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営みの地平、人々の岸辺 〜ひとつの井戸から広がる物語〜  作者: 一個二個三個
第一章 ラーデ村

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第17話 春の記録

 春が来た。

 ラーデ村で水路に初めて水が流れてから、一年が経っていた。


 春のラーデ村では、今年も畑仕事が始まっている。

 東の井戸から伸びる水路には、途切れることなく水が流れていた。


「ここ、少し詰まってる」


 トーマが水路を覗き込む。


「どこだ?」

「この先です」


 近くにいた男が鍬を持ってくる。


「俺がやる」

「下流も見てください」

「ああ」


 二人は慣れた様子で水路を確認していく。


 ドルンが毎日付き添うことは、もうなくなっていた。

 必要なときには呼ぶ。それ以外は、村人たちが自分で見る。

 昨年の工事で掘った水路は、雨や冬を越して、ところどころ補修された跡が残っていた。

 石を積み直した場所。

 崩れた土を直した場所。

 土砂を取り除いた場所。

 どれも、特別な工事ではない。村人が自分たちでできる範囲の手入れだった。


「今年も問題なさそうですね」


 村長が水路を見ながら言った。


「去年より、みんな慣れました」


 隣にいた男が笑う。


「最初はドルンさんに怒鳴られてばかりだったからな」

「今でも怒鳴られてるだろ」

「それはそうだ」


 笑い声が起きた。


 遠くでは、別の村人たちが畑仕事をしている。水を汲むために東まで歩く人の姿は、以前よりずっと少なくなっていた。


 中央井戸の周囲も変わっている。

 家畜小屋は相変わらず同じ場所にある。

 それでも、井戸との間には柵と排水があり、以前のように汚れが直接流れ込むことはなくなった。排水のための溝もきちんと機能している。

 便所も移された。

 飲み水用の桶と、それ以外の桶を分けることも、今では当たり前になっている。


「今年は、病人が少ない気がしますね」


 村長が呟いた。


「去年は、もっと子供を治癒術師のところへ連れていった覚えがあります」

「そういえば、そうだったな」


 村人が頷く。


「今年はまだ、そんなに見てない」

「でも、まだ春だ」

「分かってる」


 誰も、それ以上は言わなかった。

 少しずつ記録している。

 去年と今年。

 同じ村で、同じ季節に、どれだけ病人が出たか。

 まだ一年分しかない。

 けれど、今年の春が始まった時点ですでに、違いを感じる者はいた。


     *


 同じ頃。

 領主館では、アルヴァンが一冊の記録帳を眺めていた。


「これが一年分か」

「はい」


 ガルドが答える。


「ラーデ村から届いた記録をまとめました」


 アルヴァンはページをめくる。

 腹痛。

 下痢。

 発熱。

 治療を受けた人数。

 子供の発症数。

 前年との比較。


 数字を追っていく。


「……減っているな」

「はい」


 ガルドも頷く。


「特に子供の腹痛と下痢は、前年より明らかに少なくなっています」


 アルヴァンはもう一度数字を確認した。

 三百人ほどの村だ。母数は決して大きくない。天候や食料事情など、別の要因もある。

 一年分の記録だけで、原因を断定することはできない。

 それでも、差は無視できない程度に出ていた。


「偶然かもしれない」

「ええ」

「だが、何も変わらなかったとも言えない」

「その通りです」


 アルヴァンは記録帳を閉じた。


 この一年、ラーデ村では水路が使われ続けた。

 村人たちは自分たちで補修するようになった。井戸の周囲も、できる範囲で改善された。

 そして今、病気の記録にも変化が現れている。

 それだけだった。

 それだけだが、十分だった。


「記録は続けよう」

「来年も同じ形で?」

「ああ」


 アルヴァンは頷いた。


「一年だけでは分からない。もう少し見たい」

「承知しました」


 ガルドが記録帳を閉じる。


 アルヴァンは窓の外を見る。

 春の光が庭に差していた。


 この世界へ来て、まだ一年と少し。領主としても、まだ知らないことは多い。

 それでも、ラーデ村で一つのことを学んだ。

 自分一人で何かを変える必要はない。

 知っている人間に聞く。

 できる人間に任せる。

 そこで暮らす人間と一緒に考える。

 自分たちだけでは足りないところを補う。

 そうして続いていけば、それは誰か一人の仕事ではなくなる。


 アルヴァンは机の上の記録帳を見た。


「……一年か」


 短いようで、長かった。

 最初にラーデ村を訪れたときには、中央井戸の水をどうするかさえ分からなかった。

 今は、村に水が流れている。

 そして、その水路を守っているのは村人たちだ。

 アルヴァンは小さく息を吐いた。


「やってみるものだな」


 それだけ言って、記録帳を棚へ収める。


 窓の外では、春の風が庭の木々を揺らしていた。

 ラーデ村でも、きっと同じ風が吹いている。

 水路には水が流れている。

 村人たちは、それを使いながら今日も一日を過ごしている。


 病気が減った。その理由を、まだ誰も断言できない。

 それでも。

 一年前より、少しだけ暮らしが良くなった。

 その事実だけは、確かだった。


 アルヴァンは次の仕事へ目を向けた。

 ラーデ村の記録は、いったん閉じる。


 春は、まだ始まったばかりだった。





第1章、完結です。ここまでお読みいただきありがとうございました。


最初は一つの村の井戸から始まった話でしたが、調べていくうちに、水だけを変えれば済む問題ではないことが見えてきました。

安全な水を確保すること。

汚れたものを水から遠ざけること。

村の暮らしを壊さないこと。

そして、完成した後も自分たちで維持できること。


アルヴァン一人の知識だけではなく、ドルンの技術や、村人たちが持つ土地と暮らしの知識が合わさって、ようやく一つの形になったのがラーデ村の水路です。


派手な事件の少ない第1章でしたが、この物語で描きたい「病気になってから治すだけではなく、病気になりにくい暮らしを作る」という部分を、まずは小さな村から始めてみました。


第二章では、領地全体を巻き込む新たな問題が起こります。

引き続き、アルヴァンとレイス領の物語を見守っていただければ幸いです。


それと投稿に関してですが、ストックが心許なくなってきたので第二章からは水曜日と土曜日の更新とさせていただきます。

よろしくお願いします。

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