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 翌朝、街を縦横無尽に巡っている石畳の片隅でレノは店を開いた。

 直径が腕の長さほどにも及ぶ桶の中で、小魚が一匹だけ泳いでいる。昨夜は人魚の女性との出会いもあって、一匹も魚を釣らずに家に帰ってしまった。

 普段なら一匹も釣れなかった次の日は、街に出向くことはない。だが今日は事情が違う。早朝に舟を出して、一匹だけ魚を釣ってきた。

 レノは決めていた。この魚を買ってくれる人が来たら、お金の代わりにその人から街のことを聞こうと。

 なるべく人通りが多そうなところを選ぼうと思っていたが、レノはいつも適当な場所を選んでいるし、街には魚を売る以外の目的では訪れなくなってしまったので皆目見当がつかなかった。改めて自分の知識の少なさを思い知らされる。

 街に暮らしている人々は普段何をしているのだろうかと、レノは想像を膨らませてみた。朝に魚を売っているとき、誰かがそれを買っていく。そしてその誰かは、魚を使った食事を取るだろう。しかしそれ以上進まない。

 まるで思考が、狭い桶に閉じ込められた魚のように抜け出せない。レノの桶からは、魚を買う瞬間の人間しか見えない。その後何をしているのかまでは、はっきりしなかった。

 また、夕日を眺めている時間はどうだろう。まさか全員が同じようにしているわけでもあるまい。

 完全な日没を見るには、水平線に臨む場所でなければならない。何を見て何を思っているのか、それとも何も思わないのか。考えれば考えるほど、頭の中の魚はぐるぐると回る。

 自分だけではどうしようもない――思考を打ち切ったレノは、次に周囲を見渡してみた。蛇行し枝分かれする石畳の両隣は、木製の民家が壁の様に並んでいる。

 遠くから誰かがやってきたが、レノには見向きもせず素通りしていく。また一人、一人、今度は反対側から。こちらにちらりと目を寄越す者もいれば、桶の中身を確認して過ぎ去っていく者もいる。

 歩いてくる者、小走りしている者――段々と増えていく人間の往来は、いつしかレノの目に魚のように映っていた。海の中を覗き込めば、様々な魚が様々な速度で泳いでいるのと似ている。

 レノはぼんやりと、人間は魚なのだという意識を強めていった。

 では、それを見ている自分は誰なのだろうと疑問に思った。しかしその答えはすぐに出てきた。

 自分も魚だ。その場で立ち止まり、岩場の隙間に身を置いて静かに佇む魚だ。魚は同時に太陽のように、レノを反射させ事実を教えてくれたのだ。時折馬車が駆け抜けていくが、これがないだけ海は平和だと実感する。

「おや、今日はここにいたのか」

 時間の経過につれてざわつき始めた魚達に紛れて、はっきりと聞こえる声があった。それはいつの間にか近くに立っていた老人からだったのだと気づいた。目が合うと、老人は皺くちゃの顔に更に皺を寄せて微笑んだ――少なくともレノにはそう見えた。

「魚は一匹だけか。ならこれくらいで足りるかい?」

 老人はしゃがれた声で言いながらレノに歩み寄り、ポケットの中から銅貨を二枚取り出した。

「いえ、お金は、いいんです」

 レノは差し出された銅貨を受け取らなかった。緊張していた。人魚の彼女を目にしたときと、似て非なる心臓の脈動が声を上ずらせている。

 老人はぽかんと口を開けてしばらく呆然としていたが、やがて急に笑い出した。虫に食われたような歯並びが見える。

「なんだ。お前さん、喋れたのか」

「え?」

「いつも無口だから、てっきりそういう病気なのかと思っちまったよ。どうして今まで喋らなかったのさ?」

「えっと、それは……」

 レノは言葉に詰まった。魚を売ってる間はずっと夕暮れにならないかと期待していたし、そもそも街を嫌っていたせいか街の全てを――そこに住む人々も含めて拒絶していたのかもしれない。今まで注意を向けていなかっただけだったのだ。今日以外にも、誰かに話しかけられていた日があったのかと思うと、なんだか申し訳なかった。

「すいません。朝は、ちょっと眠くて」

「ははは。それで今日は珍しく平気なのか。でお金はこれじゃ足りないか? それとも多過ぎるのか?」

「いや、実は……」

 代金の代わりに話を聞かせて欲しいと伝えると、老人はまた笑った。本当にそれでいいのかと聞かれたので、しっかりと首を縦に振った。さすがにレノが本気であることを察したのか、老人は考え込むように瞳を閉じた。

「この街のこと、か。何を話せばいいのやら、確かに魚のお駄賃には丁度いい」

 話してから気づいたことだが、この老人はかつてレノの働いていた製糸工場の工場長であった。


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