第22話 できることから
ミラが領主館へ戻ったのは、各地を回ってから五日後だった。
応接室へ入ってきた彼女は、以前より少し日に焼けて見えた。
「今回は、ベルク村とノート村。それから、その周辺の二つの集落だけです」
アルヴァンは頷いた。
病人の数を数えるだけなら、使いを出せばいい。
だが今回は違う。
ミラには、村の中で話を聞いてもらった。
「聞いたことを、そのまま話してくれ」
「はい。……思っていたより、話を聞くのに時間がかかりました」
「何かあったか」
「いえ。皆さん、最初は普通のことしか話さないので」
ミラは少し困ったように笑った。
「水はどこから取るのか、とか。病人が出た時にどうしているのか、とか。そういうことを聞いても、最初は特別なことをしているとは思っていないみたいで」
「確かにそうだな。それで」
「何度か話しているうちに、少しずつ聞けました」
ミラは紙を机の上へ置いた。
「村によって、本当に違います」
水を汲む場所。
家畜を置く場所。
病人が出た時の世話の仕方。
食べ物の保管。
便所の位置。
人が集まる場所。
同じような村に見えても、暮らし方には細かな違いがあった。
「病人が出た村だけに共通するものは」
「まだ、分かりません」
ミラは首を振った。
「同じ村の中でも、家によって違います。病人が出た家の近くに住んでいる人が元気だったり、その反対もあります」
「そうか」
「でも……、気になることは、いくつかありました」
ミラは少し考えてから続けた。
「聞かせてくれ」
彼女の話は、はっきりとした答えではなかった。
ある村では、家畜小屋が住居のすぐ近くにある。
別の村では、雨が降ると水が溜まる場所がそのまま通り道になっている。
水を汲む場所も、必ずしも同じではない。
病人が出れば、家族だけでなく近所の者も世話に入る。
誰かが病気になれば、村全体がまったく関わらないということは難しい。
アルヴァンは黙って聞いていた。
話を聞く前から分かっていたことではある。
だが、改めて並べてみると、領内の村々には衛生という考え方そのものがほとんど存在していない。
汚れているから危険なのではない。何かが混じるから病気になる。
そうした発想自体がない。
目に見えて腐っていなければいい。臭いが強くなければ問題ない。
それ以上のことを考える理由がなかった。
ラーデ村との違いを、まだ原因として決めることはできない。
だが、少なくとも各地の暮らしを聞けば聞くほど、アルヴァンには気になる点が増えていった。
「まだ、何が重要なのか分かりません。……これで、役に立てたでしょうか」
「分からないから聞いたんだ。俺が知りたかったのは、こういうことだ。よく聞いてきてくれた」
アルヴァンが言うと、ミラは少しだけ安心したように息を吐いた。
*
その日の午後、領都の教会から来た一人の司祭が執務室を訪れた。
「お待たせいたしました、子爵様」
年は四十代半ばほどだろうか。落ち着いた声の男だった。
領都の教会で長く務めている司祭、マティアス。
これまでにも、領主館と教会の間で必要な連絡を取ってきた人物だ。
「各地からの話を、できる限り集めました」
そう言って、机の上に数枚の紙を置く。
「治癒術師からの報告と、巡回を担当している者の話。それから、教会に残っていた過去の記録です」
アルヴァンは紙を手に取った。
「結論は」
「枯熱病でしょう」
マティアスは答えた。
「断定できますか」
「この病について、我々にできる範囲では」
慎重な言い方だった。
だが、迷っている様子はない。
「高い熱。強い倦怠感。食事が取れなくなる。吐き気と腹の不調」
マティアスは指を折るように続ける。
「症状の出方も、これまで伝えられているものと近い」
「教会の記録には」
「過去にも似た流行はあります」
マティアスは帳面を開いた。
「ただ、記録は十分ではありません。当時の患者数や、どの村まで広がったのかが書かれているものもあれば、死者だけが残されているものもあります」
後から比べるために残された記録ではない。
その時々で、記した者が必要だと思ったことだけが残っている。
「魔物が増えた時期との関係は分かるか」
「そこまでは」
マティアスは首を振った。
「少なくとも、記録だけで関係があるとは言えません」
「そうか」
アルヴァンは考え込んだ。
魔物が増えている。そして枯熱病が広がっている。
二つが同じ時期に起きている。
だが、それだけで原因と結果を決めることはできない。
「教会では、患者の治療は」
「各地の治癒術師が対応しています。ただ、人数には限りがあります」
今は、治療だけでは足りない。
患者が増えれば、治癒術師も足りなくなる。
ならば、患者を増やさない方法も考えなければならない。
*
マティアスが帰った後、アルヴァンは執務室でしばらく一人だった。
枯熱病。
名前が確定したからといって、何かが分かったわけではない。
何によって広がるのか。
人から人へ移るのか。
水なのか、食べ物なのか。
あるいは、まったく別のものなのか。
この世界では、それを確かめる術も限られている。
だが、何もしない理由にはならなかった。
手を洗う。
飲み水を煮る。
病人の世話をした後には、手を洗う。
食事を扱う前にも。
どれも、アルヴァンが領主になってから一度は広めようとしたことだった。
だが、うまくはいかなかった。
水は貴重だ。火を使えば薪がいる。
毎日のことになれば、面倒だと思う者もいる。
何より。
これまでそうしなくても、生きてきた。
それだけの理由で、習慣を変えるのは難しかった。
だから以前は、勧めるところまでにした。
領主が村人たちの日々の暮らし方にまで細かく口を出すことには、ためらいもあった。
正しいと思うことを言えば、人が変わるわけではない。
それも、この二年で学んだことだった。
だが、今回は違う。
「ガルド」
アルヴァンが呼ぶと、控えていた代官が顔を上げた。
「通達を出す」
「どのような内容で」
「病が広がっている。各村で、できることをさせる」
アルヴァンは指を折りながら言った。
「病人の世話をした後は、手を洗う」
「はい」
「食事を作る前にも」
ガルドが書き留める。
「飲み水は、可能な限り煮てから使う。病人が出た家では、世話をする者を必要以上に増やさない」
「承知しました」
「症状が出た者を隠すな。村の代表か、近くの治癒術師へ知らせる」
それで枯熱病を防げる保証はない。
だが、何もしないよりはいい。
少なくとも、今すぐできる。
「今言った内容を守るように伝えろ」
ガルドが顔を上げる。
「命令として、ですか」
「ああ」
領主として命じる。
以前とは違う。
それが必要な状況になった。
*
翌日、アルヴァンは再びマティアスを領主館へ招いた。
「教会にも協力を頼みたい」
アルヴァンが言うと、マティアスは静かに頷いた。
「今、各村に通達を出している。ただ、領主館からの使いだけでは時間がかかる場所もある」
村長や代官を通して伝える。
それとは別に、巡回する治癒術師や巡回司祭が村へ入ることもある。
「巡回先で話す機会があれば、同じことを伝えてほしい」
「分かりました」
マティアスはすぐに答えた。
「教会からも、巡回司祭や治癒術師へ知らせます」
「助かる」
領主館だけで、領内すべてを動かせるわけではない。
使える手は使う。
それが今のアルヴァンにできることだった。
治療は、治癒術師たちが行う。
領主館は、できる限り患者を増やさないために動く。
原因はまだ分からない。
衛生対策が、本当に効果があるかも分からない。
それでも、何もしないよりはいい。
アルヴァンは窓の外を見た。
通達は、すぐに各地へ向かう。
手を洗うこと。
水を煮ること。
病人を隠さないこと。
小さなことばかりだった。
小さなことしか、今すぐにはできない。
だからこそ、できることから始めるしかなかった。




