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家族と約束

  ○



 昨夜の後悔などなかったかのように、レノは彼女に会うのが楽しみになっていた。

「街には色んな人がいるんだ。朝早く起きる人から、昼過ぎまで寝てる人。早く起きる人はほとんどが露店を開くか、畑で仕事をする人。一番大きな畑を持ってるウィルは朝早く起きないと畑を耕しただけで日が暮れちゃう。でも時折仕事をしないで街で野菜を売ってるんだけど、それがすごく美味しいんだって」

 そして彼女が来た途端に、レノは饒舌に語り始めた。全て、昼間に出会った老人の受け売りだ。

「野菜?」

 彼女もまた、楽しそうに聞き返してくる。

「ああ、そっか。君は知らないのか。野菜っていうのは食べられる植物なんだけど、色鮮やかなものばかりなんだ。ほら、ちょうど君の鱗にそっくりな赤い色をした丸い野菜がある。トマトって言うんだけど、酸っぱくて、瑞々しくて、頬っぺたみたいにふっくらしているんだ。これくらいの大きさで、僕も時々食べるけどすごく美味しいよ」

 レノが両手の人差し指と親指で円を作ると、彼女は「えっ」と口を大きく開けて驚いた。

 夜の海は全てが静まり返っていて、二人の声はどこまでも飛んでいく海鳥のように響き渡っていた。

「そんなに大きい食べ物なの?」

「うん。そういえば君は普段何を食べているの?」

「もっと小さいのよ。小魚だって食べるけど、ほとんど目に見えないくらい小さな生き物ね。海水を飲み込むと喉に手応えがあって、呼吸と一緒にいつも何か食べてる感じかな」

「小魚……」

「何、意外だと思った? 海って弱いものは強いものに食われる世界なのよ。ただ綺麗なだけじゃない。私達の群れだって、ここには危険が少なくて食料も豊富そうだからやって来たのよ」

 レノは彼女が魚を生きたまま飲み込む瞬間を想像して、少し不気味に思った。だが、人間も捕まえた動物や魚を食べているという点では変わらない。

「ねえ、人間は野菜のほかに何を食べるの?」

「あとは君達と同じ魚や、肉を食べるよ。そうそう肉っていうのはね――」

「肉なら私も食べたわ。時々海にぷかぷか浮いてたりして、あなたと違って随分と膨らんでて、ちょっと臭いがきついけど意外と病みつきになっちゃうのよね。あれってあなたと同じ人間でしょ? きっと誰も助けてくれなかったのね」

 素っ気なく答える彼女は一体何を考えているのか、レノはだんだん怖くなってきた。

「…………そうだね」

 彼女が水死体を食べているところを想像すると、さっき以上に怖気が走る。さすがにぎこちない笑みにならざるを得ない。

「でも、そういえば君は僕を助けてくれたじゃないか」

「へ? ああ……まあね。こっちにも事情があるのよ。ねえ、それより話の続きを聞かせて」

 慌てている様子がレノにも明らかだったが、問い詰めようという気など毛頭なかった。レノ自身も、老人から聞いた話を話したくてしょうがなかったのだ。

「そう、人間は朝と昼と夜にご飯を食べるんだ。その度に家に帰ったり、誰かと一緒にお店に行ったり、楽しく喋りながらだと、とても美味しいんだって」

「あなたはいつも誰とご飯を食べるの?」

「僕は……父さんと、母さん」

 レノの頭の中で、水の中で目を開いたようにぼやけた過去がぶくぶくと気泡になって溢れ出した。

 彼女のエメラルドの瞳に覗き込まれながら、そこに映る自分自身にも見つめられながら、更に奥へと吸い込まれていった。いつか両隣に父と母がやって来てくれることを願いながら。

「そうなんだ。あなたはあの家で一人で暮らしてるかと思ってた」

 彼女の視線がレノから崖の上の家に移る。流されるようにレノも現実となった自らの夢の姿を見つめた。静かな夜の中で、白く塗られた木製の一軒家がぼんやりと浮かび上がっていた。物寂しさに囲まれながらも、必死に抵抗しているレノの夢は、その白さが逆に虚しかった。

「一人暮らしだよ」

「あれ、一緒にご飯食べてるんじゃないの?」

 互いに視線を戻す。彼女は首を傾げている。レノは再びその瞳から瞳へ潜っていこうとしたが、自身の目がひどく霞んでいたため先に進めなかった。

「食べてるよ。毎日、毎日」

「……もう、いないの?」

 レノは少し迷ってから頷いた。目の奥から何かが込み上げてきたので、思わず海を眺めた。黒い海が微笑んでいた。

「ここにいるよ」

「海の中?」

「そうじゃないけど、そうなのかもしれない」

「えっと……つまり海にあなたの両親がいるから、毎日海を眺めてるのね?」

 レノはまた頷く。今度は力強かった。

 言っていることは正しかったのに、推理は間違っていないのに、彼女の顔は優れない。

「海の何処にいるの?」

「だから、海にいるんだよ」

「寂しくない?」

「え?」

 レノの頭の中を駆け巡る過去が、急に溶け始めた。美しい海、夕焼け、父と母のいる海、父の涙、母の死、太陽……それらによってひた隠されてきた、開けてはならない宝箱が、彼女によって鍵を開けられてしまった。

「結局、あなたは独りぼっちだわ」

「そんなことないよ」

 差し込まれた鍵が回転すると、レノの過去も真っ逆さまになって落下する。空へ。誰もいない空へ。彼女は容赦なくその箱を開けて、中身をレノに突きつけてきた。今までずっと隠していたものを。

「この辺りに来てからしばらく経つけど、ずっとあなたのことを見てた。あなたは毎朝出かけて、夕暮れ前には必ず帰ってくる。一人でね。そして日が沈むまでずっと窓から海を眺めてる。夜はこの岩礁まで来て釣りをしてる。毎日がその繰り返し。私、街のことはまだよく知らないけど、あなたが何をしてるのかも全く想像できないの」

「…………」

「ねえ、聞いてる?」

 寂しさと虚しさ。何一つ変化のない日々。レノ自身、薄々気づいていた。

 夢を叶えた後の自分を、必死に誤魔化してきた。

 夢を叶えるために生きてきた日々が、夢に浸る日々に変わってから、果たして自分は生きていたのだろうか?

 何の変化もない時間を、ただ積み上げていただけではなかったか。

 海に助けを求めた。

 黒い海につられる形で、レノも口元を緩めてみた。途端に涙が零れた。

「あっ」

 止まらなかった。レノの心には箱の中身しか残っていない。

「あ、あ、あ」

 喉がひくひくと小さな悲鳴を上げる。座っているのに体のバランスが取れなくなって、舟の縁に手をかけた。

 彼女の方に身を乗り出してしまったため、舟が揺れて逆に彼女から離れてしまう。涙の筋は細かく千切れて海へ滴り続ける。

 悲鳴はやがて、弱弱しい鳴き声に変わっていった。涙の理由を忘れかけるまで、レノは泣き続けた。


「大丈夫?」

 レノが落ち着くまでずっとその場に留まっていた彼女は、ようやく声をかけた。レノは俯いたまま首を横に振った。

「ごめんなさい」

 また首を横に振る。

「本当に、ごめんなさい……」

今度は彼女が泣き出しそうな声音になったのを聞き、レノは反射的に顔を上げた。彼女の臍、乳房、鎖骨、首筋、頬。至る所に雫が滑っていた。まるでそれこそが涙であるかのように。

「どうして、君が」

「だって、私あなたに酷いことをしたわ」

「違うよ。僕のせいだ。ずっと見ないふりをしてきたから。本当は気づかなきゃいけなかったんだと思う」

「でも、今じゃなくたって……」

 彼女の顔から滴る雫を、レノは伸ばした手で受け止めた。

「僕は君と出会えて、すごく嬉しかった。何かきっかけが欲しかったんだ。何か、変われそうな、きっかけが。君に言われて、初めて街の人と話した。いろんな話を聞かせてもらった。君のためだけじゃなくて、僕のためでもあったんだ」

 レノは心に残った物を吐き出す勢いだった。

「僕は何も知らない。本当は街のことなんて全然知らない。嫌いだったんだ。父さんを轢いた馬車が走ってるから」

「……それなのに、私は街のことを聞こうとしちゃったのね」

「いや、いいんだ。君のおかげなんだ。君が僕を変えてくれる気がする」

 濡れた掌を覆うように拳を作り、レノは彼女を見つめた。呆気にとられていた彼女の表情が、だんだんと柔らかくなっていく。

 レノはその変化に確かな手ごたえを感じた。空っぽになった心に、少しずつ彼女の存在が注がれていくような気がした。

 思い出したように、鼓動の音が大きくなる。それを抑え込むようにレノは口を開いた。

「お願いだ。僕を、変えて欲しい」

 風が砂浜に向かって波を打ちつける。心臓は空気に晒した魚のように飛び跳ねている。彼女の沈黙を埋めるために、レノの中でまた過去が胎動していた。父と母ではない。ごく最近の、彼女との日々が蘇る。

「いつか、魔女に人間の足を貰って、人間として暮らしてみたい」

 彼女は穏やかに言った。

「でも魔女はその見返りにとても大事なものを要求してくる。きっと失ってからその大切さに気づくような、そんなものを。だから怖いの。どんなものを失ってでも、人間になりたいっていう決心がつかない」

 聞き覚えのある言葉だった。レノの中の過去と、ぴったりと一致する。ただ、前よりも少しだけ彼女を近くに感じた。

 レノの握り拳に、彼女の両手が包み込むように重なってくる。湿っていて、海水に近い水温だったが、冷たいとは思わなかった。

「私のことも変えて欲しい。街の魅力を教えて。人間のことを教えて。綺麗なところも、汚いところも、私に人間になるための勇気をちょうだい」

「……うん。わかった」

 レノはもう片方の手で、更に彼女の手を覆った。

「もし変われたら、あなたと一緒にご飯を食べてあげる」

 レノは笑った。彼女も同様に、互いに恥ずかしそうに笑った。



 ●



 海から飛び跳ねてしまいそうなほどの幸せとは、まさにこの瞬間だ。

 海中をどんなに早く駆けても、この衝動を抑えることはできない。

「楽しそうね」

 群れの仲間に言われる度に、この感情を沸騰させる出来事を包み隠さず話してしまいたい。

「そうなの! 今とっても幸せ!」

 醜い鱗も粗末な鰭も、彼が許してくれるのであればたちまち誇りに変わる。

 彼は私を変えてくれる。魔女の魔法すら及ばない域、深海よりも深い内面を変えてくれる。既に変化は始まっている。

 今夜も彼が待っている。私のことを、あの岩礁の奥で。

 もう、どうなってもいい。戻れないところまで来てしまったのだ。ここで彼に会うのを止めたとして、今後会わずにいられるだろうか?

 簡単な選択だ。行けば彼に会えるのなら、迷う必要なんてない。


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