第20話 聞き取る者
アルヴァンの執務室には地図が広げられている。レイス領全体を描いたものだ。
領都を中心に、北へ延びる街道。砦兼市場町。その周囲に点在する村々。山側には、地図の上では小さな印でしかない集落もある。
アルヴァンは椅子に座ったまま、その地図を見ていた。
「確認できている患者は、ベルク村、ノート村、それから山側の小集落」
向かい側に立つエリオットが言った。
「今のところは、です」
「ラーデ村には、まとまった発症はない?」
「はい」
アルヴァンは指先で地図をなぞった。
四つの村や集落は、互いにそれほど遠くない。だが、それだけで領内の状況を表しているわけではない。
セレネの巡回範囲に入っている場所だから、比較的早く情報が届いただけだ。
領内には、ほかにも村がある。
砦兼市場町の周辺。街道沿いの農村。領都から離れた小さな集落。
そこでは、同じような病人が出ていないのか。
あるいは出ていても、まだ領主館まで情報が届いていないだけなのか。
「この四つだけを比べても足りないな」
アルヴァンが言うと、エリオットは頷いた。
「はい。ただ、ほかの村からは、まだ詳しい報告が来ていません」
「病人がいないのか」
「分かりません」
それが問題だった。
報告がない。
それは、何も起きていないという意味ではない。
単に、報告する仕組みがないだけかもしれなかった。
アルヴァンは小さく息を吐いた。
この一年ほど、領主館に届く情報は以前より整理されるようになっていた。
村ごとの報告を分ける。
過去の記録を探しやすくする。
同じような出来事があれば、並べて見られるようにする。
それだけでも以前よりはましになった。
だが、統一された書式があるわけではない。
ある村は、病人が出たと書く。
別の村は、死者が出て初めて報告する。
さらに別の村では、村長が重要だと思わなければ、そもそも書かれない。
人口。出生。死亡。収穫。
領地全体を知るために必要な数字は、以前から分かっていた。
病人についても同じだ。
前世の知識があるからだけではない。
領主になってから、この世界の記録を読んでいれば、嫌でも気づく。
村ごとに記録の仕方が違う。
同じ出来事が起きても、残る情報が違う。
比べようとして初めて、それでは足りないと分かる。
「……分かっていたんだがな」
アルヴァンは呟いた。
「何がですか?」
「報告の形式を、ある程度は揃える必要がある」
エリオットは黙った。
「人口も。死者も。収穫も」
アルヴァンは机の上に置かれた紙を見る。
「病人についても、本当は同じだ」
しかし、それを決めるのは簡単ではない。
村に新しい仕事を増やすことになる。
読み書きのできる者が少ない場所もある。
毎月、細かな数字を出せと言っても、現場の負担になるだけかもしれない。
そして何より、若い領主が思いつくことを片端から制度にしていけば、領地はすぐに動かなくなる。
必要だと思った。
だが、まだそこまで手を伸ばせていなかった。
水路も。
道路も。
税も。
冬の備えもある。
領主になってからの二年近く、目の前には常に別の問題があった。だから後回しになった。
そして今、その不足が目の前に出ている。
「今回を機に作りますか」
エリオットが言った。
アルヴァンは少し考える。
「いずれは必要だ」
「では」
「だが、今すぐ全村に新しい帳簿を書かせるのは違う」
今回必要なのは、まず、今起きていることを知ることだ。
「今回は臨時でいい」
アルヴァンは言った。
「各村へ使いを出す。病人が増えているかどうかだけ確認しろ」
「人数もですか?」
「分かる範囲で」
アルヴァンは続ける。
「正確な数字を作るために、適当な数字を書かせるな。分からなければ分からないと報告させる」
「はい」
「それから、最初に病人が出た時期。死者がいるなら、その人数」
「症状は」
「確認させる」
アルヴァンは答えた。
「高い熱があるか。強い倦怠感があるか。食べられなくなっているか。吐き気や腹の不調があるか」
枯熱病を疑うなら、少なくともそこは揃えて聞く必要がある。
村によって書き方が違えば、後から比べることができない。
「全員について細かく診断しろとは言わない。ただ、同じ項目は確認してくれ」
「分かりました」
エリオットが書き留める。
「発症した時期と、症状。死者がいればその人数。それから、今年に入ってからの魔物による被害」
「はい」
正確な数字を作るために、適当な数字を書かせる必要はない。分からないことは、分からないままでいい。
だが、確認する項目だけは揃える。
そうしなければ、並べても違いが見えてこない。
「冒険者ギルドの記録も引き続き確認します」
「ああ」
病人。
魔物。
そして、病人が少ないラーデ村。
まだ何も分からない。
だが、比べる場所を増やさなければ、偶然なのか違いなのかさえ判断できなかった。
*
「村へ行って、直接聞くんですか?……私が?」
数日後。
領主館の小さな応接室で、若い女性が不安そうに尋ねた。
ミラ・オルセンだった。
「そうだ」
アルヴァンが答える。
「ただし、全部の村を回るわけじゃない。一人で行かせるつもりもない」
ミラは、少しだけ安心したようだった。
しかし、その表情もすぐに曇る。
「でも、私でいいんでしょうか」
「何か問題があるか」
「いえ。問題というほどでは」
ミラは視線を落とした。
「領主館で働いたことはあります。でも、ずっと正式な役職をいただいていたわけではありませんし……」
これまで何度か、臨時の仕事を引き受けたことがある。
書類の整理。村から来た者への聞き取り。領主館に滞在する人間の記録。
そうした仕事だった。どれも、誰かの補佐だった。
自分が中心になって何かを任された経験はほとんどない。
「帳簿なら、もっと得意な人がいます」
「知っている」
「地図ならエリオットさんの方が」
「それも知っている」
「でしたら、どうして」
アルヴァンは少し考えてから答えた。
「人の話を聞くのが上手いからだ」
ミラが顔を上げた。
「……そうでしょうか」
「少なくとも、俺はそう思っている」
ミラは返事をしなかった。
自信があるようには見えない。むしろ、急に任されたことに戸惑っている。
だが、以前から気になっていたことがあった。
領主館へ村人が何かを訴えに来た時、最初は緊張して、必要なことさえ上手く話せない者がいる。
そんな時、ミラが話を聞くと、いつの間にか相手が余計なことまで話している。
何を聞けばいいのかを知っているというより、話しやすいのだろう。
相手の言葉を急かさない。分からないところがあれば、同じことを聞き直す。
そして、本人が重要だと思っていなかったことにも、自然に話を向ける。
今回必要なのは、それだった。
「今回は、病人の数を数えるだけじゃない」
アルヴァンは言った。
「村の人間が、どう暮らしているのかを聞いてほしい」
「暮らし、ですか」
「ああ」
「病気と関係のあることを?」
「それを最初から決めなくていい」
ミラが首を傾げる。
「決めなくて、いいんですか」
「こちらが最初から答えを決めると、見えるものも見えなくなる」
アルヴァンは少し間を置いた。
「まず聞く」
水をどこから取るのか。
食べ物をどう保管するのか。
家畜はどこにいるのか。
人が病気になった時、誰が世話をするのか。
村の中で、どこへ人が集まるのか。
だが、それを質問表のように並べるつもりはなかった。
村人は、自分たちの生活を調査されるために暮らしているわけではない。
話の中から知る必要がある。
「話を聞いて、気になったことがあれば書いてくれ」
「私が、気になったことを?」
「ああ」
「でも、それが重要かどうかは」
「最初から分かる必要はない」
アルヴァンは言った。
「重要かどうかを決めるのは、後でいい」
ミラはしばらく黙っていた。
やがて、小さく頷く。
「……分かりました」
声には、まだ不安が残っていた。
だが、断ろうとはしなかった。
*
最初に向かう場所を決めるため、アルヴァンは地図を見直していた。
ラーデ村。病人が少ない。
ベルク村。
ノート村。
山側の小集落。
セレネの巡回範囲にあるため、患者の状況は比較的分かっている。
だが、それだけでは狭すぎる。
領内には、まだほかにも村がある。
病人が出ている場所、出ていない場所。
魔物の被害が多い場所、少ない場所。
それぞれを比べる必要がある。
そのためには、領主自身が全てを回るわけにはいかなかった。
ラーデ村の時とは違う。
一つの村を見ればいい段階では、もうない。
少しずつ、人を分けていく。
セレネには、巡回先で患者の様子を見てもらう。
エリオットには、各地から届く報告をまとめさせる。
ミラには、村人たちから話を聞かせる。
そして。
「冒険者ギルドにも話を聞きたい」
アルヴァンが言うと、ガルドが頷いた。
「魔物被害について、ですか」
「ああ。支部長に連絡を取ってくれ」
「領主館へ招きますか」
「頼む」
「分かりました。こちらで日程を調整します」
以前のように、思いつきで自分から冒険者ギルドを訪ねるわけにはいかない。
今のアルヴァンは、領主として相手と話をする立場になっている。必要な話なら、正式に場を設ければいい。
今年に入ってから、どの地域で魔物が増えているのか。
討伐依頼は、例年と比べてどの程度増えているのか。
街道や村へ向かう道に、どんな影響が出ているのか。
領主館へ届く報告だけでは分からないことがある。実際に依頼を受け、現場へ人を送り出している側の話も聞く必要があった。
そしてアルヴァンは、それぞれが集めたものを、並べて考える。
「今あるものを集めよう。まずは比べる。病人が出た村と、出なかった村を」
アルヴァンは地図を畳んだ。
その違いを、見つけるところから始めるしかなかった。




