18 色即是空 空即是色 1
「おう。これで、ようやく、お前も外に出ることができるな。ずっとこの部屋の中じゃ息が詰まるだろ?」
まほろはそう言って、いつもやる男友達のようにあおいの頭をポンポンとやろうとした。
―――その瞬間、まほろの指先が、あおいの長髪から放たれた目に見えない「結界」に触れた。
ふわりと鼻を突き抜けたのは、ボディシャンプーの香りの奥に隠された、女の子特有のたまらなく甘い体温の匂い。男同士の距離感ではない甘美でどこかに致命的な香気がまほろの嗅覚をダイレクトに入って来る。
「あ……」
まほろの手が、あおいの頭の手前でピタリと止まった。ぶかぶかのジャージからの驚くほど細い首筋。頑なにワンピースを拒んで顔を真っ赤にしていた、あの少女特有の潤んだ瞳。男の蒼の口調のままで喋っているのに、目の前にいるのは、どこからどう見ても線の細い、壊れそうなほど奇麗な少女なのだ。
まほろの心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
「……高山?」
あおいは、空中で止まったまほろの手を不思議そうに見上げ、首を傾げた。その無防備な仕草すら、今の身体では暴力的なほどに愛らしく映ってしまう。
「な、なんでもねえ!……お前は早く寝ろ」
まほろはあわてて手を引っ込めると、ダイニングに勉強道具を広げ、タブレットを取り出した。
「……なんだよ、急に怒らなくったっていいじゃん」
あおいは不満げに頬を膨らませたが、まほろの耳の裏が真っ赤に染まっていることには気づかなかった。
まほろはノートを広げてカリカリとシャープペンシルを動かし始めたのもつかの間、ものの五分で完全にフリーズした。
「……う、あ?なんこれ?イミフ過ぎんだろ……」
数式を睨みつけたまま、まほろはガシガシと頭を掻きむしって大きなため息を吐く。
高校二年生の梅雨時。新学期が始まってテストがじわじわと違づいているこの時期、赤点常習犯のまほろにとって、数学Bはもはや呪文の解読に近かった。
「……高山、どこで行き詰ってるんだ?」
背後から足音がして、女子の、しかし落ち着いた声が響いた。
あおいが、まほろのジャージの裾を引きずりながらやってきて、ノートを覗き込んできた。
「あー……いや、このベクトルの問題なんだけどさー……」
「どれどれ……あ、バカ、これ公式の使い方が根本的に間違ってんだよ。ちょっと貸してみろ」
あおいはまほろの隣に座り、細い指先でまほろのシャーペンをひょいっと奪い取ると余白に、サラサラと奇麗な文字で解説を書き始める。
「要はベクトルPがベクトルa、ベクトルbの内分or外分になっていればいいんだろ?……だから……」
あおいにとっては、ごく自然な恩返しのつもりだった。男同士、友達感覚だから距離感のバグにも一切気付いていない。
だが、まほろにとっては、長髪の美人さん(あおい)が傍に寄ってきて『甘い女の子の匂い』をさせている。
(……っ、南、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……いやいや違う違う般若心経だ!……観自在菩薩!飯食ったばっかで距離が明らかにバグってるだろっ!!)




