第16話 団欒
領主館へ戻ったのは、夕方だった。
玄関へ入ると、母のエレノアが出迎えた。
「お帰りなさい、アルヴァン」
「ただいま戻りました、母上」
「ラーデ村は、いかがでした?」
「水路が完成しました。予定より少し早かったようです」
「そう。よかったですね」
エレノアは微笑んだ。
「村の方々も喜んでいたのでしょう?」
「はい。昨夜、ささやかな宴まで開いてくれました」
「まあ」
エレノアの表情が少し柔らかくなる。
「それなら、あなたも少しは楽しめたのかしら」
「ええ。久しぶりに、仕事の話をしない食事をしました」
「それはよかったわ」
母上、と呼ぶことにも、もうほとんど違和感はない。この数か月、そう呼び続けてきたからだ。
それでも、ときどき不思議に思う。目の前にいる女性を、自分は本当に母と呼んでいる。
記憶の中には、母との時間がある。
けれど、それが自分自身の記憶なのか、この身体に残っていたものなのかは、はっきりしなくなってきていた。
それを考え始めると、少しだけ距離を感じる。
だが、エレノアはそんなことを知らない。
「お疲れでしょう。食事の用意はできています」
「ありがとうございます」
「その前に、着替えていらっしゃい。まだ外の埃がついていますよ」
「分かりました」
アルヴァンは小さく笑った。
領主として戻ってきた自分に対しても、母は以前と変わらないのだろう。
そのことが、なぜか少し心地よかった。
「兄様、何ぼんやりしてるの?」
声を掛けられて、アルヴァンは顔を上げた。
食堂には、妹のリディアもいた。
「ねえ兄様、ラーデ村ってどんなところ?」
「普通の村だよ」
「水路を作ったんでしょう?」
「ああ」
「兄様が?」
「俺だけじゃない。村の人たちとドルンが作った」
「ふーん」
リディアは少し考える。
「じゃあ、兄様は何をしたの?」
「最初に、水を引こうと考えた」
「それだけ?」
アルヴァンは少し困った。
「それだけでもないけれど……説明するとなかなか難しいな」
リディアが笑う。
「変なの」
エレノアも小さく笑った。
アルヴァンもつられて笑う。
こうして家族と食卓を囲むことには、まだ僅かな戸惑いがある。けれど、以前ほど強いものではない。
三か月余り。
この家で過ごし、この人たちと話してきた。少しずつ、この場所にいることにも慣れてきている。
いつか、この感覚も消えていくのかもしれない。
今は、それでいいと思っていた。
*
夜。
自室へ戻ったアルヴァンは、机の上にラーデ村の記録を置いた。
水路は完成した。井戸の周囲も少しずつ変わっている。
あとは、結果を見る。
気づけば、領主としてこの世界に放り込まれていた。
毎日、誰かに教えてもらっている。
ガルドには領地のことを。ドルンには水路のことを。村人からは、その土地で暮らすということを。
それでも、自分が領主として十分なのかは、まだ分からない。
知らないことばかりだった。
今でもそうだ。
けれど、少なくともラーデ村では、自分一人では何もできないことを知った。
人に聞く。
専門家に任せる。
村人と一緒に考える。
自分にできないことは、できる人間に頼る。
それでも最後に判断するのは、自分の仕事だ。
アルヴァンは記録へ目を落とした。
水路ができた。だからといって、病気が減るとはまだ限らない。
腹を壊す子供が減るのか。夏になっても同じなのか。去年と比べて、何が変わるのか。
記録が必要だった。
「……次の記録が出るまで、待つしかないか」
アルヴァンは椅子に背を預けた。
窓の外では、春の夜が静かに更けていく。
ラーデ村では今頃、水路の水が流れている。
その水が、村の暮らしを本当に変えたのか。
答えが出るのは、もう少し先だった。




