
昨日まで必要だったのは確認だった。
その確認が終わった。
アルヴァンは地図の上の山際を見つめた。
「ここを押さえる」
静かな声だった。
だが、今度は迷いがなかった。




