第14話 水が来る日
春の気配が近づいていた。
ラーデ村で水路の工事が始まってから、三か月が過ぎている。
アルヴァンが執務室で書類を整理していると、ガルドが報告書を持って入ってきた。
「ドルンからです」
「完成したか?」
「あと数日で通水できるそうです」
アルヴァンは手を止めた。
「もうそこまで行ったか。当初の予定より早いな」
「はい。村人が作業にも慣れ、ドルンがいなくても簡単な補修ならできるようになっているそうです」
当初、ドルンが見積もった工期は四か月ほどだった。
それが三か月で終わったのは、村人たちが作業に慣れ、工事の進め方を自分たちで調整するようになったからだ。
村人が掘った。
村人が石を集めた。
崩れた場所を見つければ知らせ、必要なら自分たちで補修した。
ドルンは最後まで現場を確認し、必要な場所だけ手を入れた。
アルヴァンは報告書を閉じた。
「……一度、見に行こう」
「よろしいのですか?」
「完成した水路を、自分の目で見ておきたい」
領主として、現場をすべて見続けることはできない。だからこそ、節目くらいは自分で確認したかった。
「明日の朝に出る」
「承知しました」
*
翌朝。
アルヴァンはガルドとともにラーデ村へ向かった。
村に着くと、中央付近まで続く水路が目に入った。まだ真新しい。
土の匂いが残り、ところどころに石が組まれていた。
「本当に三か月でここまで来たんだな」
「村の者たちが、よく働きました」
村長が答えた。
「ドルンは?」
「東の井戸へ向かっています」
「そうか」
アルヴァンたちも水路を辿って歩いた。
途中には、工事のために補強された場所がある。
畑の脇。家の裏手。道の下。
どこも、村の暮らしを邪魔しないように作られていた。
やがて東の井戸が見えてくる。
ドルンが井戸の前で待っていた。
「来ましたか」
「ああ。完成が近いと聞いた」
「さきほど、最後の確認を終えました。問題ありません」
「通水できるのか?」
「できます」
ドルンは水路の始点を確認する。
「ただし、最初は少しずつ流します」
「分かった」
村人たちが集まってくる。
工事を手伝った者。東の井戸を使っていた者。トーマもいた。
ドルンが水の流れを調整する。
「開けろ」
村人が操作する。
東の井戸から水が流れ込んだ。
最初は細い流れだった。
水は土の底をゆっくり進んでいく。
「流れた」
誰かが呟いた。
水は止まらない。
畑の脇を抜ける。家の裏を通る。道の下を抜ける。
三か月かけて村人たちが掘った水路を、少しずつ進んでいく。
アルヴァンも、その後を歩いた。
途中でドルンが立ち止まる。
「ここは見ておいてください」
水路の一部を指す。
「雨の後に土が入ったところです。村の者が直しました」
アルヴァンが見る。
補修された跡がある。
「きれいに直っているな」
近くにいた男が少し照れたように頭を掻いた。
「教えてもらった通りにしただけです」
「見事なものだ」
アルヴァンは答えた。
*
水はさらに進み、村の中央へ向かっていく。
その途中で、アルヴァンは中央井戸を見た。
周囲には新しく作られた排水溝がある。
井戸へ向かっていた雨水が、別の方向へ流れるようになっていた。
家畜小屋は移されていない。村の防衛上、そこを変えることはできなかった。
その代わり、井戸との間には排水と簡単な柵が設けられ、地面も踏み固められている。
便所も以前より井戸から離れた位置に移されていた。
飲み水を汲む桶と、それ以外に使う桶も分けられている。
煮沸については、冬の間にできる範囲で続けていた。薪の消費を考え、すべての水を煮ることはしていない。
だが、子供や病人の飲み水を優先するという習慣は、少しずつ村に残り始めていた。
大きく変わったわけではない。
だが、以前とは違う。
「村の者でやったのか?」
「はい」
村長が答えた。
「それでいい」
アルヴァンはそれ以上言わなかった。
完璧でなくてもいい。この村で続けられる方法なら、それでいい。
*
やがて水が貯水槽へ到達した。
水面がゆっくりと上がっていく。
村人たちは黙って見ていた。
「これで、東まで水を汲みに行かなくてよくなるんですね」
女が呟いた。
「毎日のことでしたからね」
別の村人が答える。
東の井戸まで行く。水を汲む。村まで運ぶ。それを毎日繰り返す。
水路は、その仕事を少しだけ減らす。
その「少し」が、三百人の暮らしでは積み重なる。
アルヴァンは貯水槽に溜まっていく水を見た。
最初は、中央井戸の水が本当に汚染されているのかを疑った。
調べた。記録を見た。村人から話を聞いた。
そして、中央井戸だけをどうにかすれば終わる問題ではないことに気づいた。
安全な水を確保する。
汚れたものを水から遠ざける。
既存の設備を捨てず、使えるものは使う。
必要なところだけを変える。
そのために、村人の手を借りる。
ドルンの技術を借りる。
足りないところだけを領主が補う。
振り返れば、ここまでやってきたことは、最初から一つにつながっていた。
「アルヴァン様」
ガルドが隣から声を掛ける。
「何だ?」
「いかがですか?」
アルヴァンは少し考えた。
「まだ始まったばかりだと思う」
「始まったばかり?」
「ああ」
水路ができた。
だが、これから使う。
雨が降る。土が入る。石が動く。冬が来れば凍る。
そのたびに、村人が見て、直していかなければならない。
そして何より。
「病気が本当に減るか、それを見ないとな」
水が安全になっても、それだけで病気がなくなるとは限らない。
腹を壊す人間が減るのか。子供の発熱はどうなるのか。季節が変わったときに何が起きるのか。
変化を見なければならない。
ガルドが頷いた。
「記録を続けます」
「ああ」
アルヴァンは水路へ目を戻した。
水が流れている。それだけのことだった。
だが、その水をここまで運ぶために、多くの人間が手を動かした。
村人が掘った。石を集めた。土地を知る者が意見を出した。ドルンが技術を加えた。領主家が足りないものを補った。
誰か一人の力ではない。
それでいい。
アルヴァンは、前世で医師として働いていた頃のことを思い出していた。
病気になった人間を治す。それは必要な仕事だった。
だが、病気になる人間そのものを減らせるなら、その方がいい。
そのためには、医者だけでは足りない。
水を知る人間。土地を知る人間。暮らしを知る人間。技術を持つ人間。
そして、そこで生きる人間。
それぞれの力を合わせるしかない。
「……これでいい」
アルヴァンは小さく呟いた。
水路は今日、初めて水を通した。
けれど本当に試されるのは、これからなのだろう。




